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失われた日常

 10月半ばの朝は、少し肌寒かった。玄関で靴を履きながら、和也は背中越しに声をかけられた。

「今日も、遅いの?」

振り返ると、恋が台所の入り口に立っていた。制服の上に羽織ったカーディガン。その姿は、ここ最近ずっと変わらない日常そのものだった。

「うん。やっと墨付けが終わってさ。昨日から木削りと加工の練習に入ったんだ」

「そうなんだ」

恋は少し安心したように笑った。

「今月中には、通して出来るようになりたいから」

「頑張ってるね。でも……」

一瞬、恋の表情が曇る。

「あんまり無茶はしちゃだめだよ。膝、大丈夫?」

「大丈夫だよ。今のところ、問題ない」

そう答えると、恋は少しだけほっとした顔をした。

「和也が、全国大会に出られるといいな」

「うん。頑張るよ」

何度となく交わしてきた、いつもの会話。特別な言葉はなかった。約束も、予感もなかった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

その日常が、最後になるなんて思いもしなかった。

午後。工作実習で兜蟻掛けの課題を仕上げ、放課後の練習に備えて研ぎ場で鑿を砥石に当てていた。金属が砥石を滑る音が、一定のリズムで続く。

そのときだった。

スマートフォンが震えた。画面を見ると、沙紀の名前。

――こんな時間に珍しい。

時刻は、午後4時半を少し過ぎていた。

「……もしもし?」

返ってきた声は、いつもの沙紀のものではなかった。

『和也。落ち着いて聞いて』

その一言で、胸の奥がざわつく。

『恋が、学校の帰りに車に撥ねられた』

言葉が、理解できなかった。

『今、私も病院に向かって大学出たとこ。すぐ帰る準備をしろ。私が迎えに行く』

通話が切れた。音が、消えた。砥石の上に置いた鑿が、静かに転がったのを、和也は遠くで見ていた。

「……和也君?」

不安げな声で、琴葉が覗き込む。

「どうしたの?」

和也は、うまく声が出なかった。

「……恋が、事故にあった」

それだけ言うのが、精一杯だった。

沙紀の車で、琴葉と一緒に病院へ向かった。車内では、誰も言葉を発さなかった。

病院に着き、白い廊下を進む。曲がり角の先に、人影があった。仁吉と、月。二人は、無言で椅子に座り、うつむいていた。その姿を見た瞬間、和也の足が止まった。それ以上、何も聞く必要はなかった。

次の記憶は、曖昧だ。

白い部屋。横たわる恋。触れた手は、冷たかった。声をかけても、返事はなかった。

「……なんで……」

崩れ落ちた自分の声が、誰のものだったのかも分からない。

隣で、琴葉が泣いていた。声を出さず、ただ涙だけを流していた。

沙紀は、叫ぶように泣いていた。その光景を、和也はどこか遠くから見ているような感覚だった。

気がつくと、葬儀の日になっていた。

黒い服。線香の匂い。遺影の中の、いつもの笑顔。

望も、雄介も、あいりも、ほのかも来ていた。雄介が、焼香を終えて戻ってきたとき、ぽつりと呟いた。

「……なんでや……」

誰も、答えられなかった。和也は、遺影を見つめたまま、動けずにいた。涙は、もう出なかった。

頭の中が、空っぽだった。恋のいない世界が、その日から、静かに始まってしまった。

和也の時間は、そこで止まっていた。


第64話目の投稿になりました。突然の恋の死。別れは突然でした

次回は二回目の喪失感に和也が無気力になってしまします。

お楽しみいただければ幸いです。

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