選ぶ距離
大会まで、あと1週間。土曜の通し練習は、夜まで続いた。初日午前想定の現寸と木削り。午後の墨付け。
想定した制限時間内で作業を終えられるようになった。精度も崩れない。だが、二人は止まらない。通し練習を終えた後も、鉋を研ぎ直し、もう一度木削りを行う。削り屑が積もる。天然砥石で整えた刃は、確かに木に吸い付く。
——刃は整った。
それでも。
「今日はここまでだね」
坂崎の声で、ようやく道具を置く。
実習場から出ようとしていたとき、聞きなれた軽自動車のエンジン音が響いた。
「姉ちゃん‥」
和也が言う。
駐車場には、沙紀の車。
「乗れ」
後部座席に並んで座ると、沙紀がバックミラー越しに2人を見る。
「今日は月島家だ。飯、用意してある」
「え?」
「久々に顔見せろって」
琴葉は一瞬戸惑い、そして頷いた。夏休み前から、二人はバイトを休んでいる。大会に集中するためだ。琴葉が月島家に行くのは、お盆明けぶりだった。
月島家の事務所に通される。入口の引き戸が開く。
「久しぶり」
低く落ち着いた声。心太が、作業着のまま立っていた。現場帰りらしく、袖口に木の粉が残っている。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです」
琴葉が少しだけ緊張して頭を下げる。和也も続く。
「手、大丈夫かい」
心太は、琴葉の左手を見る。
「はい。もうほとんど問題ないです」
「無理しちゃだめだよ。怪我は忘れた頃に来るからね」
穏やかな優しい口調だった。
風呂に入って着替えてから、和室で大きなテーブルの食卓を囲む。テーブルからはみ出しそうな大皿料理。鍋の湯気が立ちのぼる。すでに月島工匠の大工達は仁吉を筆頭にグラスを傾けていた。変わるがわる激励の言葉をかけてくれる。月と朱莉、沙紀と風香が料理と酒を運ぶ。
月島工匠職人達の話し声、箸の触れる音。実習場とは違う、生活の音。
「あと1週間か」
心太が箸を置く。
「はい」
「焦るなよ」
その一言に、琴葉の指が止まる。焦っていないわけじゃない。天然砥石で整えた刃の感触。あの軽さ。
——あれを、本番で出せるのか。
「学んできたことを、気負わず試してみて」
静かな声だった。
「通用するかどうかは、その場で分かる。今は積み上げたもんを信じて」
和也が、小さく頷く。
「……はい」
琴葉も続く。
心太は、二人を順に見た。
——並んでいる。
距離は近い。だが、寄りかかってはいない。互いに、自分の足で立っている。心太は、ふっと息を吐いた。
――そうか
胸の奥で、何かが静かに決まる。まだ言わない。今は、言う時じゃない。
「大会、見に行くよ」
「本当ですか?」
琴葉の目が明るくなる。
「本当だよ」
和也は、どこか安心したように笑った。
夜。沙紀の部屋で、琴葉は布団を敷いていた。
「お盆ぶりだな」
沙紀が笑う。
「……はい」
電気を消す。暗闇。今日、心太に会った。嬉しかった。
でも——胸は、あの日のようには鳴らなかった。
安心する。尊敬している。だけど。
――違う、分かった。
それは、loveではなく、like。
好き。でも、恋ではない。
そして——実習場での、あの横顔。天然砥石で仕上げた刃を、黙って光にかざす姿。鑿を入れる瞬間の、息を止めた表情。隣で重なる削りの音。和也の後ろ姿が、浮かぶ。胸の奥が、静かに熱を帯びる。あの熱は、怖くない。むしろ、落ち着く。砥石で整えた刃のように、少しずつ、澄んでいく。
――そっか
自分の気持ちに、触れる。
でも‥今は、それを変える時じゃない。
刃は整った。あとは心だ。心も、焦らず、研げばいい。今の距離でいい。並んで、削る。それが、いちばん自然だ。
沙紀が部屋から出ていく。和也の部屋に行ったのだろう。
今日1日を振り返っている。和也はどんな顔で沙紀に話をしているのだろう。きっと自分には見せない弱い自分をさらけ出して、沙紀はそれを励ましているのだろう。
琴葉は、目を閉じた。大会まで、あと一週間。
選ぶのは、未来じゃない。
今、並ぶ距離だ。その距離を、守る。
第103話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。
いよいよ全国大会まで1週間。大きなプレッシャーの中、練習の成果を二人は発揮できるでしょうか。
次回は 翌日の練習です。お楽しみいただければ幸いです。




