幕間① とある愚かな母親の回想 side 女王
私の愛しい娘はどんな時でも美しいわね……
柄にもなく、そんな言葉が頭に浮かぶ。
華奢で妖精のように儚げなフェリシアの足元から氷の幕が這い上がっていって、それが何層にも重なっていく。
我が娘はいわれのない罪で糾弾されても、自棄になることもなくただ静かに綺麗な氷の中に閉じこもって、自分を眠らせた。
「ゆっくり、お休み。フェリシア」
その様を見て、思わずつぶやく。
人を傷つけたり、人を攻撃することなんて一つも考えていないんでしょうね。
周りの人間がただ私欲をむさぼり、自分を傀儡として利用しようとしてるだなんて思ってもみない。
私なんかよりよっぽど、妖精の本質を持った子だわ。
汚れなく真っすぐで善良で純粋で。
なんでこんな腐った国に生まれてきちゃったのかしらね?
なんでこんな無力で愚かな母親の元に生まれてきちゃったのかしらね?
膨大な魔力を持ち数多くの魔術を扱えるのに、王国に飼い殺されている傀儡の女王である私。
この国の腐敗具合に絶望していても、なにもできない。
諦めてただ見ているうちに、娘は断罪されてしまった。
私にはフェリシアを救う力もないから、フェリシアとともに生を終わらせようと思ってここに来たのに。
窮地に追い込まれて、フェリシアは魔術を教えられていないのに、本能的に氷の中に自分を閉じ込め深い眠りについてしまった。
その顔は見たことがないくらい穏やかで、幸せそうだ。
きっと厚い氷に覆われているうちは、誰かに傷つけられることも解決しない問題に悩まされることもないだろう。
でも、フェリシアの不在で困った人々はきっとなんらかの手段を講じて、この穏やかな眠りから無理やり起こそうとするだろう。
「あー、どうしたもんかしら?」
ため息をついて、この部屋にいるもう一人の男を見た。
厚い氷に包まれたフェリシアの傍らで、元婚約者のジェレミーが涙を流して立ち尽くしている。
部屋の片隅で気配を消して見守っていた私に気づいてもいないようだ。
「あの子に希望を託すしかないのかしらね?」
ジェレミーの眼には普段宿すことのない激しい感情が表れていた。
フェリシアをここまで追い詰めた全てを憎んでいるんだろう。
なにもできなかった自分自身も含めて。
きっと全てを破滅させて、全員殺したいと思っているに違いない。
同じ気持ちだから、よくわかる。
周りには決して悟られないように、フェリシアを幼い頃から見守っていたから知っている。
フェリシアの唯一の味方はジェレミーだけだ。
二人が初めて会った時のことを覚えている。
お互いしか見えていない奇跡の瞬間。
私にだってわかる。アボットと会った時の私もそうだった。
妖精の血が流れていると、運命と出会った瞬間にわかるものなのよ。
でも、アボットやジェレミーを見ていると人間も運命ってわかるのかもしれないと思うわ。
幼い頃からふわふわして可愛いフェリシアにジェレミーは夢中だった。
甘いお菓子を分け合い、一緒に勉強して、庭を散歩して美しい花々を楽しむ。
その様を見て、胸が痛んだ。
引き離すべきだったのかもしれない。
いずれ私とアボットみたいになるのだから。
私が決断を迷っている間に、二人の甘いお砂糖菓子のような時間は終わった。
先に大人になったのはジェレミーだった。
ジェレミーの十二歳の誕生日の翌日から、理由も告げられずフェリシアは彼から拒絶された。
その時のフェリシアの心の痛みはどれほどだっただろうか?
それからのフェリシアは一人ぽっちになって、ますます勉学や執務に没頭していった。
正しい女王となるべく。
そして、生来のやさしさと正義感で困った人を見かけたら迷わず手を差し伸べていた。
フェリシアのすることは裏目裏目にでる。
城に働く者の膿を出し、貴族が甘い汁を吸おうとするのを阻止する。
私やジェレミーがやんわりといさめても、止まらない。
ジェレミーの十二歳の誕生日になにがあったのかは知らない。
でも、どうにかして力を得なければ、フェリシアを守れないと気付いたのだろう。
頭の切れるジェレミーは正攻法を捨てた。
清廉潔白ではこの国の権力者達に立ち向かえない。
ジェレミーは表向きはフェリシアと交流を絶ち、裏で動き回るようになった。
フェリシアを陰から焦がれるような目で見ながら。
自分の味方となる貴族の伝手を増やし、下位貴族や平民出身の優秀な者を城で働けるように養成した。
この王国の実権を持ち、甘い汁を吸っている宰相や高位貴族達に対抗できるように。
十五歳でフェリシアは立太子し、ジェレミーは王配候補として婚約者になった。
それでも、ジェレミーは頑なにフェリシアと距離を取った。
宰相である父やこの王国を牛耳っている高位貴族達のご機嫌をとり、放蕩息子を演じた。
ジェレミーは自分が汚れることを厭わなかった。
昔、ジェレミーがフェリシアのように清廉潔白な少年であったことを覚えている者はいないだろう。
父親の権力を笠にきて、高位貴族達と同じように贅沢と女に溺れている放蕩息子、そんな風に見えていただろう。
それでも魅力的なジェレミーに未婚、既婚問わず貴族の女達は群がった。
自分に群がる女達に甘い言葉を囁き、この国のありとあらゆる情報を吸い取っていった。
でも、堕落し女に溺れ、フェリシアに興味を失ったように見えるジェレミーに、フェリシアが送る熱い視線は変わらなかった。
十五歳になり婚約者になってから開かれるようになった茶会の席で二人の視線が交わることはない。
お互いがお互いを気づかれないようにこっそりと見つめる。
ジェレミーはフェリシアの好む菓子や茶を用意した。
お菓子を食べる時に、フェリシアの口角がほんのり上がるのをジェレミーは満足げに見守っていた。
ジェレミーがフェリシアに与えたのは菓子や茶だけではない。
フェリシアの離宮に自分の息のかかった侍女や侍従、騎士を送り込み、市井に視察に出るフェリシアの護衛を増やした。
そうでなければ、フェリシアの処遇はもっとひどいものだっただろう。
でも、ジェレミーはまだ若かった。
権力を手中にするには時間が足りなかった。
高まる民の不満と、他人のことで正義感を発揮し折れないフェリシア。
我慢できなくなった宰相や高位貴族達は両方を相殺することにしたようだ。
全てを女王と、次期女王で王太子であるフェリシアの独裁制のせいだと責任を押し付けた。
それがこの茶番の真相だ。
真っ赤なマニキュアの塗られた指先を眺める。
ああ、私はいつだって無力だ。
ごめん、アボット。大切な娘すら守れないわ、私には。
妖精を見初めた男が建国したこの王国は、代々女王が治めている。
妖精は魔力も多く、魔術を自在に操れる。
でも、それだけだ。
狡猾な知恵を持つ人間には敵わない。
代々の女王は傀儡として、次代を生む胎としてだけ存在した。
私は頭も切れたし、魔力も多くて魔術を自在に操った。
でも、私が自由に力を使えないようたくさんの枷がつけられている。
人間が歴代の女王、つまり妖精の力や性質を研究した成果だ。
人間は力は弱いくせに、狡猾で残忍で知恵がよくまわる。
女王に即位した時に賜る指輪には女王を縛る魔術が刻まれている。
妖精の血筋は、本来、純真で素直だと言われている。
でも、私は人間の血が濃く出たのか反抗的だった。
自分の持つ絶対的な力を国のためにも、ましてやこの国を陰で牛耳る高位貴族のためにも一切使わなかった。
人間は妖精の力を制限することはできるけど、強制して力を使わせることはできない。
私の護衛騎士で、恋人でフェリシアの父でもあるアボットをいわれのない罪で処刑されてから、私は余計にかたくなになった。
そのことに業を煮やしたこの国の権力者はフェリシアを私から引き離し、洗脳ともいえる教育を施した。
フェリシアを立派な傀儡の女王にするために。
私のような出来損ないの女王にしないために。
そんなことをしなくたって、善良なフェリシアは言うことを聞いたというのに。
満月の夜になると、フェリシアの枕元で妖精の歌を歌った。
フェリシアの離宮には私が入れないような魔術がほどこしてある。
ただ、満月の夜だけは私の魔力が高まりその魔術を破ることができるのだ。
眠るフェリシアのパサパサになった銀の髪をなでながら、ため息をついたものだ。
フェリシアの豊潤な魔力はこの国の魔道具の動力源である水晶に取られている。
無理に魔力を絞り出しているフェリシアはいくら食べても痩せていて、髪や肌の艶も悪い。
本来は、魔術師がみんなで分担していた役目だ。
いくら膨大な魔力を持っているからといって一人で担うには負担がかかりすぎる。
魔力じゃなくたって、捧げるのは妖精や土地への感謝の祈りでもいいのにね。
その真実を知る人は今どれくらいいるのだろう?
フェリシアが眠りについてしまった今、どうするつもりなのかしら?
まぁ、この国も民も私にとってはどうでもいいんだけど。
アボットが死んでから、本当は後を追いたかった。
でも、フェリシアが気になって死にきれなかった。
傍から見たら、悪徳女王に見えたでしょうね。
毎日、着飾って美しい吟遊詩人を侍らせて、仕事を娘に押し付けて。
フェリシアやジェレミーみたいにもっと、もがくべきだった?
自暴自棄になって、屍みたいに諦めて生きるんじゃなくって。
誰かに相談すべきだった?
仕事も娘も取り上げられて、どうにもできないんですって?
毎日身に着けるドレスも身を飾るものもなに一つ、自分の希望は通らないんですって?
そうね、最後に母親らしいことをしたっていいかしらね。
勝手に母親と心中させられるより、上手くいくかわからないけど思い人と一緒になれたほうがいいわよね。
そう決心すると、涙を静かに流す青年の元に滑り込んだ。
「ねぇ、アタシと取引しない?」
◇◇
「どうなっているんだ? なんなんだ! この氷は! おい、魔術師を呼べ。氷を溶かすんだ。まったく強情な娘だ。せっかく温情をかけて引き取ってワシの嫁にしてやろうと思っていたのに……」
翌日にはフェリシアが氷に包まれていることに城中が騒然とし、宰相はフェリシアの前で叫んだ。
「誰の嫁だって?」
その瞬間、宰相とその取り巻きの後ろで成り行きを見守っていたジェレミーの表情がごっそり抜け落ちた。
「お前と婚約破棄した王女を誰が娶るっていうんだ? 監視もかねて、私の第二夫人にしてやるといっているんだ」
自分の息子の殺気にも気づかずに、いい考えだろうと宰相が胸を張る。
「うわっ。気持ち悪い」
思わず本音が漏れる。
「そもそも、陛下が王配と番う気配がないから! 優秀な王配をあてがったというのに子供が一人とは……」
宰相はフェリシアから私へ顔を向けるとやり場のない怒りをこちらに向けてきた。
「ふふふ、いいことを教えてあげましょうか? 妖精の末裔は、愛する人の子供しか生めないのよ。だから、アタシからアボットを取り上げた瞬間にもう子供はのぞめなかったのよ!」
「そんな、でたらめをよくも……」
「どうせ、あわよくば妖精の血をひく子どもをフェリシアに生ませて、ジェレミーの次に玉座に据えるつもりだったんでしょうけど、そんなの無理だから!」
「お前は妖精じゃなくて魔女だろう! 言うことを一つも聞かずに好き勝手して、あげくに娘は不良品で!」
唾を飛ばして叫ぶ宰相を見て、頭の奥のなにかが切れるのを感じた。
『黙れ』
ちょっと魔力を言葉に込めるだけで、周りを圧倒できる。
女王の指輪が私の力を抑えようと、ギリギリと私の頭や体を締め付けてくる。
残念ながら、今夜は満月なの。
その痛みをやりすごして魔力を最大出力にする。
フェリシアにこっそり魔術を教えることもできた。
それをしなかったのは、自分のためでなく人のためにその力を使ってしまう未来が想像できたから。
そうしたら、この子はもっと苦しむことになっただろう。
フェリシアの枕元で歌った妖精の歌を歌う。
フェリシア、どうか幸せに―――
古の言葉で、願いをかけた。
私の魔力が尽きて、崩れ落ちると騎士達に羽交い絞めにされる。止めに入ろうとしたジェレミーを目で制す。
「この魔女め! 一体どんな魔法をこの娘にかけたんだ!」
「ふふふ。未来永劫、フェリシアに害意を持った者は触れることができない魔法よ。そして、誰もこの子を傷つけることはできないようにしたわ。アタシが魔法をかけなくったって、この氷は他人には溶かせないわよ」
私の右手の人差し指にはまった女王の指輪についた大きな魔石がパキッという音を立てて砕けて床に散らばった。
きっと、私の魔力と拮抗して耐えられなかったのね。
フェリシアには女王もこの女王の指輪も継がせない。
「お前!!! 一生に一度しか使えない女王の秘法を使ったな!」
「あら、それもおとぎ話だと思っていたんじゃないの?」
視界の隅で氷を溶かそうとして奮闘していた魔術師達が自動で吹き飛ばされている。どうやら上手くいったようだ。
その様を見た宰相の顔色は赤から紫へと変わっている。
「わかった。この娘の代わりにお前を民衆に差し出してやる」
どうやら宰相はフェリシアを囲って子どもを生ませたら、民達のうっぷんを晴らさせるために公開処刑にでもするつもりだったみたいね。とんだ屑だわ。
宰相の背後からつかみかかろうとしているジェレミーを側近や騎士団長がなんとか取り押さえている。
「ええ、望むところよ。アボットが処刑されてから、アタシに生きる意味なんてないんだから」
ただ、フェリシアが気がかりでここまで無駄に生きてしまっただけだ。
フェリシアの足を引っ張るだけの存在だったかもしれないけど。
「アタシが魔女なのか、妖精なのか、首を飛ばしたら真実がわかるわ」
「なんだと?」
「アタシが魔女なら呪いが降りかかるし、アタシが妖精ならこの地への加護がなくなるわ」
「お前はただのわがままな女王だ。それが証明されるだけだ。即刻、処刑の準備をしろ―――!!!」
宰相の怒りはそれはそれはすごいもので、伝承を信じる一部の貴族たちの反対を押し通し、翌日には私の処刑が敢行されることになった。
市井の罪人と同じようなボロ切れ一枚まとった姿で土牢に一晩転がされて、処刑前に民達が石をぶつける時間までとられた。
罵倒と小石の嵐。
達観したと思ったつもりでも、やっぱり怖いし痛い。
もう魔力は戻っていたけど、その痛みも流れる血もそのままにした。
それで民の気が晴れるならいい。
誰かにずっと私を罰してほしかったの。
無責任に護衛騎士のアボットを私の人生に巻き込んで、死なせてしまった。
私の恋人にならなければ、処刑されることもなく幸せに生きられたのに。
そして、最愛の人との間の娘さえ守れなかった。
フェリシアはきっと誰にも頼れず甘えられず、さみしくてつらかったに違いない。
これがフェリシアの感じた痛みなのかもしれない、なんて勝手な感傷に浸る。
やっと断頭台に首を押し付けられた時にはむしろほっとした。
「やれ」
宰相の言葉を合図にシュンッと刃が落ちる音がする。
ああ、やっと終われる、そう思った時、
「エレノーラ―――!!!」
群衆から懐かしい彼の声が聞こえた気がした。
でも、そんなはずはない。
愛しい彼はもうとっくに天国にいるのだから。
そして私の行き着く先は地獄だから、もう会うこともないの。
幕間をもう一話はさんで、後編です。