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砂漠の服装①【ターバン】ターバンは“ちょんまげ”である


『男の美しさはターバンにあり、女性の美しさは靴下にある』──アリー・イブン・アビー・ターリブ(601~661年。第4代正統カリフにしてシーア派初代イマーム。シーア派の始まりとなった人物)


 本エッセイは「日本のファンタジーに対しての史実紹介」を主軸にしているので、どうしてもヨーロッパ中心になりがちなのですが、今回はヨーロッパから離れて中東などの服飾について。


 砂漠を始めとする乾燥地帯の服装といえば、ターバンや涼しそうな露出の多い服というイメージがあるでしょう。ファンタジーなどでもそういった格好で描かれています。

 が、本エッセイではいつものことながら、これら一般的イメージは誤りに満ちていることを指摘させていただきます。


 まずは「ターバン」を始めとする被り物について。


 ターバンは古くから中東などで使われてきた被り物でし()が、現代で被る人はほとんどいません。19世紀以降の近代化の過程で(すた)れていったからです。(着用者は近代化に反対する保守派、守旧派と見られた)

 今でもターバンを日常的に使う人は、イスラーム法学者(ウラマー)などの聖職者※や“イスラーム復興運動者”(「イスラム原理主義」という欧米によるレッテルの方が知られている)の一部の他に、“シク教”(ヒンドゥー教とイスラム教の影響を受けて16世紀に北インドで興った宗教)の信者ぐらいです。


※ (イスラームの聖職者は、組織化されず階級も職務も無いなどキリスト教の聖職者とは大きく異なるため、厳密には「聖()者」とは言い切れない)


 「インド=ターバン」のイメージも、お祭り・伝統行事などで被る伝統衣装「パグリ」(Pagri。ターバンに似た被り物)やシク教徒など、インド内の一部分をインド人に対するステレオとして認識してしまっているせいでしょう。

 (インド国内のパシュトゥーン人やバローチ人といったペルシア系民族もターバンの(たぐ)いを被ることはあるようだが、現在では日本の和服と同様に一般的とは言い難いと思われる)


 「ターバン」という呼び方は、ペルシア語の「دلبند (Dulband(ドゥルバンド))」→トルコ語の「Tülbent(チュルバン)」(※チューリップの語源でもある)→ヨーロッパでの「ターバン」という流れで成立したそうです。

 なので厳密にはターバンは中東外の呼称に過ぎず、「武士≠Samurai(サミュライ)」みたいな感じなようです。


 そしてターバンは総称であり、実際には形式ごとに違う名前で呼ばれています。同じものであろうと地域によって名前が違う場合も。

 (なお一般的にイメージされるターバンの事をアラビア語では「عمامة (Imama(イマーマ))」と言う)


 日本で例えるなら「(まげ)」でしょうか? 力士の「大銀杏(おおいちょう)」や若き信長もしていたという「茶筅髷(ちゃせんまげ)」などとそれぞれ区別されるように、ターバンも色々種類があるわけです。

 19世紀以降の近代化で廃れたところも「ちょんまげ」そっくりですね。


 そしてこれまた日本の「(まげ)」のように、身分や職によって形式が定められていたようで、政府高官など高位の人間ほどターバンには色々と装飾がされていたりしました。

 特にペルシア(イラン)のものはかなり豪華だったそうです。


『男の服飾でいえば、五〇エキュ以下では()()()()ターバンは手に入らない。最上品になると一二〇〇~一五〇〇リーヴルはするし、ちゃんとした服装をするためには三〇〇~四〇〇フランのターバンを買う必要がある』(【ペルシア見聞記】180P)


 ※(【ペルシア見聞記】4Pによれば、貨幣1エキュ=3リーヴル。1リーヴル=1フラン。円換算は不明だが、【エキュ】の外国語Wikipedia記事曰く、【ペルシア見聞記】が執筆された頃である17世紀半ばから後半までのエキュは『純銀11/12 (したがって純銀24.93グラム)』の大型銀貨だった)


 ただそういった高位の人間が被るものはやや重かったそうですが。


『彼らがデルバンド、つまり「巻き結ぶもの」と呼び、彼らの衣裳のうちもっとも美しいペルシアのターバンはなかなか重さがあって、これを身につけることができるとは思えないほどである。一二から一五リーヴルも重さのかかるのがある。もっとも軽いのでその半分。私は初めこのターバンをまくのに大いに苦労した』(【ペルシア見聞記】174P)


※(【ペルシア見聞記】6Pによれば、重さ1リーヴル=16オンス=490g。つまり12~15リーヴルは約5.9~7.4㎏。最も軽いものでも約3㎏はあったことになる)


 そしてターバンは色によって宗派や家系、職を示す意味もあったとか。


『今日、シーア派の聖職者は、ムハンマドまたはサイードの子孫でない限り、白いターバンを着用しており、その場合は黒いターバンを着用します。多くのイスラム教徒の男性は、特にスーフィズムの信者の間で、緑が楽園を表すため、緑色を身に着けることを選択します。青が一般的な北アフリカの地域では、ターバンの色合いが着用者の部族を表す場合があります。』(【ターバン】の英語Wikipedia記事より)


 なおターバンは直接頭に布を巻いていると思われがちですが、実際にはほとんどが()()()布を巻いた被り物です。そのため着脱は帽子と変わらず、布も(おおよ)そ一ヵ月ごとに洗う程度の手入れで済むそうです。

 (とはいえ取り換え用をいくつか持っておく必要があった。また新年や身内の結婚式には新品のターバンを被るのが慣例だったらしい)


 大体の場合、ターバンは平らな丸帽子に布を巻く形で構成されています。

 布によって空気の層ができることで、頭部の暑さや寒さを抑える断熱効果があるのだとか。昼は灼熱、夜は極寒の砂漠では重要な機能ですね。

 【ペルシア見聞記】の中でも、イランでは気候から頭部を守る必要があるとし、『いかなる所でも必要にして充分な理由なしには何事も一般に用いられないのだから』と、その地域で一般化している“事・物”には当然それが必要となる理由があると指摘しています。


 ターバンの土台となる帽子は非常に古い歴史があり、古代エジプトやアケメネス朝ペルシア(紀元前550~330年)で既に用いられるなど紀元前から存在していました。

 最古の記録は紀元前2350年(今から4300年以上前)に(さかのぼ)る古代メソポタミアの彫刻だそうで。


 一方、これに布を巻くのは元々アラブ特有のものだったようです。

 ただ「ターバン=イスラム教徒(ムスリム)」ということではなく、地域・民族的な帽子なので、7世紀まで中東の西側を領有していたキリスト教国家東ローマ(ビザンツ)帝国でも、アラブ系(当時はキリスト教徒も多かった)などの帽子として普通に使われていました。


 イスラーム以前の時代のメッカでは、女性もターバンを被っていたそうですが、イスラーム化した中世前期には男性のみとなったようです。

 またイスラーム化以降においてターバンを被らない者は、「外国人」であるか「酔っている」か、あるいは「男性ではない」もしくは「未熟である(子供や奴隷)」と見られたのだとか。


 なおアラビアで被られるターバン「イマーマ(Imama)」(※イマーマは厳密には巻く布のことを指す)は、礼拝の映像などで度々目にする「タキーヤ」という丸帽子(いわゆるイスラム帽)の上に布を巻く形式であり、余った部分は首の後ろに垂らすのがマナーだったようです。

 最も良いとされたのは「布端を肩甲骨の間の背中からぶら下げること」だとか。


 そしてターバンに使用される布は、6〜11mほどもあり、しばしば遺体を包む「骸布(がいふ)」にもなっていて、ターバンには旅先で亡くなった場合、周囲の人が埋葬しやすいようにする意味もあったようです。

 漫画【バットゥータ先生のグルメアンナイト】でも、巡礼に向かう途中で亡くなった老人を埋葬する場面で、ターバンの布で遺体を包むことが解説されています。


 オスマン帝国においても、ターバンは重要なものでした。

 東方の遊牧民だったトルコ系民族は、元々ターバンを身に付けていませんでしたが、その中の一部が中世前期に中央アジアから西へ進出してイスラーム化すると、彼らもターバンを被るようになりました。

 その後、オスマン帝国という巨大な多民族国家が成立するとターバンも多様化。


 多種多様なオスマン帝国のターバンは、「カヴク(Kavuk)」と呼ばれ、先述した「身分や職ごとに形式が違う」という特徴が顕著(けんちょ)なのもカヴクです。


 多くは綿(めん)やフェルトで作られ、アラブの物より巻き布の幅や長さが短かったそうです。つまり、より(しま)が多く厚みが薄い特徴があったわけですね。(逆に縞が少なくぶ厚い傾向のものがアラブ系ということになる)


 とはいえ、絵画などで描かれるオスマン帝国の皇族(スルタン)や高官のターバンはやたらでかいので、ケースバイケースでしょうか。

 ちなみに“冷酷者(ヤヴズ)”ことセリム1世(1470~1520年。スレイマン大帝の父)のものは65㎝もあったそうで。

 また、オスマン帝国の歴代皇帝の肖像画を見るに、洋ナシ形の赤い帽子に布を巻いた形式のカヴクが、オスマン皇帝のスタンダードだったようです。

 他に、赤い円柱形帽子に布を巻いたものが細密画などで確認できます。(被っている人物は大体、役人や軍人(イェニチェリ)などと思われる)


 様々な形があるオスマン帝国のターバン「カヴク」ですが、軽く調べてみていくつか形と名称を見つけたので、後書きに列挙しておきます。


 オスマン帝国で長く使われてきたカヴクでしたが、19世紀に日本の“ちょんまげ”と同じく、近代化の波を前に姿を消していくことになりました。


 “幸運な事件”(アウスピキオス事件とも。1826年6月15日)で、イェニチェリの解体を成功させたオスマン帝国皇帝マフムト2世(1785~1839年。日本で生没年が近い人物は11代将軍徳川家斉や“寛政の改革”を行った松平定信)。

 かの皇帝(スルタン)は衰退しつつあるオスマン帝国を立て直すべく、様々な近代化政策を断行しましたが、その諸改革の一つに、「“旧式な”ターバンを“近代化”させること」がありました。まるで明治政府の“断髪令”(1871年)のごとく。


 この近代化政策により、カヴクなどのターバンに代わって登場したのが「フェズ」という円柱形の帽子で、いわゆる「トルコ帽」です。(エジプトなどでは「タルブーシュ」と呼ばれる。ちなみにインドネシアなどにもよく似たソンコックがある)

 起源は不明ですがモロッコの帽子か染料が由来ともいわれ(「フェズ」の名はモロッコの都市から付けられた)、シンプルな円柱形は洋装とも似合い、どこかスタイリッシュで洗練された印象が生まれるものでした。


『文官と軍人の意識や行動様式を切り替えるために、まず軍隊ではイェニチェリを思わせるターバンが禁止され、かわりにフェズ(トルコ帽)が導入された。これはやがて文官にも着用が義務づけられている。この服装改革を半世紀後の日本における丁髷(ちょんまげ)禁止令や廃刀令になぞらえる人もいるほどだ』(【近代イスラームの挑戦】134P)


『マフムト二世の服飾革命は役所や軍隊にはじまり、またたくまに民間人にもおよんだ。タンズィマートが進むと、日本の文明開化にもよく似たハイカラ風俗が人気を呼ぶようになった。ヴァーンベーリは、トルコでハイカラになるための五つの条件をあげている。

「(1)最新式のデザインと流行にかなった最上の平羅紗のスーツ。(2)ぴったりとした独特の皮靴。(3)頭の横っちょに粋にかぶった小さくて洒落たトルコ帽と、当然のことながら、手袋。(4)肘掛けのついた流行型の馬車をおともに、軽やかな優雅な歩き方。そして、(5)フランス語の会話」』(【近代イスラームの挑戦】231P)


 いわば明治日本と同じ「欧化政策」を、オスマン帝国は半世紀以上先んじて行ったわけです。フェズ帽も「ざんぎり頭」の先輩と言えますかね。

 しかしながら、それでもこれまで通りターバンなどを続ける人は少なくありませんでした。


(なお、『徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説』という某番組の検証で出てきた証言によると、“ちょんまげ”は断髪令布告後どころか、大正時代でも続けていた人が地方の村などにいたらしい。おそらく江戸末期世代の中には(かたく)なに“ざんぎり頭”を拒否した人達がいたのだろう)


 とはいえ、1829年に導入されてオスマン帝国における近代化の象徴となった「フェズ帽」は、1842年に“カヴク”から完全に置き換わりました。

 そして「ターバンはもう古い」という認識を生み、国民に近代化へ進もうという意識をある程度植え付けることに成功し、帝国内のイスラム教徒(ムスリム)のみならず、ユダヤ教徒やキリスト教徒も被るハイカラなファッションとして普及。

 更にオスマン帝国の外側でも、イスラームにおける近代化のシンボルとして使用されていきました。


 しかし第一次世界大戦の敗戦とトルコ革命でオスマン帝国が崩壊すると、近代化の象徴だったフェズ帽は逆に「旧体制の帽子」と見られるようになり、トルコ初代大統領ケマル・アタチュルクによって廃止されてしまいます。

 こうしてターバンもトルコ帽(フェズ)も、時代の流れによって、ちょんまげや和服のように姿を消していったのでした。



 中東ではターバン以外の被り物もあります。

 ターバンと並んで中東を代表する被り物が「シュマーグ」という頭巾です。(「クーフィーヤ」とも。国、地域によって呼称が変わるが、アラビア語の方言も関係して呼び名がかなり多い)


『大体の目安としては、シュマーグはレヴァント地方・イラク・アラビア半島、グトラ(グトゥラ/ゴトラ/ギトラ)はアラビア半島の湾岸諸国、ハッタはレヴァント地方、クーフィーヤはパレスチナと覚えておいて差し支えない』(Wikipedia記事【クーフィーヤ】より)


 主にアラビア半島やクウェートなど特に湾岸諸国で使用され、アラブ人の代名詞的服飾と言っても過言ではありません。

 基本的には白い布や赤い模様が付いた白布を頭巾にして、後ろに布を長く流しています。ファンタジーでも度々登場するベール状のアレ、あるいは石油王が被ってるやつと言った方が分かりやすいですかね。なおターバンと同じく、下に丸帽子「タキーヤ」(イスラム帽)を被っています。


 エッセイ風漫画【サトコとナダ】3巻には、この頭巾についての解説シーンがあり、シュマーグとして使われる白布に赤い模様があるのはサウジアラビア風で、額の上にくる布を山折りにするのだそうです。

 また、カタールではこれを谷折りにし、折らずにふわっと波打つような感じにするのはアラブ(U)首長国(A)連邦(E)風なのだとか。


 この頭巾は主にヤギの毛で織られた「イガール」という紐のヘッドバンドで固定しており、これは装飾品でもありましたが、農民や漁民などの定住民の間では使われていないそうです。(遊牧民由来の習俗か?)

 【サトコとナダ】3巻によれば、イガール(サウジアラビアでは「イクァール」と呼ぶ)は国ごとに決まった形式があり、一目でどこの出身か分かるのだとか。

 カタールやアラブ首長国連邦(UAE)は後ろに紐が垂れています(カタール風は紐の両端を垂らし、UAE風はネクタイのような形で垂らす)が、サウジアラビアのものは紐が無い完全な輪だそうです。

 そして「イガール」は世俗(せぞく)のイメージがあるため、イスラム法官(ムフティー)といった宗教指導層は身に着けないそうなので、イスラーム風の聖職者を作品に登場させる場合には注意が必要です。


 なおヘッドバンド自体は古代から中東に存在していたものの、現在の「イガール」の形の歴史は意外と浅く、最も古い言及記録が18世紀初期(日本は江戸時代中期の初め)なんだとか。

 中世ファンタジー世界の中東風民族は、イガールを付けていなさそうですね。あるとすれば、ねじり鉢巻きのような太い形のものでしょうか。



 少し話を戻して、先程解説した頭布「シュマーグ」ですが、通常は頭巾形の被り物として使われる一方、イガール無しでターバンのように頭へ巻いたり、全体を覆うように巻き付けることもあるようです。


 布を頭全体に巻いて覆面風にするのは、古くからアフリカ北西部(マグリブ)地域(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)が最も盛んで、「リサム」(Litham)と呼ばれているそうです。

 今でもリサムを着用するのは、主にアマジク人(ベルベル人という、ローマからの蔑称由来の呼び名の方が有名)で、彼らは北アフリカのコーカソイド系(いわゆる白色人種)の先住民族でもあります。


 リサムを伝統衣装とするアマジク人は、元来古代人の例に漏れず独自の信仰を持っていたと思われますが、紀元前100年頃にローマ帝国の支配下に置かれ、後にローマ帝国のキリスト教化と同じくしてキリスト教化。

 8世紀にイスラーム(アラブ)が北アフリカを制圧すると、今度はイスラーム化と混血によるアラブ化が進みました。


 とはいえ、「リサム」はイスラームとは関係が無いようです。

 リサムはイスラーム到来以前から用いられており(口と鼻を描かない人物像がある洞窟壁画などから、先史時代にもう存在していた可能性もあるらしい)、イスラム教の影響ではなく、「悪い力」から身を守る魔法・呪術的意味合いを持つのだとか。

 (ちなみに中世12、13世紀の北アフリカ王朝ムワッヒド朝が『男性が女性の服装を模倣することは禁じられていると主張』してリサムを禁じようとしたが、『その使用を抑制することはできなかった』らしい)


 またリサムにターバンを付け加えたようなスタイルもあり、これは「タゲルムスト」(tagelmust)と呼ばれています。使用される布の長さは、10メートル以上になることもあるのだとか。


 タゲルムストは、アマジク人の中でも半遊牧生活を営むトゥアレグ族の伝統衣装であり、タゲルムストも衣服も藍染(あいぞめ)の綿布を使うため、トゥアレグの人々は「青の民」(青い人)との異名も持っています。(他にハウサ族やソンガイ族も着ているらしい)


 なお砂漠では水が貴重なために、トゥアレグ族の藍染めは乾燥させた(あい)を叩いて布を着色しています。

 そのためタゲルムストの着用者は皮膚に染料が染み込むことがあるのですが、トゥアレグ族では皮膚に沈着した藍は顔を保護し健康的で美しくさせると考えられていて、皮膚が青いほど豊かさを象徴するともされているそうです。こういったところも「青い人」の異名の由来なんだとか。

 (さらにトゥアレグ族の特徴的な文化として、男性は見知らぬ人や自分より立場の高い人に口や鼻を見せることを恥じる場合が多く、タゲルムストが無い時は手で自分の顔を隠すという。また彼らは女系社会を築いており、イスラームでは珍しく男性が肌を隠し、逆に女性が顔を大っぴらに(さら)している)


 とりあえず中東の被り物は以上で終わりとします。他にも色々あるのですが、代表的なものは紹介したかなと。

 なお中東の被り物にはどれも“つば”がありませんが、その理由は礼拝で地面に額を着ける際に邪魔になってしまうからです。



 おまけの話として、近代化以前の中東では、屋内でも被り物をしていた※ため、髪型によるファッションは基本存在していませんでした。


※(女部屋(ハレム)などの私的(プライベート)な空間では男女ともに被り物を脱ぐことも)


『トルコの男子は、幼い時から縁なし帽を被り、それを脱ぐのは無礼とされる。そのため部屋の中でも外でも、常に帽子を被るのが習慣になっている。たとえ寝室に入っても、頭を覆わないと風をひく恐れがあるとして略式の寝帽を被る。──中略──そのためこの国の人々は理髪に必要を感じないので、そこには気を配らないが、髯は男子が最も尊重して蓄えなければならないとされているので、その整形には厚く意を注ぐ。──中略──特に毎金曜日にモスクに参拝するにあたっては、必ず先ずは髯を整える』(【土耳古畫観】現代語 全訳 三九)


 常に帽子を被っているため頭髪の発育が妨げられ、若ハゲが多かったそうで、『帽子を取ると赤く光り輝く大入道になっていない者は少なくない』とか。


 髪型に代わってファッションを担ったのは「(ひげ)」で、ヒゲが生えるまでは子供扱いということもありました。

 (ヒゲの長さが規定以上でないと入隊出来ない規則があったウクライナのコサックなど、ヒゲを成人の証とした文化は中東以外でも見られる)


 とはいえ、ただ生やせばいいというわけでもなく、聖職者か敬虔(けいけん)な老人以外はあまり伸ばさないそうです。

 また【ペルシア見聞記】によると、アゴ髭はアゴを手でおさえて、はみ出した分を切り落とし整えるのが普通だったとか。

 (基本、皮膚が隠れる程度にするものらしい。それに長いヒゲはトルコ式であり、近世イランではトルコ式は嫌われていたとか。まあオスマン帝国とサファヴィー朝イランは激しく対立し何度も戦争してるので当然ちゃ当然)



 砂漠地域の被り物といえば「ターバン」のイメージですが、実際には様々なものがあり、またその背景には乾燥気候の寒暖差が関係しており、さらに時代の流れによって極一部の人以外では廃れてしまったことはご理解頂けたでしょう。

 創作においてもその点を頭に置いておき、特に現代が舞台である場合は、ターバンがちょんまげのような古い存在であることを忘れてはなりません。(今も身に着ける人がいるという意味では、着物の方が例えとしては的確か)


 我々日本人だって、外国人の想像と違って“ちょんまげ”や“和服”を常にしているわけではありませんからね。


主な参考資料


Wikipedia


【ペルシア見聞記】ジャン・シャルダン

【近代イスラームの挑戦】山内昌之


漫画

【サトコとナダ】ユペチカ

【バットゥータ先生のグルメアンナイト】亀



※オスマン帝国高官のターバン(カヴク)


・カラビ・カヴク(Kallavî kavuk)

 大宰相や海軍提督などのターバンで、軍を率いての遠征時や祭りの際に着用したらしい。カヌレを細長くしたような形をしている。

(↓18世紀、ヨーロッパの使者と会談する大宰相。左側で座っている人物(大宰相)が被っているのが「カラビ・カヴク」)

https://twitter.com/NerminTaylan/status/984829670247067648


・ムセベゼ・カヴク(Müceveze kavuk)

 赤く細長い円柱を綿の寒冷紗(荒い平織りの布)で巻いたターバン。大宰相や州を治める役人(知事?)が使用した。“雷帝”バヤズィト1世( 1360~1403年)も被っていたらしい。

(↓墓石に象られた様々な形のオスマン帝国高官のターバン。中央二つが「ムセベゼ・カヴク」)

https://x.com/MehmetKokrek/status/582582951445164032


(↓トルコ語Wikipedia記事【Zağanos Paşa】の画像。メフメト2世の大宰相ザガノス・パシャの棺を蓋う布の上に「ムセベゼ・カヴク」を再現したものが乗っている)

https://tr.wikipedia.org/wiki/Za%C4%9Fanos_Pa%C5%9Fa#/media/Dosya:Bal%C4%B1kesir_Za%C4%9Fanos_Pa%C5%9Fa_Mosque_1571.jpg


・カティビ・カヴク (Kâtibi kavuk)

 宮殿の門番や高位のイェニチェリなどが被ったというターバン。写真はメフメト4世(1642~1693年)の書記官の物らしい。

https://x.com/senaycmn/status/1702792396616982857


フェズ帽


Wikipedia記事【マフムト2世】より、洋式軍装を着てフェズを被ったマフムト2世

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%95%E3%83%A0%E3%83%882%E4%B8%96#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:MahmutII.jpg


Wikipedia記事【ミドハト・パシャ】より、フェズと洋装姿のミドハト・パシャ。なおミドハトは欧米以外での初の憲法(大日本帝国憲法より13年早い)である“ミドハト憲法”の起草者。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%89%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Midhatpasha.jpg


英語Wikipedia記事【Fausto Zonaro】より、「かごに乗る英国大使の娘」

(駐オスマン英国大使の娘を護衛する軍人が、フェズ帽を被っている)

https://en.wikipedia.org/wiki/Fausto_Zonaro#/media/File:Fausto_Zonaro_-_The_Daughter_of_the_English_Ambassador_Riding_in_a_Palanquin_-_Google_Art_Project.jpg

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