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現実の騎士の姿②【騎士の戦い方 前編】馬上において槍は投げる物

 

 前回は騎士の甲冑の変遷でしたが、ここでは騎士の武器や編成、戦法について解説していきます。


 そもそも騎士とはその字の如く、騎乗した戦士でした。つまりは騎兵です。


 ただ、馬に乗っているからといって、騎乗したまま戦うかは別の話。戦場に着くまでは騎馬で移動し、戦う際には下馬して歩兵になるという事もありました。


 というのも、中世初期の君主が騎士に期待したのは、()にも(かく)にも戦場に到達するまでの機動力だったからです。


「機動」、つまり軍隊が作戦において適切な地点へと素早く移動する事が、中世初期に重視された背景には、主にヴァイキングとマジャル人が関係していました。

 端的に言えば外敵の脅威です。


 北欧地域からヨーロッパ各地へ進出したノルマン人などのヴァイキングは、ロングシップを始めとする河川航行も可能な浅底の船で、海や川から神出鬼没な襲撃を繰り返しました。

 迎撃しようにも歩兵主体だった旧来の部族的軍隊では、現場に駆け付けても船に戻られ取り逃してしまう事がしばしば。


 そして、後のハンガリー人の母体となる遊牧民マジャルは、遥か東方から定住の地を求めて傭兵のような活動や略奪で食い扶持を稼ぎながら西へ西へと進み、遂には東欧までやって来ます。

 ヨーロッパに入った彼らは、カルパチア山脈を越えて現ハンガリー地域を支配していた大モラヴィア王国を撃破し、ハンガリー平原に移住。

 その後他国との傭兵契約を口実に周辺へ進出し始め、特に西方の東フランク王国(ドイツの原型)への侵入が激しくなります。

 彼らは領土より富の強奪を重視したため、東フランク王国は国境どころか中心部の町さえ襲われたとか。


 東フランクの諸侯がこれに対応しようにも、遊牧民の軍編成は騎兵一色といっても過言ではない代物(しろもの)

 騎馬兵に歩兵が追い付ける筈もなく、一方的に馬上から弓を射掛けられるわ騎馬突撃を喰らうわ、大軍で押し潰しそうとしたらそもそも軍同士が出会う前に逃げられる。

 ならばと策源地(軍事行動の起点となる後方基地)を叩いて根から潰そうにも、ヴァイキングの船同様、素早く策源地ごと逃げられてしまうと東フランクは悪戦苦闘続きでした。


 このような機動力の高い敵に対抗するには、こちらも高機動の兵を、つまりは騎兵を揃えなければなりません。

 そして騎兵を編成するには(すべから)く馬が必要でしたが、軍用馬は高価なものでした。加えて鎧もまた値が張ります。


 しかし、当時の国家に騎兵の大部隊を揃える財力も権力体制もありませんでした。

 そうなると、臣従する領主へ騎兵としての軍役を課したり、配下に給料代わりの土地を与えて装備を自前で整えさせる安上がりな方法が取られます。


 また、アジアに随分遅れて7世紀頃にヨーロッパでも、馬上での安定性を大いに助ける(あぶみ)が導入された事で、長期間の乗馬訓練をせずとも馬上戦闘が可能となりました。


 こうして自らの土地を持つ領主にして馬に乗ったまま戦う純粋な重騎兵、「騎士」がヨーロッパ各地で登場したのでした。



 しかし、戦場に現れた初期の騎士達の戦い方は、現代人の知る騎士の戦い方と全く違いました。

 馬上で剣や斧を振り回す事もありましたが、馬上槍突撃(ランスチャージ)は一般的に行われなかった様なのです。



 かつての学説では、フランク王国(現フランス及び西ドイツ)の英雄カール・マルテル(688?〜741年)によって(あぶみ)が導入され、馬上槍突撃(ランスチャージ)が行われるようになったとされていましたが、今ではその様なことはほとんど言われていません。

 実際のところ記録や考古資料から(あぶみ)の普及にはかなり時間が掛かっていたと考えられています。


 ヨーロッパで(あぶみ)が使われるようになってから300年も後の戦いであると同時に、中世の人々へ歩兵に対する騎兵の優位性を印象付けたとされる“ヘイスティングズの戦い”(1066年)においても、槍を脇に抱えて突っ込む馬上槍突撃(ランスチャージ)は見られませんでした。


 その分かりやすい証拠の一つが、ノルマンディー公ギヨーム2世(征服王ウィリアム1世)によるイング(ノルマン)ランド(・コンク)征服(エスト)の様子が描かれた【バイユーのタペストリー】です。(Wikipediaで現存する部分の全画像が見れます。戦闘場面は画像右後半)


 この巨大刺繍画の中で描かれた“へイスティングズの戦い”に騎馬が突撃する場面もあるのですが、敵歩兵に向けて馬を駆る騎士は誰もが槍を肩より上に掲げています。


 まだ当時の騎士について無知だった頃の自分は、「乱戦ならともかく、何で騎馬突撃をしているのに、わざわざ逆手で突こうとしてるんだろう?」と疑問に思っていましたが、これは敵を突き刺そうとしているのではありませんでした。


 槍を投げ付けようとしている瞬間だったのです。


 そう、黎明(れいめい)期の騎士達は槍を投げて戦っていたのでした。

 馬上からの投槍はローマ時代には既に一般的であった伝統ある戦法です。古来から存在する戦い方が依然として使用されていたということでしょう。


 槍を突かずに投げていた理由は、騎馬の勢いを乗せて槍で突き刺した際、衝撃で自分が馬上から弾き飛ばされる可能性があったからです。

 (あぶみ)によって馬上でも踏ん張れるようになるとその心配はぐっと少なくなるのですが、それでも長い間無難に従来の戦い方が続けられたという事は、騎士の間で弾き飛ばされてしまう不安が色濃く残っていたのかもしれません。或いは「槍は投げる物」という固定観念が邪魔していたか。


 いつ頃に投槍から馬上槍(ランス)への転換があったのかはよく分かっていません。ただ12世紀中頃までには馬上槍突撃(ランスチャージ)が一般的に行われるようになったようです。



 騎士が投槍に代わって長い馬上槍(ランス)を持つようになると、基本的な戦法は騎兵である以上騎馬突撃となりました。

 【バイユーのタペストリー】などの中世資料で見られる騎士の足の位置から察せられるように、中世の軍馬は現代人が想像するよりずっと小柄でしたが(体高160~170cmのサラブレッドに対し、最高の軍馬とされたデストリエタイプでも152~157cm程度だったと分析されている)その衝撃力は凄まじく、槍を取り付けたバイクが突っ込んでくるも同然だったといわれています。


 これに対して中世の歩兵は士気が低く統率も取れていないことがほとんどで、特に中世後期までは装備も貧弱であることが多く、騎馬突撃にはほとんど抵抗できませんでした。

 しかしながら、歩兵は一方的に騎士に蹂躙(じゅうりん)されていたと言い難いのもまた事実です。


 “へイスティングズの戦い”でもノルマン軍の騎士は、丘の上に陣取り“盾の壁(シールドウォール)”で待ち構えるハロルド軍の重歩兵(ハスカール)に手を焼いていますし、“バノックバーンの戦い”(1314年)ではイングランドの騎馬隊が、川岸に布陣するスコットランド軍歩兵の密集陣形(シルトロン)を前に立ち往生しています。

 “金拍車の戦い”(1302年)に至ってはフランドル軍の市民兵が密集方陣を組み、ぬかるみにも助けられて突撃してくるフランス騎士を見事に打ち負かしました。


 以上の様に有利な地形と統率の取れた歩兵であれば、騎士の突撃にも対抗する事は可能でした。

 また(クロスボウ)やロングボウといった強力な射撃武器によって、射手も騎士にとっての脅威となり得ました。


 確かに騎士は無敵ではありませんでしたが、それでも依然として騎士の優位性は長く揺らぎませんでした。この時点では。


 なお、騎士は戦場において弓を「下賤(げせん)な武器」として見下しています。(狩りでは普通に使う)


『騎士たちは尊厳を(おとし)めるものとして弓を軽視したが、離れて戦うのは臆病だからというときおり聞かれる理由によるよりも、弓が安価だったからだと思われる(歩兵もまた白兵戦を戦っている)。いずれにしても弓は、鎧をつけた馬上の騎士にとって使えないことはないにしても、扱いにくいことは間違いない』(【中世ヨーロッパの騎士】47P)


 とはいえ、中世ヨーロッパにも馬上で弓や(クロスボウ)を扱う騎兵は、少なからず存在はしていたようです。騎士ではなく、あくまで兵だったでしょうが。(後書きに画像URL有り)



 話は変わって、騎士には従者が付き物です。


 鎧を身に着け馬に跨る騎士は、かつてのような部族的戦士とは違う重騎兵として装備が増大する一方。当然ながら、それらを管理維持し運搬する助手が必要でした。

 まず実用的にも見栄え的にも必ず必要とされたのが盾持ち(スクワイア)。日本では従騎士とも呼ばれ、主人の身の回りを世話し装備を運んだり着付けを手伝う従者です。戦闘時は主人の傍に付いて行って、騎士の所在を示す旗を掲げたり、替えの武器を渡したり、乱戦時には嵩張(かさば)る槍を預かったりもしました。

 次に馬の世話をし(くつわ)を取る馬丁(ばてい)

 他に偵察や小競り合いに備える軽騎兵と護衛の歩兵が一人か二人必要だったそうです。更に場合によってはこれより人数が増える事もありました。


 元々一騎だけだった騎士はこのように複数の従者や部下を抱えた事で、数人~数十人の小部隊と化していきます。

 こういった騎士に兵が付随した小規模部隊は中世後期頃に「槍組(ランス)」と呼ばれるようになります。これは騎士の槍の本数を戦闘単位とした部隊でした。

 ちなみにビジネス用語でお馴染みの「フリーランス」という言葉の語源は「未契約槍騎兵(フリーランサー)」で、どことも契約していない、つまりフリーの傭兵“槍組(ランス)”部隊を指していたそうです。



 さて、いよいよ軍勢がぶつかり合う時、騎士達はどのように戦っていたかを解説します。


 中世の野戦において、軍は騎士の列と歩兵の隊列が交互に並び、順繰りに攻撃する「戦闘隊形(バトル)」を組みました。

 まず騎士が突撃して騎馬戦を繰り広げ(従者達も騎士と一緒に行動していたと思われる)、それに勝利した方の騎士がそのまま敵騎士を追撃しながら敵歩兵の列に突っ込み、騎士に続く歩兵が混乱する敵歩兵に止めを刺すという流れが基本的でした。

 逆に歩兵が前に出て(この場合射撃戦から始まる事が多い)、後ろの騎士の列は状況によって投入される事もあります。(それを口実に、楽に戦果を挙げられる追撃戦にだけ積極的になる騎士もいたと考えられます。貧しい騎士は戦利品や捕虜の身代金に生活掛かってますし)


 大規模会戦になると何重もの「戦闘隊形(バトル)」が繰り出される事もありました。

 第一回十字軍の“アンティオキア城外の戦い”(1098年)では前列に歩兵、後列に騎士が二列並ぶ戦闘隊形(バトル)が六つもあったとか。


 しかしこういった規模の大きな戦いは国同士の戦争でもたまにしか起こりえないもので、領主同士の争いなどの“私戦”はもっと小規模なものでした。

 そういう小競り合いのような戦いでは騎士と歩兵が一緒になって突撃することもあったと思われます。



 ここまでは主に中世初期から盛期における騎士の戦い方でした。

 長くなったので分割しましたが、後編では中世後期における騎士の戦い方を解説します。



※馬上でクロスボウを持つ騎兵の図


「サグラハスの戦い」のWikipedia記事より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:B_Osma_85v.jpg


【Horses and Crossbows: Two Important Warfare Advantages of the Teutonic Order in Prussia】馬とクロスボウ:プロイセンにおけるチュートン騎士団の2つの重要な戦闘上の利点

https://deremilitari.org/2014/03/horses-and-crossbows-two-important-warfare-advantages-of-the-teutonic-order-in-prussia/

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