表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/76

前に進む者と、立ち止まる者

 11月の土曜日。空は高く、乾いた風が現場を抜けていった。月島工匠の現場では、朝から刻みの音が響いていた。鋸の音、玄翁の音、誰かの短い合図。その中に、琴葉の姿があった。重が、腰袋を直しながら琴葉に声をかけた。

「……和は、まだふさぎ込んだまんまか?」

琴葉は、手を止めずに答えた。

「はい……」

重は、ふっと息を吐いた。

「しょうがねえよ。あんなに仲良かった恋ちゃんが、いなくなっちまったんだもんな。仁吉も月もまだ元気ねえしな」

朝事務所で出がけに挨拶をした仁吉の背中も、どこか重く見えた。重は空を見上げ、ぽつりと続けた。

「だがな。一つの扉が閉じたら、別の扉が開くもんだ。今は、まだその時じゃねえだけだ」

心太が、作業台の脇から声をかける。

「五輪の練習は、どうしてるの?」

琴葉は、少し間を置いてから答えた。

「学校には来てるんです。でも、授業が終わると、すぐ帰っちゃって……どこに行ってるかは、沙紀ちゃんも分からないって」

心太は、眉をひそめた。

「……そうか」

「琴葉は?」

重さんが聞く。琴葉は、鉋を置き、ゆっくりとうなずいた。

「……続けてます」

そして、はっきりとした声で言った。

「和也君が戻ってきた時に、僕が教えてあげないといけないから」

重さんは、その言葉を聞いて、何も言わずに頷いた。


 同じ時間。氷山総合公園。池の噴水の前のベンチに、和也は一人座っていた。水が上がり、落ちる。その繰り返しを、ただ見つめている。時間の感覚は、なかった。頭の中には、何度も同じ光景が浮かんでは消える。恋の笑顔。事務所前で手を振る姿。「頑張ってね」という声。

――戻らない。

分かっているのに、体が動かなかった。


 その頃、実習場では。神門が、琴葉の隣に膝立ちになり、低い声で言っていた。

「鋸、もう一度。引き始めで力を入れすぎない。腕で引かない、腰で引く」

琴葉は、うなずき、鋸を引き直す。

「そうだ。その調子」

鋸の持つ体の材への位置、鑿の扱い、玄翁の振り。一つ一つが、さらに高いレベルで詰められていく。


 11月中旬。総合型推薦入試の日。在校生は休校だった。実習場の入口に、一人の面接試験を終えた男子高校生が立っていた。中から、木を叩く音が聞こえる。ガラス越しに中を覗くと、琴葉が一心に加工をしていた。そこへ、スーツ姿の坂崎がやってくる。

「おや、どうしたの美山君」

「帰ろうと思ったら……実習場の方から音がして」

「今日は、学生は休みなんじゃないですか?」

「そうだよ」

坂崎は、ガラス越しに中を見た。

「でも、彼女は特訓中でね」

琴葉が、仮組した部材を確認している。

「……ほう。この時間で、もう組めるようになってきたか」

坂崎は、目を見張った。

「すごいですね……あの先輩。女性なのに無駄のない動きです」

坂崎は、静かに微笑んだ。

「そうだね。美山君も、4月に入学してきたら、いろいろ教わるといい。今のうちの、一番だからね」


 夕方。再び、公園。

「……なにを見てるの」

背後から、沙紀の声がした。和也は、振り返らない。

「……」

沙紀は、ベンチの横に立った。

「恋はさ……お前が、全国大会に行くの、楽しみにしてたんだぞ」

和也は、何も答えなかった。

「それでも、動かないのか?」

沈黙。沙紀は、歯を食いしばった。

「……ばかやろう」


 その夜。和也の部屋のドアが、静かに開いた。沙紀だった。ベッドに座っていた和也の横に腰をおろした。

「これ、見ろ」

スマホの画面を差し出す。LINEの履歴。恋とのやり取り。

『和也と琴葉ちゃん、全国大会に出られるといいね』

『私と風香は心配性だから、二人が辛そうだったら止めちゃうかもしれないけど、お姉ちゃんは、和也の尻、叩いてやってね』

文字が、滲んだ。涙が、こぼれ落ちた。

「……私は、恋と約束したんだ」

沙紀は、低い声で言った。

「だから、ずっとお前を、恋に代わって応援してやる。ずっと、そばにいてやる」

ベッドの上。沙紀は、隣に座り、和也を抱きしめた。和也は、初めて声を上げて泣いた。

 止まっていた時間が、ほんのわずか、軋みながら動き始めていた。


第66話の投稿になりました。練習の手を止めずに待ち続ける琴葉。恋との約束から和也を包みながら後押しする沙紀。和也は再び一歩を踏み出せるでしょうか。

次回は戻ろうとしても戻れない和也の葛藤です。

お楽しみいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ