エルヴィンの苦悩
「ではまた後ほど」
「はい。失礼致します」
ロゼリア嬢が一礼し、遠ざかっていく。柔らかな癖のある、たっぷりとしたブロンドの髪が風に揺られ、色気のある後ろ姿だ。主もしばらくの間見送っていたが、名残惜しそうに見つめる使用人たちに気づき呆れたような顔をした。
「お前たち、そんな顔をするな。ロゼは明日にはここで過ごすようになるから」
「待ちきれませんよ!あんな素晴らしい方がこの屋敷に、いえ、この世にいらっしゃるだなんて!」
歓喜の声を上げながらくるくると回るエルヴィンを、ノクターが気持ち悪そうに眺めた。しかし、喜びのあまり正気を失っているのはエルヴィンだけではないと悟り、何も言わずに中へ戻ろうとする。
「お嬢様が、お礼を言ってくださったのです!ブランケットをお貸ししましょうかと聞いただけなのに!」
「フィンデル侯爵令嬢に同じことを言った時は、何も言わずに叩き落とされたのですよ!」
「私なんて謝られてしまいました…。お嬢様の肩に着いていた葉が落ちただけなのに」
「なんと、私たち使用人のためにクッキーを焼いてくださったのですよ!媚薬の入っていない菓子を見るのはいつぶりでしょう」
しかし、嬉々として話している内容を聞き、いつも自分の客に翻弄される彼らを哀れに思ったのだろう。しばらく付き合うかというように息を吐き、側にあった柱に寄りかかる。
ノクターにとって、ロゼリアはまさに運命であった。自分に惚れ込んでいる女性の方が利用しやすい。それは真っ先にエルヴィンが提案していたが、それでもノクターはロゼリアを押し通した。期間満了後も縋りついてくる心配もなければ、皇女に刃向かえる度胸もある。頭もそれなりに回ることも今日確認することが出来たし、互いに弱みを握れている契約関係ほどいいものは無い。
ノクターにとって、ロゼリアはこれ以上ない契約相手だった。
「旦那様、あの方は奥様になられるのですよね!」
「ん?あぁ」
「ずっとここに居てくださるのですよね!」
「もちろん」
契約について知るのは、ノクターとロゼリア、そしてエルヴィンの三人のみである。公爵家の使用人といえど、間者が入り込んでいる可能性もない訳ではない。そうでなくても他の貴族の家の使用人に友人のいるものも多い。そこを伝いに伝って皇女の耳にでも入ったら最後、ロゼリアに命の危機が迫る可能性もあろう。
一生ロゼリアに仕えられるのだと喜ぶ使用人達を見ながら、冷えきった目をしているノクターにエルヴィンは気がついていた。
「てっきりロゼリア嬢に恋したのかと思いましたよ」
「ふざけたことを」
ノクターがふっと鼻で笑う。それにしては必要以上に構っておいでですが、とエルヴィンが詰め寄る。
「そんな目をしていましたが?」
「…へぇ」
言葉を濁したが、その横顔に確かに恋慕の情のようなものは見て取れず、エルヴィンは安心したような、それでいてどこか残念そうなため息をついた。
この主が恋でもしようものなら、これまで愛というものを知らずにいた分、どうなるか分かったものではなく恐ろしい。けれどこの寂しい方が救われるのならとさえ思う。そんなことを考えている己に気がついたエルヴィンは、ぞっと青ざめて身を震わせた。
「私、お嬢様の専属侍女になりたいです!」
「私もです。あんな風に微笑んでくださった方は初めてでした!」
「いいえ、私がなります!」
「私よ!」
ノクターはふっと笑い、言い合いになるほどすっかりロゼリアに心酔してしまったメイドたちを見ながら、目にかかる髪をかきあげていた。早ければ一年程度で終わってしまう関係なのに、いらぬ夢を抱かせてしまったな、と。
「あの…申し訳ありません。忘れ物をしてしまって…」
「お嬢様!」
扉からひょこりと顔を覗かせたのは、先程帰ったはずのロゼリアであった。別れを惜しんでいた使用人たちがぱっと顔を明るくして駆け寄る。
ロゼリアは彼らに笑いかけながらも、ノクターの元へ真っ直ぐに歩いてきた。ノクターも笑顔で彼女を迎え、どうしたのですかと声をかける。するとロゼリアは言いにくそうに口ごもったあと、おずおずと言い出した。
「ミシャ、とは今後絶対に呼ばないようにします。それをお伝えし忘れてしまったと思いまして」
「何故ですか?私はその愛称を気に入っているのですが」
「いえ、契約とはいえ旦那様となられる方に失礼なことは出来ません」
旦那様、と呼ばれたことに明らかに浮き足立っているノクターを見て、エルヴィンが不憫そうにロゼリアを見る。ロゼリアを一番気に入っているのは、使用人たちの誰でもなく、他でもないノクターなのだと、本人は気がついていないのだ。
「ロゼに付けてもらえる愛称ならどんなものでも嬉しいのですよ」
そう言いながらロゼリアの髪を一筋とり、そこに唇を落とす。するとロゼリアが若干引いたような目をして、首を振った。明らかな拒絶反応に、エルヴィンを始めとして使用人の数名が吹き出す。
「いえ、とにかくこれからはノクター様と呼ばせて頂きます」
「ノクターで結構ですよ」
「いえ、様は」
「ノクターと」
「……分かりました、ノクター」
ミシャも捨て難いのですがね、と言うノクターに答えることなく、有無を言わせぬ微笑みでロゼリアは一礼した。そして今度こそ馬車に乗り込み、帰ってしまう。くすくす笑いながらそれを見送ったノクターを見て、エルヴィンがため息をついた。
「ロゼリア嬢に出会ってどれだけ間抜けになってしまったんですか」
「間抜けか、ロゼの蔑むような目も捨てがたいからな」
「はぁ?ミシャって、プリシラ皇女殿下の飼ってる猫の名前じゃないですか」
「……」
すんっとノクターのにやけが止まる。そして、何かを思い出したかのように自分の剣の柄についている飾りを手に取った。何を考えているのか分からない真っ暗な目を向けてしばらくそれを見つめていたかと思うと、金具が歪むまでに握りしめる。
「はは、ふははは…」
「……」
自分たちの主がここまで笑う姿を初めて見た使用人たちは、悪魔の笑いを見ているかのように後ずさった。エルヴィンも、こりゃだめだと肩を落とす。当のノクターはひとしきり笑ったあと、その飾りをエルヴィンに押し付け踵を返す。
「どちらに?」
「明日の午後にはロゼがやってくる。部屋を整えなければな」
「はぁ…ノクター様自ら?」
「妻の部屋を用意するのは夫の役目だろう?」
「まだ婚約者ですので、隣の部屋はいけませんよ」
「……ん?」
「……」