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黄色い申込書

 9月の最終週。朝晩の空気が、ようやく夏の名残を手放し始めていた。放課後の建築実習場。その日は、いつもより人が少なかった。二年生の何人かは別課題で別棟に回され、実習場の一角に残っていたのは、和也と琴葉、そして坂崎だった。坂崎は、作業台の引き出しから一枚の紙を取り出した。少し厚手で、目立つ色をしている。

「はい」

差し出されたそれは、黄色い申込書だった。

「技能五輪県予選大会の申込書」

坂崎は淡々と説明する。

「締切は、10月の第2週。2年生と一緒にまとめて提出するよ」

和也と琴葉は、顔を見合わせた。いよいよ、という実感が、静かに胸に広がる。

「でね」

坂崎は、申込書の下の方を指で叩いた。

「君たちと、2年生の違いはここ」

そこには、事業所代表者欄があった。

「2年生は、代表者印は押さない。資格取得のためだからね。でも君たちは違う」

坂崎は一拍置く。

「君たち二人は、学校の公印を押して提出する」

琴葉が、わずかに目を見開いた。

「それはつまりね」

坂崎は続ける。

「もし全国大会の推薦が来た場合、学校として了解する、という意味になる」

和也の背筋が、すっと伸びる。

「ただし」

坂崎はすぐに言葉を足した。

「校印が押してあっても、全国大会に出られるとは限らない。推薦が来るかどうかは、作品の出来次第だからね」

黄色い紙が、急に重く感じられた。坂崎は、二人を見た。

「もう一度だけ、確認するよ」

静かな声だった。

「本当に、申し込むかい?」

一瞬の沈黙。しかし、それは迷いではなかった。

「申し込みます」

和也が言った。

「お願いします」

琴葉も、間を置かずに続けた。

その即答に、坂崎はほんのわずかに目を細めた。

理由は分からないが、その表情はどこか嬉しそうにも見えた。

「じゃあ、今書こうか」

その場で、申込書を記入させた。名前、学年、課程。震えることはなかった。

「参加料は9200円ね」

坂崎が言う。

「一週間以内に持ってきて。まとめて振り込むから」

ペンを置いた瞬間、琴葉が小さく息を吐いた。

――もう、戻れない。

だが不思議と、怖さよりも静かな覚悟の方が勝っていた。

申込書を回収すると、坂崎はすぐに話題を切り替えた。

「じゃあ、練習の続きいこうか」

4日前から始まっていた、墨付け練習。

木削りは一旦飛ばし、自動一面鉋盤で仕上がり寸法に加工した杉材が用意されていた。

「今日は、筋違い」

作業台の上に置かれた一本の材。坂崎は、ポケットからフリクションボールペンを取り出した。

「墨付けは、これを使う」

「ボールペン……ですか?」

和也が聞く。

「そう。練習用ね」

坂崎は笑った。

「一度線を引いたら、ドライヤーで温めると消える。何度でも同じ材で練習できる」

合理的だった。

「筋違いと振れ垂木は、本来は現寸図から写す。でもね……」

坂崎は続ける。

「県大会は、勾配が大会当日まで変わらない。だからCADで出した数値を覚えて、差し金で直接墨付けする方法を使う」

作業床の現寸図上に置かれたCAD図面を指す。

「寸法は三カ所だけ。覚える勾配は五種類」

そう言って、坂崎は起点となる一点にペン先を置いた。

「ここから始める」

最初の一回目は、すべて説明しながらだった。

角度、寸法、差し金の当て方。

それでも、10分もかからず墨付けは終わった。

「次」

坂崎は、同じ材にドライヤーを当てる。線が、みるみる消えていく。

「今度は通しで」

今度は説明なし。

差し金が走り、ペンが迷いなく動く。

3分もかからなかった。

「……」

和也と琴葉は、言葉を失った。

墨付けの終わった筋交いを、坂崎は現寸図に当てる。

ぴたり、と合った。

「はい」

坂崎は用意しておいた二人の材を差し出す。

「じゃあ、やってみようか」

放課後の時間が、あっという間に過ぎていった。

練習を終え、実習場を出ると、琴葉がぽつりと言った。

「……申し込んじゃったね」

和也は、苦笑する。

「うん。サイン、しちゃった」

「戻れないね」

「戻らないよ」

その夜、家に帰って、恋と沙紀、風香に報告した。

「技能五輪、正式に申し込んだ」

「……ついにか」

沙紀が腕を組む。

「すごいよ。応援するね」

恋は、少し驚いた顔で笑った。

「大変そうだけど……」

風香が心配そうに見る。

「でも、やるって決めたなら、応援するよ」

翌日、学校で雄介達にも話した。

「え?」

「申し込んだ?」

数秒の沈黙の後――

「とうとう死刑執行書にサインしたんか……」

雄介が天を仰ぐ。

「なんでや~~!!」

教室中に、どっと笑いが広がった。和也は、その声を聞きながら思った。

――もう逃げ道はない。

――でも、不思議と、後悔はない。

黄色い申込書は、ただの紙切れじゃなかった。

それは、自分達の覚悟を形にした、最初の一線だった。



第63話目の投稿になりました。ついに技能五輪の県予選申し込んでしまった和也と琴葉。墨付けの練習も始まり。ここからが本当のスタート。ちなみに我が県では技能五輪全国大会の県予選課題が、2級技能検定実技課題になっており、学生たちは資格取得のために受験します。合格すると技能証がもらえ、2級技能検定の実技が合格したことになります。卒業時に受験する技能照査で学科、実技に合格すると技能照査合格証が卒業時に修了証書とは別にもらえて、申請で2級技能士をもらえます。本作品はこの条件の中で書かれています。

次回は申し込みの終わった和也達に厳しい現実が‥

お楽しみいただければ幸いです。

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