前に進む者と、立ち止まる者
11月の土曜日。空は高く、乾いた風が現場を抜けていった。月島工匠の現場では、朝から刻みの音が響いていた。鋸の音、玄翁の音、誰かの短い合図。その中に、琴葉の姿があった。重が、腰袋を直しながら琴葉に声をかけた。
「……和は、まだふさぎ込んだまんまか?」
琴葉は、手を止めずに答えた。
「はい……」
重は、ふっと息を吐いた。
「しょうがねえよ。あんなに仲良かった恋ちゃんが、いなくなっちまったんだもんな。仁吉も月もまだ元気ねえしな」
朝事務所で出がけに挨拶をした仁吉の背中も、どこか重く見えた。重は空を見上げ、ぽつりと続けた。
「だがな。一つの扉が閉じたら、別の扉が開くもんだ。今は、まだその時じゃねえだけだ」
心太が、作業台の脇から声をかける。
「五輪の練習は、どうしてるの?」
琴葉は、少し間を置いてから答えた。
「学校には来てるんです。でも、授業が終わると、すぐ帰っちゃって……どこに行ってるかは、沙紀ちゃんも分からないって」
心太は、眉をひそめた。
「……そうか」
「琴葉は?」
重さんが聞く。琴葉は、鉋を置き、ゆっくりとうなずいた。
「……続けてます」
そして、はっきりとした声で言った。
「和也君が戻ってきた時に、僕が教えてあげないといけないから」
重さんは、その言葉を聞いて、何も言わずに頷いた。
同じ時間。氷山総合公園。池の噴水の前のベンチに、和也は一人座っていた。水が上がり、落ちる。その繰り返しを、ただ見つめている。時間の感覚は、なかった。頭の中には、何度も同じ光景が浮かんでは消える。恋の笑顔。事務所前で手を振る姿。「頑張ってね」という声。
――戻らない。
分かっているのに、体が動かなかった。
その頃、実習場では。神門が、琴葉の隣に膝立ちになり、低い声で言っていた。
「鋸、もう一度。引き始めで力を入れすぎない。腕で引かない、腰で引く」
琴葉は、うなずき、鋸を引き直す。
「そうだ。その調子」
鋸の持つ体の材への位置、鑿の扱い、玄翁の振り。一つ一つが、さらに高いレベルで詰められていく。
11月中旬。総合型推薦入試の日。在校生は休校だった。実習場の入口に、一人の面接試験を終えた男子高校生が立っていた。中から、木を叩く音が聞こえる。ガラス越しに中を覗くと、琴葉が一心に加工をしていた。そこへ、スーツ姿の坂崎がやってくる。
「おや、どうしたの美山君」
「帰ろうと思ったら……実習場の方から音がして」
「今日は、学生は休みなんじゃないですか?」
「そうだよ」
坂崎は、ガラス越しに中を見た。
「でも、彼女は特訓中でね」
琴葉が、仮組した部材を確認している。
「……ほう。この時間で、もう組めるようになってきたか」
坂崎は、目を見張った。
「すごいですね……あの先輩。女性なのに無駄のない動きです」
坂崎は、静かに微笑んだ。
「そうだね。美山君も、4月に入学してきたら、いろいろ教わるといい。今のうちの、一番だからね」
夕方。再び、公園。
「……なにを見てるの」
背後から、沙紀の声がした。和也は、振り返らない。
「……」
沙紀は、ベンチの横に立った。
「恋はさ……お前が、全国大会に行くの、楽しみにしてたんだぞ」
和也は、何も答えなかった。
「それでも、動かないのか?」
沈黙。沙紀は、歯を食いしばった。
「……ばかやろう」
その夜。和也の部屋のドアが、静かに開いた。沙紀だった。ベッドに座っていた和也の横に腰をおろした。
「これ、見ろ」
スマホの画面を差し出す。LINEの履歴。恋とのやり取り。
『和也と琴葉ちゃん、全国大会に出られるといいね』
『私と風香は心配性だから、二人が辛そうだったら止めちゃうかもしれないけど、お姉ちゃんは、和也の尻、叩いてやってね』
文字が、滲んだ。涙が、こぼれ落ちた。
「……私は、恋と約束したんだ」
沙紀は、低い声で言った。
「だから、ずっとお前を、恋に代わって応援してやる。ずっと、そばにいてやる」
ベッドの上。沙紀は、隣に座り、和也を抱きしめた。和也は、初めて声を上げて泣いた。
止まっていた時間が、ほんのわずか、軋みながら動き始めていた。
第66話の投稿になりました。練習の手を止めずに待ち続ける琴葉。恋との約束から和也を包みながら後押しする沙紀。和也は再び一歩を踏み出せるでしょうか。
次回は戻ろうとしても戻れない和也の葛藤です。
お楽しみいただければ幸いです。




