覚悟は木屑の中で決まる
土曜日。朝から空は高く、雲が薄く流れていた。
月島工匠の作業場は、いつも通りの音に満ちていた。丸鋸の唸り、玄翁の乾いた音、誰かの短い掛け声。和也はヘルメットを被り、作業着の袖をまくると、材の搬入を終えたところだった。
「和君、今日は刻みかい?」
声をかけてきたのは心太だった。作業場の隅で、鉋台を調整している。
「はい。午前中は鴨井・敷居の刻みです」
「いいね。じゃあ昼まで集中だね」
いつもと変わらない会話。だが、和也の中では、昨日からずっと同じ言葉が回り続けていた。
――技能五輪。
坂崎の目。「もっと、いけるかな」という言葉。鑿を持つ手に、わずかな迷いが走る。
「……和君」
心太は、その変化を見逃さなかった。
「今日、なんか違うね」
「え?」
「手は動いてるけど、頭が別のとこ行ってるよ」
和也は、苦笑いを浮かべた。
「……分かります?」
「分かるよ。現場に立ってりゃ、そういうのは」
昼休み。二人は作業場の外、仮設のベンチに腰を下ろした。弁当の蓋を開けると、夏の風が木屑の匂いを運んでくる。和也は、箸を止めた。
「心太さん……」
「ん?」
「技能五輪って、知ってますか」
心太は、一瞬だけ目を細めた。
「ああ……そっちか」
和也は坂崎から言われたこと、自分の今の気持ちを伝えた。
箸を置き、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「すごいじゃないか」
その一言は、驚くほど自然だった。
「この数年近く、うちの県から建築大工で代表は出てなかったはずだよ」
「……え?」
「昔はね、代表一人出すのに、県から百万円以上補填があったって聞いてる。材料費、旅費、指導費。全部ひっくるめてさ。でも財政が厳しくなって、だんだん代表を出せなくなったんだよ」
和也は、息をのんだ。
「7~8年前までは、伊藤建築工業さんが社員を全国大会に出場させていたけどね。それでも給料払って、現場仕事させないで五輪の練習させてるの大変って来ていたよ。まぁ、いい宣伝にはなるけどね。でも人手不足でその余裕がなくなったみたいで参加取りやめて、それ以来うちの県からは出場してないね」
「じゃあ、それでも話が来たってことは……」
心太は、和也を見た。
「よっぽど、君の能力に惹かれたんだと思うよ」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「でも……きついんですよね」
「きついと思うよ」
即答だった。
「僕が学生の頃は、もう全国大会にアカデミーから出場させていなかったけど、先輩から聞いた話では、放課後、土日、長期休み。普通に実習も授業もある中で、検定課題をやる。正直、楽じゃないって聞いたよ」
和也は、視線を落とした。
「脚も……まだ完璧じゃないですし」
心太は、少し間を置いてから言った。
「それでもさ……」
「和君。今の君が“やらなかった後悔”を一番引きずると思うんだよ」
和也の心臓が、強く打った。
「出来るかどうかは、正直やってみないと分からないし。予選受けたからって全国への出場推薦が来るとは限らない。でも、やらないって選択は、ずっと残る」
木屑が風に舞う。桧の匂いがあたりに漂っていた。
「僕さ……」
心太は、少し笑った。
「在学中は、坂崎先生の言ってる意味、半分も分かってなかった。実際うるさいなって思ってたし。でも現場に出て、失敗して、怒られて、ようやく分かった」
和也を見る。
「今、君はすでにその“分かる手前”にいる。これは、なかなか来ない位置だよ」
しばらく、二人とも黙ったままだった。
和也は、自分の脚を見る。傷は残っている。怖さも、消えていない。
それでも。
――このまま、目を逸らしていいのか。
鑿を握る手の感覚。玄翁を穿つ手の感覚。そして……木が応えるあの感触。
「……心太さん」
「ん?」
「やってみます」
声は、小さかったが、はっきりしていた。
「つらくても、怖くても。やらない後悔の方が、きっと……」
心太は、ゆっくりとうなずいた。
「そう言えるなら、大丈夫だね」
午後。作業に戻った和也の動きは、朝とは違っていた。迷いが、消えていた。
刻み終えた材を見つめながら、和也は心の中で呟く。
――やる。
――全力で。
その夜、家に帰ると、リビングに灯りがついていた。
「おかえり」
恋が立ち上がる。
「決めたの?」
和也は、深く息を吸った。
「……うん。挑戦する」
一瞬の沈黙。次の瞬間。
「よし!」
沙紀が拳を握った。
「それでこそだろ。やるなら、全力だ」
「お兄ちゃん……」
風香が少し不安そうに見上げる。
「無理しすぎないでね」
和也は、笑った。
「無理はする。でも、無茶はしないよ」
恋は、そっと手を伸ばして和也の袖をつかんだ。
「じゃあ……私も、支える」
その言葉が、何より心強かった。
夜更け。布団に入った和也は、天井を見つめる。怖さは、まだある。不安も、消えていない。それでも……
――火は、もう消えない。
和也の中で、確かに何かが燃え始めていた。
第59話目の投稿になりました。和也が技能五輪への挑戦を決意しました。ここから坂崎・神門コンビによる、特訓が始まります。
次回は特訓開始です。
お楽しみいただければ幸いです。




