婚約者が浮気しました
「…ご機嫌ようルース様」
「ロ、ロゼ!?ち、違うんだ、これは」
カーテンを全て閉め切って、ほんのり光るランプだけが灯る部屋。そこかしこに脱ぎ散らかされた衣服、ソファの上でもつれる裸の男女、極めつけは半年前に婚約したはずの男の首にあるキスマーク。
これを浮気と言わずになんと言う。
「これは、浮気じゃなくて、ただの経験というか」
「はぁ…経験」
その経験とやらを世間では浮気というのではないですか?
復唱すると、自分でもやたらめったらなことを言っていることを自覚しているのか口を噤んだ。訳の分からないことをほざいているけど、赤い染みだらけの裸を晒し、女を組み敷いた状態で言われても、だ。
表情の変わらない私を見て焦る私の婚約者を他所に、その腕の下で勝ち誇ったような笑みを浮かべる女性には会ったことがある。ルース様の教師だ。一介の子爵令息教師が伯爵令嬢に勝ったのだから、鼻が高いことだろう。
「君なら分かってくれるだろう?こんなことは今までもあったはずだ。僕だけ許さないというのは差別だ」
「……」
私への侮辱にしかならないその言葉に頭痛を覚え、私は額を押さえた。
私に何度もこのようなことがあったのは事実だけど、一切許した覚えがない。そもそも差別だなんだ言って私を責める前に謝ろうという気は起きないのでしょうか。
「とりあえず、今日は失礼致します。後日連絡しますので」
「待ってくれロゼ!」
ばたばたと足音が聞こえるけれど、構わず身を翻す。だてに5回経験していない。こんな男は必ずまた繰り返すのだから、早めに切るが得策。
「ルース様、私にもうあなたと話をする気は……っ!?」
「…ロゼ……!!」
言い終わらない内に体に腕が周り、きつく抱きしめられる。なんだか自分に酔っているようなルース様は、演技臭い苦しげな息を漏らしながら私の名前を読んでいる。
「心から君を愛している…!ただ、君以外を知りたかっただけなんだ。でもこれでようやく分かったよ、僕には君しかいない」
「……」
ぞわぞわっと触れられている部分から鳥肌がたち、私は反射的に彼の足を踏みつけた。
潰れたカエルのような声を上げて飛び退いた彼は、信じられないことにまだ上半身は裸で、私が声をかける前に愛していると囁いていた彼女は同じく裸身のまま放置されている。
大方私の婚約者を奪って優越感に浸りたかったのだろうけど、愛を囁かれる間に情でも移ったのか、呆然としながら私にすがりつくルース様を見ている。
「それでは」
婚約してからは熱心に尽くし、常に彼を立ててきた私の変わり身に呆気にとられたのだろう。
手紙に返信をしなくても、贈り物をせずとも、両親の前では常に自分を褒めてくれて、常に一歩下がった所にいて、何も文句を言わない婚約者。
まさかたった一度の浮気でここまで愛想を尽かされるとは思いもよらなかったのか、ルース様がそれ以上何かを言うことはなく、私は触られた部分を払ってその場を去った。
たった今案内したというのに、数分と経たずに戻ってきた私を見て、すれ違うメイドたちがひそひそと囁いている。
まただわ、と。
「帰るわ。馬車を出して」
溜息をつきながら馬車に乗り込む私を見て、護衛騎士のギルバートがまさか…と苦笑いした。
「またですか…」
「またよ」
今日は皇宮に向かうついでに、ルース様にお菓子を差し入れようと寄っただけなので、馬車の中には侍女のルーリエも乗っている。私とギルの会話を聞いて、顔を赤だか青だか分からない色に染めてわなわなと震えた。
「あんのクソ野郎!!」
「はい落ち着いてー」
普段は落ち着いているルーリエだけど、いつの間にか私の男性嫌いが移ってしまったのか、私が浮気されるといつも手が付けられないくらい怒るのだ。ぎゃーぎゃーと騒いでいるルーリエの声を聞きながら、私は走り出した馬車の外を眺めた。
ロゼリア・ル・ランベルト伯爵令嬢。
質のいい宝石の産地を持ち、数世代前から衰えを知らない由緒正しき裕福な伯爵家の長女。結婚適齢期の娘を二人持ちながらも、未だ人気ある伯爵夫妻の血を引く美貌の令嬢。
ブロンドの髪に瑠璃色の瞳。気品溢れる優雅な物腰と、年さえ見合っていれば王妃候補だったと言われるほどの教養の高さ。全員が口を揃えて私をこう褒めたたえた。
けれど、そんな完璧な伯爵令嬢ロゼリアの唯一にして致命的な欠点は、『浮気令嬢』であることだ。それだとまるで私が浮気をするようだからやめて頂きたいけど、問題はそこじゃない。
私がこれまでお付き合いした男性から浮気された回数は5回。2回目まではまだ可愛いもの。可哀想にと同情を寄せられた。けれどそれが3回、4回と続くと当然周りの目は変わってくる。
男性側でなく私の方に重大な欠陥があるのではないかと。それに相まって、数を増す婚約破棄は同情ではなく注視の対象へ変わっていく。
結果、私は十九になる今の今までお嫁に行くことが出来ず、数ヶ月単位で恋人を作り別れを繰り返しているのだった。
「……」
「お嬢様って、怒るとお黙りになりますよねぇ」
「怒ってないわ…。なんだかもう、うんざりなのよ」
溜息をつくと、御者台に繋がる小窓からギルの声が飛び込んでくる。
「あの男は初めから怪しいとお分かりだったのでは?」
「……」
何も言い返せない。
そろそろ何がなんでも結婚せねばと躍起になって、ルース様の人柄に不安を抱きつつ無理に進めたのだ。それもこれも、初回に酷い振り方をしてくれたあの男のせいよ!と怒りに任せて大きな大きなため息を吐く。
「デートに一、二時間は平気で遅れてくるし、なのに謝りもしないし、それとなく諭してみても言い訳ばかりして、挙句の果てに「君が約束の時間を間違えて教えていた気がするよ」とか言い出すし」
「大嫌いじゃないですか、よくそんな男と結婚しようと思われましたね」
私はもう一度深いため息をついて扉に寄りかかった。
私はもう十九。一般的に二十の大台に乗ってしまえば、行き遅れと言われるようになる。そうなればいよいよ相手を見つけることが困難になるだろうし、貴族以外へ嫁ぐことも考慮しなければならなくなる。
いや、むしろ一生独り身の未来しか見えない。
「結婚…したくない」
「しなければよろしいのでは?」
「だめよ、お父様が悲しむもの」
私のお母様は私が小さい頃に病で亡くなった。
私が六つのころから二人で生きてきたお父様は、私が素敵な人と出会って、素敵な家庭を築くことを期待している。ご自分がそうだったように、結婚こそが私の幸せだと思っておられるのだ。
お父様とお母様は恋愛結婚で、お父様も初めは私の好きなようにと仰ってくれたけれど、こうなると数打ちゃ当たる戦法に振り切り、毎日毎日縁談を持ってくる。
「では、せめてお嬢様が選ばれた方がよろしいかと思いますよ」
「私が?」
「はい、いつも旦那様が持ってこられる姿見で選ばれ」
「私が?この、恋よりも先に浮気される経験をし続け、男性不信になった私が?」
「……」
「選ぶ以前に極力会話もしたくないと思ってしまう私が、自分で結婚相手を選ぶの?」
「…申し訳ありません、余計なことを言いました」
これから皇宮へ行く用が無ければ今すぐに頭を抱えたい。残念ながらルーリエが目を光らせているので、この綺麗に整えられた髪を掴むような真似をすれば小一時間の説教を受けてしまう。
「…ギルー」
「なんですか?」
次の秋で私は二十になる。それまでに結婚出来なかったら、私に残された道はただ一つだ。
「私と結婚しない?」
「無理です」
例に漏れずばっさり。ギルは我が家に代々仕えてくれる家の一人息子で、幼なじみとして幼い頃から共に過ごしてきた。兄のような存在であり、親友でもある。
初めこそ私の専属騎士として私を守るという役目を負う騎士でしか無かったが、3回目の婚約破棄で私は、ギルにある提案をした。
「お嬢様が二十になられたら、という約束ですから」
「…約束よー。きっとその可能性の方が高いわ、だってあと半年だもの」
あの時のギルの顔は忘れられない。一生のお願いだから、私が二十になってもどこにも嫁げなかったら私を貰ってちょうだい!と頼み込む私を見て、目をまん丸にして瞬きを繰り返していた。
一生のお願いって、お嬢様の一生を預かることになるんですが、と困ったように笑いながらも、最後には涙ながらに縋る私に折れてくれたのだった。
ちなみにお父様には、実はギルとずっと恋仲で、彼以外に嫁ぐなんて考えられないの!と名演技を見せる予定。
「ルーリエ、私少し眠るわ」
「はい?目が浮腫むので駄目です」
「ちょっとショックが…」
「ロベルク子爵令息に振られたことですか?そんなこと気にも留めていないでしょう」
その通り過ぎて何も言い返せない。ルース様に特にこれといった感情は抱いていなかったし、正直あの女教師を組み敷いている姿を見て、傷つくよりもドン引きしてしまった。
きもちわ…んんっ…、と。
ルース様があの教師に手を出した理由は、私が一切を許さなかったからなのだろう。婚約しているのだからと迫られたこともあったが、何となく避けてしまった。私の見た目につられ婚約を受け入れる男性は多い。というかそんな男しか見たことがない。気軽に肌をゆるしてしまうのは何だか癪で、不必要な矜恃を張ってしまう。
「…帰ったらお父様に報告しないと」
「そうですね。着きましたよ、準備なさってください」
「…はぁい」
「拗ねても駄目です」
ルーリエに手を引かれ馬車を降りる。見慣れた皇城の白壁に吐き気すら感じられた。私が皇宮に呼ばれた理由は、皇女殿下のお暇つぶし、だ。
皇女殿下はプリシラ様と言い、この国で唯一の皇女であらせられるその方は、如何せん性格が悪…んんっ…で、婚約破棄を繰り返す私に興味津々。純粋な好奇心ならまだしも、プリシラ様は他にもご友人ならぬお取り巻きの皆々様を招いてしまう。
そしてその皆様というのが、私がこれまでに婚約破棄をしてきた令息の妻、もしくは恋人だというのだから居心地が悪いどころでは無い。
たかが伯爵令嬢が皇女殿下の誘いを断る訳にもいかず、定期的に開催されるこの茶会に出向く日は、胃痛が止まらない。あー嫌だなぁと大声で叫びたくなるのをグッと堪えて、重たい足を引きずった。