前編
「フェリシア・レイヴンズクロフトとジェレミー・ディンブルビーの婚約は本日をもって破棄します。そして、フェリシア・レイヴンズクロフトは廃太子とします。つまり、フェリシア殿下は王太子を退き、次期女王となる資格を失ったということです」
わたくしにとって、大事な宣告がなされているというのにどこか他人事のように聞こえます。
巻物のような紙を仰々しくかかげた宰相をぼんやり見ました。
「理由なき断罪ではありません。彼女は次期女王としての器ではなかったのです」
にわかにざわついた周囲に立派な髭をたくわえて、でっぷりと太った宰相が淡々と告げます。
そう、国一番の知恵者と言われる宰相の言うことなら事実なのでしょう。
「膨大な魔力はあるものの魔術は使いこなせず……」
そうです。わたくしには女王であるお母様譲りの膨大な魔力はありますが、魔術師団長が匙を投げるほど魔術を操るセンスがないそうです。
家庭教師が入れ代わり立ち代わり、わたくしを指導しましたが、ぴくりとも魔術を発動させることはできませんでした。
せめてもと、魔道具を使うための動力源である水晶に毎日魔力を注いでいましたが、それしきのことは誰でもできます。
女王はありとあらゆる魔術を使いこなせるよう鍛錬し、国の有事に備えなければならないのです。
「政事にも一切、興味を示さず……」
そうです。
わたくしには宰相の言うところの“政事”を理解することはできませんでした。
国で一番賢いと言われる宰相の言うことに納得できたことはありません。
わたくしは婚約者のジェレミーと違って要領が悪く、更に頭の出来も良くないのです。
一生懸命、勉強したつもりでした。それでも、女王になるには圧倒的に足りなかったのでしょう。
十二歳を過ぎた頃から、王太子教育に加えて書類仕事が始まりました。
王宮の執務室で、文官達と共に作業していました。
はじめの頃は良かったのです。
ほとんど雑用のようなもので、書類を整理したり、読みやすく清書したりする作業をしていました。
十五歳で王太子を拝命してから、書類を決裁する仕事がメインになりました。
「ただ署名すればいいのです」
宰相にそう言われたのに、従わなかったからいけなかったのでしょうか?
なぜ、孤児院からの設備の修繕要請を却下するのでしょう?
なぜ、災害もない領地へ多額の寄付金を送るのでしょう?
宰相が回答してくれないため、文官達に質問しましたが、皆あいまいに微笑んで何も答えてくれません。
質問をするごとに、宰相や文官達の機嫌は悪くなりました。
「ただ署名すればいいのです。皆の仕事の邪魔をしないで下さい」
しまいには離宮にわたくし専用の執務室が用意され、一人で作業することになりました。
しかし、納得のいかない書類に署名はできません。
王太子になるときに、「国のため、民のために生きる」と誓ったからです。
わたくしの暮らす離宮の側仕えの者達に協力してもらい、現地へと視察に赴きました。
書類を見ているだけではわからない世界が、そこには広がっていました。
この王国は妖精の血を引くといわれる女王が代々統治しています。
そのおかげで王国の土壌は豊かで、天候も穏やかなものです。
城で見かける貴族達は豊かで贅沢な暮らしをしています。
ええ、はっきり言って必要以上に贅沢をしていると思います。
だって、爵位が上がるほど贅肉がたっぷりとつき、豪華な衣装にジャラジャラと装飾品を身に着けています。
そう、わたくしを糾弾している宰相のように。
そして、それを満足げに見守る高位貴族達のように。
ところが民達はこの土地の豊かさを享受しているようには見えませんでした。
飢えることはないものの、みんなひどく疲れた顔をしています。
なぜ、同じ国に暮らすのにこんなに差があるのでしょうか?
王侯貴族と平民の間に貧富の差があるのは理解しています。
それでも、平民は平民なりにもっと幸せに暮らせないのでしょうか?
宰相の指輪に光る宝石の一つで孤児院の設備が修繕できるのではないでしょうか?
災害のあった領地の民達にあたたかい食事をふるまえるのではないでしょうか?
それから、自分で現地に赴き調査して、納得のいかないものには署名しませんでした。
時には、必要だと思われる立案書を自ら作成しました。
「フェリシア、そんなことをしたってなにも変わらない。君は要領が悪すぎる」
婚約者のジェレミーはいつも愚かなわたくしをいさめていました。きっと、ジェレミーが正しかったのでしょうね。
「女王とともに贅の限りをつくし……」
みんなの視線がわたくしに一気に刺さります。
確かに、今日のわたくしはロイヤルブルーのドレスにゴージャスなダイヤのついたアクセサリーをふんだんに身に着けています。
今日の豪勢な装いを見たら、毎日着飾って遊んで暮らしているように見えるでしょう。
女王であるお母様のように。
お母様は毎日違うドレスを着て、美しい吟遊詩人を侍らせて優雅に暮らしています。
仕事をしているところを見たことがありません。
一人で離宮の執務室にこもり、こっそりと市井の視察に出ていたわたくしの姿を見た者はほとんどいないでしょう。
ですから、わたくしもお母様と同じように遊び暮らしていると思われても仕方のないことなのです。
正直なところ、今朝用意されたドレスを見た時に心が弾みました。
このドレスがいつも身に着けているものより豪華だったから、うれしかったのではありません。
ロイヤルブルーはジェレミーの瞳の色だからです。海のような深い青色です。
そうは言っても、わたくしは海を見たことはないんですけどね。
海辺の領地出身の城で働く侍女がそう例えていたのを聞いただけです。
首元の少々重たいネックレスは金の土台にダイヤが幾重にも連なっています。
そう金色はジェレミーの髪の色です。
鮮やかな青のドレスに金のアクセサリー。婚約者の色をまとうのははじめてで胸がときめきました。
もしかしたら、ジェレミーが用意してくれたのかも?と思いました。
ちらりとジェレミーに視線を向けると、いつものように気だるげな様子で、退屈そうに座っています。
わたくしのことなど、そのへんの埃よりも興味がないのでしょう。
このドレスは今日のわたくしへの断罪のために用意されたもので、ジェレミーの色彩なのは偶然なのでしょう。
浮かれていた気持ちはとっくにどこかへいってしまいました。
「婚約者としての責務も果たさず……」
ジェレミーとは婚約する前の子供の頃は仲が良かったんですよ。
ジェレミーに初めて会った時に衝撃が走りました。
わたくしは美しいものが好きです。
ジェレミーは神が考えうる限りの美しさを詰め込んだ存在でした。
まるで金色の獅子のように気高く美しく雄々しくて。
ジェレミーのクセのある金の髪が太陽の光を受けてきらめくのを見るのが好きでした。
鮮やかな青い瞳はお母様の持つどんな宝石より美しく澄んで輝いていました。
どのパーツも体の造形もすべてが完璧でした。
そう、一目見たときからわたくしはジェレミーの虜になってしまったのです。
ジェレミーにお願いされたら、わたくしは自分の命だって差し出してしまっていたでしょう。
それにジェレミーは優しくて賢くて、いつまで話していても飽きることはありませんでした。
小さな頃は自分の目で見える世界が全てでした。
ですから、わたくしがジェレミーの隣にいることを一つもおかしいなんて思わなかったんです。
幼い頃は父親である宰相に連れられて城に来るジェレミーと庭園を散歩したり、一緒に勉強をしたりしました。
現実に気づいたのはジェレミーが先でした。
十二歳になった頃、突然ジェレミーに無視されるようになったのです。
つなごうと差し出した手をとってくれることはなくなりました。
それがなぜなのか、今のわたくしにはわかります。
なにもかもが釣り合っていないのです。
ジェレミーはそれに気が付いただけです。
幼い頃のわたくしは髪の毛だけは美しかったのです。
輝いていたプラチナブロンドの髪は年々重くて艶がなくなり、今ではただの灰色の髪になっています。
侍女たちが一生懸命手入れをしてくれているのに、ジェレミーのように輝くような艶は出ません。
そして、髪以外は平凡な容姿をしています。
お母様のような華やかさはありません。わたくしの父親は誰なのか公表されていません。
お母様に王配は何人かいますが、高位貴族だけあって皆とても美しいのに、わたくしには美しさのかけらもありません。
ジェレミーが王ならばよかったのに、わたくしでなくてもそう思います。
容姿だけでなく、オーラや威厳、頭の良さに決断力。
皆の上に立つのに必要なものを兼ね備えていたのです。
全てわたくしにはないものです。
十五歳のときにジェレミーとの婚約が決まりました。それと同時にわたくしが次期女王として立太子しました。
ジェレミーの瞳から生気が消えました。
出来損ないのわたくしが女王となり、ジェレミーは王配となる未来が確定したのです。
それは、わたくしが感じている絶望よりもっともっと深いものだったでしょう。
子供の頃は勉学に励み、心身を鍛えることに精を出していたジェレミーは変わってしまいました。
自堕落になり、城で見かけても服を着崩して、キレイな女の人を侍らせるようになったのです。
なぜでしょうか?
自堕落にしていても、美しい女の人を侍らせていても、その気だるげな様子さえ様になっていて、やはり王者のような圧倒的なオーラは変わらないままだったのです。
自堕落になったジェレミーを見て心が痛みました。
でも愚かなわたくしはこの婚約を撤回して、ジェレミーを解放してあげませんでした。
宰相や貴族院の決定に異を唱えることはできないと言い訳して。
ジェレミーと週に一度、婚約者としてお茶をする時間だけが唯一の楽しみでした。
ジェレミーは自堕落な生活をしていても、週に一度のお茶会には時間通りにきっちり現れました。
綺麗な女の人を連れてくることもありません。その時ばかりは昔のようにシャンとした格好をしていました。
ただ、会話もなく一時間ほどお茶をするだけの時間でしたが、わたくしにとっては至福の時間でした。
澄ました顔をしながら、こっそりとジェレミーの精悍な顔立ちを観察し、脳裏に焼き付けました。
美しかったジェレミーに男らしさが加わっていく成長の過程を見られたことは至上の喜びでした。
婚約者として、城で開催される夜会でも必ずエスコートしてくれました。
ただ一緒に踊ることは、ついぞ叶いませんでした。
わたくしを王族席にエスコートすると隣に座ることなく、いつも夜の蝶たちのほうへ行ってしまうのです。
ジェレミーは夜会の花でした。
王配は愛人を持つことを許されているのです。予算もきちんと配分されます。
煌びやかな容姿と確かな将来。
ジェレミーにはいつも綺麗な貴族令嬢が群がり、様々な人と踊り、そして夜の帳のなかへと姿を消しました。
閨教育は受けていませんが、それがなにを意味するかは知っています。
わたくしが次期女王ではなく、ただの貴族令嬢だったらよかったのに……
そんな邪な思いを持ったことは一度や二度じゃありません。
あの大きな手をとれたら……
青い瞳で見つめられたい……
王族席でにこやかな微笑みを顔に張り付けて、心の内ではそんな邪なことを考えていました。
どのみち女としての魅力にも乏しいわたくしでは、貴族令嬢であったとしても相手にされなかったでしょうけど。
誰の目から見ても、無能で美しくもない次期女王に縛られていた哀れな婚約者に見えていたでしょう。
この婚約は破棄されることがジェレミーにとって幸せなことなのです。
わたくしがほんの少しでも彼と一緒にいられる時間を持てたことがありえないほどの幸運だったのです。
「城に仕える魔術師、騎士、文官、侍女、侍従達から多数の苦情が上がっており……」
人に迷惑をかけないようにと心がけていましたが、いつの間にか人の気分を害していたのでしょうか?
体調の悪い日に、魔術師達に魔道具の動力源である水晶に魔力を注ぐ作業を代わりにしてくれないかと頼んだからでしょうか?
訓練と称して、下位貴族の部下に酷い扱いをする騎士団の隊長を戒めたからでしょうか?
仕事もせず城に遊びにきているような文官に注意したからでしょうか?
城の廊下の片隅でうずくまる侍女に話を聞き、下位貴族ほど負担の重くなる役割分担を振りなおしたからでしょうか?
きっとわたくしの浅知恵で動いたことでよけいに事態は悪くなってしまったのでしょう。
良かれと思ってしたことはただの自己満足な偽善だったのでしょう。
「平民から女王制度撤廃の嘆願も上がっております……」
確かに、想像以上に平民の生活は苦しいようでした。
土地は豊かで気候は穏やかで恵まれているはずの環境ですが、がんばって税を納めても生活が苦しいままでは不満が募るのは当然でしょう。
優雅に遊び暮らしているように見える女王が不要だと思うことは仕方のないことです。
少しでも生活が改善されるようにと、国のお金の流れを変えるよう努力はしました。
しかし、全然わたくしの力が足りなかったのでしょう。
「以上の事から婚約破棄および廃太子が決定しました。もちろん女王陛下の許可も取っています。王太子殿下、いえ王女殿下、承諾していただけますでしょうか?」
急に話を振られて、目を瞬きました。
どうやら昔のことに思いをはせている間に宰相の話は終わったようです。
「殿下」
宰相の威圧的な声に、いつものように微笑みを浮かべて答えます。
「仰せのままに」
今後の自分の処遇など気になることも山ほどありますが、どの道わたくしに選択権などないのです。
「では、下がって沙汰をお待ちください」
にんまりと満面の笑みで宰相が告げます。宰相の周りで高位貴族や文官の長達も満足げに頷いています。
さっと周りを見渡しますが、この広い会議場でわたくしの味方はいないようです。
わたくしの失脚が愉快なのでしょう、ひそひそ話をして、にやにやと嫌な笑みを浮かべています。
背すじをピンと張り、丁寧にカーテシーをするとゆっくりと出口に向けて歩き出しました。
「フェリシア、だから言ったでしょう? 真面目にやったって無駄なのよ」
冷ややかな目で議会を眺め、一言も言葉を発しなかったお母様が、すれ違い様にそんなことを言いました。
真っ赤な唇が弧を描きます。
笑顔なのに、まるでわたくしを責めているような冷たい目をしています。
気のせいではありません。うまくできなかったわたくしにお母様は失望しているのでしょう。
わたくしがただ一人の子供で、娘であったせいで、女王であるお母様の立場まで危うくなっている。
わたくしは次期女王としても、娘としても失格なのです。
お母様にいつもの微笑みを返すとそのまま会議場を後にしました。
会議場を出て、離宮へと続くうんざりするほど長い廊下を歩きながら、鼻の奥がツンとするのを感じました。
わたくしは、心のどこかでお母様とジェレミーだけは愛してくれていると思っていました。
そんなものは、きっと人のぬくもりに飢えたわたくしの妄想だったのでしょう。
女王であるお母様とは、親子として接したことはありません。
幼少の頃は乳母が、成長してからは侍女がわたくしの世話をしていました。
市井に視察に出た際には、手を繋ぐ親子やわが子を抱きしめる母親に驚いたことを覚えています。
わかっています。お母様は女王です。わたくしは次期女王です。そんな甘えたことを考えてはいけません。
いつも議会や儀式の折にすれ違う時に一言声をかけられるだけです。
だいたいいつも「フェリシア、真面目にやったって無駄なのよ」と言われました。
それでも、この城でわたくしの名前を呼ぶのはお母様とジェレミーだけなので、それだけでもうれしかったのです。
月明かりのさす夜にお母様が子守歌を歌う声や気配を感じたことがあります。
それも、さみしいわたくしが作り出した幻想なのでしょう。
ジェレミーとのお茶会の席にはいつだって、わたくしが好きなお茶やお菓子が並んでいました。
愚かにもそれはジェレミーの采配だと信じていたのです。
甘いものが好きなはずのジェレミーが「口に合わない」と自分の分をわたくしにくれることに、いちいち胸を弾ませていたのです。
成長とともに甘いものが苦手になったのかもとも思いましたが、紅茶にはいつも三杯は砂糖を入れていたので、変わらず甘いものが好きなはずです。
それをわたくしへの気遣いだなんて勘違いしていたのです。
しかし、誰も味方のいない空間でお母様もジェレミーもわたくしに目を向けることはなく、言葉を発することもなかったのです。
きっと、そういうことなのです。
二人を失望させてしまったわたくしがいけないのです。
わたくしが婚約者として次期女王として失格だったからいけないのです。
いえ、そもそも二人の視界にすら入らないどうでもいい存在だったのでしょう。
離宮の私室に戻ると、侍女達に下がるようお願いしました。
いつもは淡々と時間通りに世話をする侍女たちも、さすがに心情をくみ取ってくれたのでしょう。
わたくしを一人にしてくれました。
ああ、花の一輪でもあったら、少しは心が慰められたのでしょうか?
昔は花が好きでした。
子供の頃はジェレミーと手を繋いで、城の美しい庭園を散歩したものです。
ジェレミーは誕生日には庭師と相談して、季節の花で花束を作って贈ってくれました。
十歳の誕生日には部屋でも花を愛でられるようにと、鉢植えの花をプレゼントしてくれました。
芽を出し毎日、すくすくと育っていく様を見るのはとても楽しかったです。
しかし、花をつけるまえにその植物は枯れてしまったのです。
他の鉢植えを置いて育ててみましたが、どれもこれも花を咲かせる前に枯れてしまいました。
だから、わたくしはダメなんでしょうか?
鉢植えの花一つ咲かせることができないから、ジェレミーにあきれられてしまったのでしょうか?
わたくしは一つずつ自分のダメなところを知って、一つずつ諦めていきました。
今、わたくしの心の安らぎは窓から夜空を眺めることです。
今でも綺麗なものが好きなのです。
夜空に輝く月や星を見ると、花を見ている時のように心が満たされました。
部屋は厚いカーテンに閉ざされていて、今夜はその向こうにどんな夜空が広がっているかはうかがえません。
カーテンを開ける気にもなりませんが、きっと今夜は飲み込まれそうなほどの真っ暗な空が広がっているに違いありません。
まるでわたくしの心を表すかのように。
何回絶望したら、わたくしの人生は終わるのでしょうか?
もう、疲れてしまいました。
わたくしなりに一生懸命やったつもりです。
しかし、それはただの独りよがりで意味のないことで、無駄なことだったようです。
なにをしても役に立たない、誰にも必要とされていないのに、生きる意味はあるのでしょうか?
何回自分に失望して、心が折れたら楽になれるのでしょうか?
しかし、自分で生を終わらせることは許されていません。
民の税で生きているわたくしは、自分で自分の人生を終わらせることを考えてはいけないのです。
「民の税で生きているのだから、王国のため民のために立派な女王になりなさい」
宰相や家庭教師や国の重鎮達に、口酸っぱく言われてきたので身に染みています。
しかし、わたくしが生きているだけでお金や手間がかかるのなら、いなくなることが最善なのではないでしょうか?
これ以上、民の税を無駄使いする必要もないのではないでしょうか?
「小賢しい。殿下があれこれと考える必要はないのですよ。ただ微笑んでいればいいんです。難しいことはすべて我々が考えますから」
頭の中にいつも宰相に言われていた言葉と苦虫をかみつぶしたような表情が浮かびます。
そうですね。愚かなわたくしが色々と考えるだけ無駄です。
わたくしが考え、行ってきたことは全て無駄だったのです。
婚約を破棄され、王太子の位を剥奪されたわたくしは遅かれ早かれ毒杯を賜ることでしょう。
こんな無駄なことを考えずに、いつものように湯につかり、汚れを落として、ベッドに入らなければ。
そして死を宣告される時をおとなしく待つのです。
わかっているのに、体が重たくて一つも動きません。
部屋の真ん中で棒立ちになっていても、わたくしの状況は変わりません。
次期女王失格の烙印を押されたことも、わたくしが誰からも愛されていないことも変わりません。
こんなに絶望の底にいるような気持ちでも涙一つ出てきません。
泣き方すら忘れてしまったのでしょうか?
疲れてしまいました。
眠りたい。深く深く。
これ以上なにも考えなくていいように。
足元からパキパキとなにか音がしました。
冷気が立ち上がり体を包みます。
それでも、指先一つ動かない。
助けを呼ぶ声も出ません。
体が固まり、冷気に包まれていくのに、不思議と不安や怖さはありません。
なぜか生まれて初めて安堵しました。
そのままその感覚に身を委ねました。
冷たいのに温かい。
だんだん意識も体の感覚もぼんやりしてきます。
―――ゆっくり、お休み。フェリシア
懐かしい声がした気がしました。
ええ、そんなの気のせいです。
この城に、いえ、この国にわたくしのことを気に掛ける人なんて一人もいないのですから。
幕間を二話はさんで、後編です。