砥石の音
日曜の通し練習が終わった頃には、空はすでに薄い群青に変わっていた。削り屑が足元に溜まり、実習場の空気はまだ温かい。
「今日はここまでだね」
坂崎の声で、二人は道具を片づけ始める。琴葉は鉋の刃先を見つめた。光はある。欠けもない。だが——どこか、もう一段上がある気がしていた。
「研ぎ、見せてやるか」
石崎がぽつりと言う。神門が、にやりと笑った。
「師匠の十八番ですね」
「お前も覚えたはずだ」
作業台に、砥石が並ぶ。
シャプトン。1000番。3000番。6000番。12000番。
「今はこれで回してます」
和也が言うと、神門が頷く。
「倍、倍、倍。粒度は飛ばすな。焦るな。それが基本だ」
「はい」
琴葉は、砥石に水をかける。
シュッ、と最初の音が響いた。刃と砥石が擦れる、低く均一な音。
「力入れるな」
石崎が言う。
「刃の重さだけでいい」
1000番。刃返りを出す。返りを確認。
3000番。音が変わる。
6000番。砥石上の水が白く濁る。
12000番。ほとんど音が軽くなり、消える。
神門が言う。
「ここまでは理屈だ。安定は出る」
石崎は、静かに風呂敷を広げた。中から、古びた砥石が現れる。深い緑と、薄茶が混じる肌。
「……天然?」
琴葉が思わず呟く。
「シャプトンもいい石だ。工業製品としては。だが最後は、これだ」
石崎は天然砥石を水に浸す。表面を軽く撫でる。
「仕上げは、石が決める」
鑿を置く。シュ……。音が違う。
擦れる、というより、吸い付く。刃が石に溶けるように走る。往復は少ない。十数回で止める。
「いい」
石崎は刃を光にかざす。鏡のような鋼。
「使ってみろ」
和也が部材を押さえる。琴葉が鉋をあてた。
スッ——。音が、消えた。削り屑が、絹のように薄く巻く。
「……軽い」
琴葉が、驚いたように言う。和也も、鉋を走らせる。シュルッ、と長い削り華が出る。
「刃が立つと、木が逃げない」
石崎が言う。
「刃はな、心を映す」
神門が、苦笑した。
「師匠、またそれですか」
「事実だ」
和也は、刃を見つめる。自分たちの研ぎと、何が違うのか。
「大会まで、貸してやる」
石崎が言った。
天然砥石を、そっと二人の前に置く。
「……え?」
琴葉が顔を上げる。
「これ、師匠のお気に入りじゃないですか」
神門が本気で驚いた顔をする。
「そうだ」
「いいんですか?」
「刃が立たなきゃ意味がない」
石崎は、二人を順に見る。
「今の研ぎなら、使える」
静かな評価だった。和也は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
琴葉も続く。坂崎が、腕を組みながら言う。
「僕は理論でしか教えられないからね」
「坂崎君には理論では及ばないよ」
石崎が笑う。
「だが刃は理屈だけじゃ立たん」
実習場の空気が、また少し変わった。技術の話が、いつの間にか、人の話になっている。神門が小さく言う。
「師匠は砥石のマニアだ。天然石コレクションは誰も敵わない。研ぎに関しては右に出る人はいないよ」
「余計なこと言うな」
だが、石崎の目は穏やかだった。琴葉は、天然砥石に指を触れる。
――冷たい。
だが、奥に温度があるような気がした。和也が、そっと言う。
「……これで、行こう」
「うん」
大会まで、あと二週間と五日。
刃は、整った。あとは、心だ。
第102話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。
研ぎ物を極めようとすると、人口砥石から始まり、倍倍倍の法則で番数を上げていき、天然砥石に行きつきます。私の職場にも、砥石の、もはやコレクターの方がいます。実際に使わせていただくと、人口砥石とはやっぱり違います。その方の鉋の仕込み方はもはや、達人並みですが、日々勉強しておられます。極めるって奥が深いものです。琴葉と和也その世界に足を踏み入れたのかもしれません。
次回も特訓が続きます。
お楽しみいただければ幸いです。




