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5.「帰りたくない家」

 玄関の扉を開けると、ほんわりとした美味しそうな香りが台所から漂ってきた。

 鈴華(すずか)は一瞬だけ期待しそうになったが、少し考えたらあり得ないと、すぐに冷静になって廊下を歩く。


「あら、鈴華? 帰ったなら挨拶しなさい」


 いつもはきちんと挨拶をするのだが、台所へと続く居間へ顔を出さずに、そのまま階段へと上がろうとしていたところを母親に見つかった。


「ごめん。先に鞄置いてこようと思っただけ。ただいま」

「おかえりなさい。鞄なんて、後にすればいいのに。そうそう、今日、空太(そらた)が学校で発作起こしちゃったの。それで……」

「うん、ちょっと先に着替えもしてくるから待ってて」


 鈴華は母親の言葉を遮ると二階へと駆け上がる。聞かずとも何があったかは分かっていた。いつもの事だからだ。

 自室に入ると、大事に抱えていた鞄を胸に抱えたまま深呼吸をして、無事に何事もなく帰路に着けてホッとする。

 鞄の中にある〝薬〟をどこに置いておこうかと考えたが、とりあえずは、このまま鞄にしまっておくのが一番安全だろう。

 鈴華は服を部屋着に着替えると、一階のリビングへと降りる。

 食卓の上に簡単な炒め物とみそ汁が並び、それとは別に栄養がたっぷり入ってそうな雑炊が一人前だけ作られてあった。それを母親が湯飲みと一緒にお盆の上に用意していた。


「空太、大丈夫なの?」

「薬で落ち着いて眠っているわ。そろそろ起こして、夕飯食べさせてお薬飲ませないと」


 空太とは、鈴華の三つ下の弟だ。持病に小児喘息を患っていて、よく学校で発作を起こして早退する事があった。

 そのたびに、母親は会社を早引きして、こうして夕飯には雑炊を作ったりして、つきっきりで看病している。

 大抵は発作止めの吸入薬ですぐに落ち着くので、ここまでする必要はないと鈴華は少し過保護に思えて呆れていた。


「空太に持っていくから、先食べてなさい」


 母親はお盆を持って、弟の部屋へと持ち運んでいった。

 鈴華はテーブルの椅子に座ると、たまには自分も雑炊が食べたいなぁと思ったが、風邪の時くらいしか作ってもらえない。

 母親は元々、料理が下手だ。正確に言うと、バリバリのキャリアウーマンとだけあって毎日忙しく、普段は弁当や総菜が多い。

 でも今日は温かい手料理だ。


「あら、まだ食べてないの?」


 十分程して、母親がリビングへと戻って来るとそう言った。

 鈴華は何となく一緒に揃ってから食べたかったのだが、待たなければ良かったと後悔する。


「……パパは?」

「今日はまだ連絡ないのよ。まったく、たまにあたしが作るとこうなのよねぇ」


 父親の帰りが遅いのはいつもの事だった。母親は文句を口にした途端、みるみる不機嫌になっていく。鈴華はいらない事を聞いてしまったと、また後悔した。


「ママ、あとで食べるから」


 そう言うと、台所の奥へと行った──煙草を吸いに、だ。

 鈴華は知っていた。今まで吸っていなかったのに、ここ数か月くらい前から、こっそりと隠れるように、台所の換気扇の下で吸うようになったのを。おそらく、空太や父親は気づいていないだろう。

 鈴華は少し冷めかけた夕飯を一人で黙って食べた。

 カチャリと、リビングの扉が開いて、手にお盆を持って空太が入ってきた。


「空太、運ばなくてもいいのに、寝てなさい」

「いや、もう大丈夫だって」


 弟は平気な素振りで笑って母親を安心させる。


「それより、ちょっと練習しておきたくて。明日、レッスンだから」


 弟は小さい頃からピアノを習っていた。

 鈴華も記憶にないくらい小さな頃に教室へと通わされたらしいが、すぐに嫌がってやめてしまったという。才能がありそうでもなかったようだ。だが、弟にはあった。

 喘息で体は弱いが、ピアノだけはできる。コンクールにも入賞の経験が何度かあった。

 健康で練習を休むことなくできれば、もっと腕は上達しているはずだ。本人もそれが分かっていて、将来のことも考え、本格的にレッスンに力を入れて頑張っているところだった。

 もちろん、両親は応援をしながら期待に胸に寄せている。


 ──わたしには何も期待されていない


 そんな風に鈴華は自分を卑下してしまう。


「無理するんじゃないわよ?」

「うん、ちょっとだけだから」


 広々としたリビングには空太が念願叶って買ってもらったグランドピアノ。この家が二年前に建った時だった。これを置くのを計算して部屋の間取りは設計されていた。

 弟がピアノを弾き始めると、鈴華は茶碗をかきこんで夕飯を食べ終え、食器をシンクへ運ぶと、「ごちそうさま」とリビングを後にした。

 母親の耳には弟が弾くピアノの音しか入っていなかっただろう。

 部屋に戻るとベッドへと潜り込んだ。明日は学校も休みなので宿題は後回しにして、風呂にも入る気にはなれなかった。

 何より、ピアノの音色を遮断したくて、頭から布団を被って塞いだ。

 心も体も深く暗い闇底へと沈んでいく──

 涙と鼻水を拭こうと布団から手を伸ばし、ふと鞄の存在を思い出す。

 一階からはまだピアノの音色が聞こえている。

 まだ弟や母親が二階に上がっては来ないだろう事を確認してから、そっと鞄を開けた。


(これで、本当に楽になるの?)


 病院で処方される薬で、服用している人がいるのだから効くのだろうが、半信半疑だった。

 鞄の中に入っていたペットボトルの水で、ためらいがちに恐る恐る飲む。

 目を閉じて、その効果をじっと待つ──ピアノの音色はいつしか遠ざかっていった。


読んで頂きありがとうございました!

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