22.「自分なりの正義」
暖かな日差しがブラインドカーテンの隙間から差す。室内にはコーヒーの香ばしい匂いがゆったりと漂っていた。
棚に背もたれて、ユキは腕を組んで苛立ちを隠しもせず、目の前で優雅にソーサーを片手にくつろいでいる男の顔を睨みつける。
「どうした?」と、何も気にした風もなく、赤樫は呑気だ。「冷めないうちに、おまえも飲んだらどうだ?」
「どうしたも、こうしたもないだろっ」
「何が、どうして、こうしたんだ?」
尚も、平然と余裕たっぷりの赤樫に、
「とぼけてごまかすなっ。あぁ、そうか、言わなきゃ分からないんだったな、男って生き物はよ。あの薬のことだよ、赤玉だ、赤玉!」
「あぁ……そのことか。何だ? 効かなかったのか?」
「当たり前だ、効くワケないだろ、ニセモノで! 何考えてんだ? どうゆうことか説明しろっ」
「偽物を処方した覚えはないが……」
「この上、シラを切る気かよ」
赤樫は机の引き出しの中から、何かを取り出したかと思えば、それは薬の包み紙に入った三種類の錠剤だった。
「どうやら、他の患者のと間違えてしまったようだ」
手のひらを上にひらひらと、医者にとってはあるまじき重大なミスを、罪もなく堂々と言ってのけた。
「…………」
これにはユキも開いた口が塞がらない。
「こんな小細工してまで、手の込んだ言いワケだな」
「随分な言われようだな。俺も医者の前に人間だからな」
と、全く反省の色もなく、涼しい顔でコーヒーをすする。
間違えは、本当か嘘か。赤樫の仕業によるものだとして、ユキは騙された事を怒っている訳ではなかった。むしろ、これで良かったと安堵さえしている。
鈴華の様子がおかしかったのには、十分に気づいていた。ほぼ直感的な予感に、最悪の事態を起こすならば深夜だろうと、事前に調べておいた住所へと行ってみれば……あの惨事だった。
赤樫には安易に、こうなる事を予期できていたのだろう。それは、ユキにも分かってはいたはずだが、どこかで鈴華を信じてやりたいという甘い気持ちがあった。
「今日のそのケガは何が原因だ? 派手なスタントしたみたいだな」
「ってぇ、触るな」
腕を動かされて肘が痛む。まさかハンマーがいるとは思わず、用意はしていなかった。多少、護身術をかじっているとはいえ、窓ガラスの正しい素手での割り方など知りはしなかったので、力任せだった。
「よく見せてみろ」と赤樫は、処置室からガーゼや消毒薬を用意して来ると、ユキの肘をきちんと手当する。ガーゼを固定させるために包帯を巻かれ、まだ頭の包帯もとれていないので何とも大げさな見た目になった。ユキはそれを気にしたが、「仕方ないだろ、取ったら治りが悪くなるぞ」と言われ、しぶしぶと諦めた。
「もしかしなくてもだが、昨夜の練炭自殺の子だな?」
「何で、知ってるんだ?」
「今朝、親御さんから電話があった、紹介状を持って行くので診てほしいとな。総合病院の方で精神科への受診を勧められたようでな、簡単な経緯を電話で聞いた。そしたら、とんでもないクラスメイトを名乗るヒーロー現れたらしいじゃないか」
ユキは頬をぼりぼりと掻く。
「診るの?」
「あぁ、本人が市内の精神病院は強く拒否しているようでな」
総合病院に精神科がないとなれば、他の病院を紹介されるのが普通だろう。しかし、市内に心療内科はここ一つのみだ。正真正銘の精神病院への通院は抵抗が大きかったのだろう。もし、入院となった場合、自傷行為のある患者は閉鎖病棟がお決まりとなる。
「そっか」
「大事なお友達ができたみたいだな」
「なにがお友達だ、気持ち悪い。ただの客だ。って、あーあ、オレのお得意様が一人減ったじゃないか」
ユキは頭を垂れる。しかし、〝客〟だったという事を思い出して、今まで何だと思っていたのかと。まさか赤樫の言う通りお友達のつもりでいたのかと、考えて自嘲した。
「まだ、続けるのか?」
「まだ、言い続けるのか? 確かにな、オレのせいもあったのは認めている。今回だけでなく、これから同じような危険性があるのは百も承知だ。でも、これで鈴華はちゃんとした治療を受けられる」
それは、ユキにとって最終的な理想でもある。
「別に、金欲しさのためだけに転売してるんじゃない。クサイ正義や悪のヒーローを気取ってるワケでもない。ただ……親にも頼れず、一体誰があいつらを助けてやれる? 安心させてやれる? 薬なんて、一時しのぎのものだ。それで問題解決できるもんじゃない。でも、大人になるまでのつなぎ目くらいにはなるだろ?」
それはつまり、保護者の許可を必要とせず自らの意志で通院できるという事だ。それまでの手助けをユキは続けていたつもりだった。けれど、それもいつまで持つかは分からない。でも、今回の一件でどこかこの先に待ち受けるものに覚悟ができた気がした。
もう太陽の下は歩けないかもしれないけれど、暗闇の中で小さな光を救おう。
「ユキ、一人で戦うな。俺がついていることを忘れるなよ」
いつの間にか、赤樫の腕が伸びていた。
「ちょっ、だーかーら、あんたはこないだから何言ってやがる」
「女ってのは、言わなくても分かる生き物なんじゃないのか?」
「――っ」
ユキは悔しく歯噛みすると、観念するよう目を閉じた。するとそこへ柔らかい感触が唇に触れる。それは、あの男の汚らわしいものとは全然違う。ユキが今まで感じたことのない、優しく温もりに満ちたもだった。
しばらく、その安心感に身を委ねる。
「……母さんは? ちゃんと来た?」
「あぁ。いいお母さんだな。おまえのたちのためにずいぶん、苦悩していたんだな。そうじゃなきゃ、酒に溺れたりするタイプじゃない」
そんなことは言われなくても十分に知っている。父親の違うユイと分け隔てなく育てようとしてくれていた。
「治療は?」
「時間はかかりそうだが、気長に見守ってやれ」
「うん」
そこは専門医の赤樫に任せる事にした。
「ユイは?」
「ユイも母親が頑張る姿をみて、少しずつ前向きになっているようだな。この間、近くのスーパーへ一人で行ったそうだ。今は、それで十分だろう」
「そっか」
それを聞いて、ユキは少し安心して喜ぶ。
「なぁ」
「今度は何だ? ムードが足りない奴だな、少し黙ってろ」
「んぐっ」強引に口を塞がれて、ユキは赤樫の胸を両腕で押しのける。「調子に乗るなっ」
そう言って怒ったものの、コーヒーの入ったポットを手に持ちカップに注ぎ入れるユキは、自然と鼻歌交じりになっていた。
「ぬるくなってる。角砂糖、溶けるかな?」
「だから、冷めると言っただろう。おい、何個入れるつもりだ? もう、コーヒーの苦みはなくなったな」
「いいだろ、オレの好きなように飲ませろ」
「で、さっき何を聞こうとした?」
「あぁ、そうだ、忘れるとこだっただろ。ここら辺でさ、甘くて美味しいケーキ屋ってある?」
「さらに甘いケーキまで欲しいときたか。ケーキはどの店でも甘いと思うがな。上品な甘さなら、国道沿いの珈琲専門店がオススメだ」
「あそこのコーヒー、高い。千円ってぼったくりだ」
「何だ、コーヒーとケーキが食べたいのか? いいぞ、連れてってやる、そのぼったくりの珈琲専門店にな」
「いらない」
にべもなく言うと、砂糖の溶けきっていないコーヒーをグイッと飲み干して、ユキは大きくあくびをしながら背伸びをした。
「……一緒にデートするには、少々色気が足りないな」
「うっさい! さっきからセクハラ発言だぞ!」
ユキはリュックを肩に引っ掛けると、「じゃっ」と、甘い余韻も残す事無く、診察室のドアをバタンッと閉めた。




