中世、近世の海 番外編①【中世の海戦】衝角、弓矢、白兵戦
遅ればせながら、《中世、近世の海》で書けていなかった「海戦」についてを、本項で補足します。
中世の海戦は【中世の船】でも触れましたが、弓矢で射ち合いながら接舷しての斬り込みが基本でした。
そして日本を含む当時の海戦思想は、船を砦に見立てて戦うものだったそうです。つまり、船という“移動要塞”を陥落させるべく、矢を射掛けながら兵を送り込むという考え方をしていたのです。
英仏百年戦争の著名な海戦である“スロイスの海戦”(1340年)でも、仏艦隊は船同士を鎖で繋ぎ巨大要塞とする迎撃態勢を取っています。(しかし、イングランドの長弓兵による猛射で呆気なく敗北している)
『十五世紀までは、海上戦闘は、陸上戦闘の延長であった。戦闘の目的は、敵艦に近づき、乗り込み、乗組員を圧倒することであった。最も効果的な軍艦は、古代の場合と同様に、櫂で進むガレー船であった。それは、風や潮に頼らず自由に推進でき、敵艦に乗り込んで戦い、敵を捕える軍隊を運ぶことができた』(【ヨーロッパ史における戦争】77P)
一方で、古代の海戦では櫂船による衝角攻撃、つまり体当たりが一般的でした。
水面下の船体に衝角という木製の角やそれを金属で覆った武装を取り付け、敵船に突っ込むことで「突き沈める」のです。(正確には引き抜いた際の破孔によって、大浸水を発生させ行動不能に追い込む)
なおガレー船やロングシップなどは戦闘を前にすると、帆とマスト(当時のものは簡単に取り外しが出来た)を陸や船内に下ろしていました。帆は火矢の格好の的であり、一度燃えてしまえば、すぐに船火事へ繋がるからです。
『当時の軍船は、取り外し可能な帆と櫂の両方を備えていたが、大量の水や食糧を積むスペースは無かった。そのため、何日も連続して航行することはなく、もっぱら沿岸を航行して、夜は浜に引き上げられた。戦闘が予期される場合には、敵の砲火に備えて櫓 (マスト)や帆を外して陸に残し、櫂による航行で敵船に接近した』(【用兵思想史入門】34P)
また、【中世の船】で紹介したように、地中海などでは中世や近世においてもガレー船は現役であり、衝角攻撃も古代ほどではないものの、普通に採られる戦術であり続けました。
ただ敵船の撃沈というより、行動不能状態にして、移乗攻撃をしやすくする目的の衝角攻撃も多々あったようです。(船体に大きなダメージを与えられずとも、櫂を破損させれば船足を遅くさせられる)
というか大砲登場以前では、衝角攻撃と弓矢を射掛けながら接舷しての白兵戦以外に、ほとんど方法がありません。
(時代によっては射撃武器として投槍、弩も使われた。漫画【落ちぶれゼウスと奴隷の子】の中でも船上から敵船へ槍を投げようとするシーンがある。【中世の船】で紹介した動画【Krauka - Ormurinn Langi (Faroese folk song)】のイラスト左側にも投槍が見える)
一応ローマ帝国や古代ギリシャの櫂船の中には、投石機などを搭載したものもあったそうです。
また、ローマの後裔国家である東ローマ帝国の軍船“デュロモイ”には、有名な『ギリシア火』(原始的な火炎放射器)が搭載されていました。
※(ただしギリシア火は射程が極端に短いため、対艦というより対人兵器として運用されがちだった。更にアラブ人には湿らせた毛皮という簡単な防御策で対処されている)
しかし、本エッセイの【海賊と商船の実態】にもあるように、多くの中世国家は正規の海軍を持っておらず、民間船を武装させて戦うのが一般的でした。
『中世の欧州では、陸上での戦闘が傭兵軍に依存していたのと同様に、海上戦闘や陸軍の海上輸送の際には、そのたびに商船や漁船を雇ったり徴集したりして戦うことが多かった。ただし、海上通商に依存していたイタリアの都市国家であるヴェネツィアやジェノヴァなどは、早くから常設の海軍を整備していた』(【用兵思想史入門】93P)
国が管理する軍艦であれば弩砲などの重武装がされる事はあったでしょうが、民間船にそんな兵器を装備させることなどできません。
(交易に使うには過剰な武器は余計な荷物な上、専用設計のガレー船でもない限り、当時の船の構造自体が大型兵器を載せるのに向いていない。その点、大砲は積み下ろしに都合が良い形をしていた)
また揺れる船上では命中精度はほとんど期待できず、結局のところ兵器を装備した軍船であっても、衝角や白兵戦でしか決定打を与えることが出来なかったようです。
そもそも撃沈を見込める兵器を積もうとすれば、「敵船を沈めようとするなんてもったいない!」と反対されたかもしれません。何故なら、沈めるより拿捕(船を捕獲すること)する方がよっぽど益になるからです。
今も昔も船舶の建造は大変なコストが掛かります。一から造るより、完成品を多少傷付けても奪った方が、ずっと安上がりでした。
【中世の船】でチラッと書いた、最大級のロングシップ『長蛇号』も拿捕されて持ち主を変えています。
元はノルウェー王オーラヴ1世(960年代〜1000年。少年漫画かラノベ主人公ばりの人生を送っている)の乗艦として北海最強を誇りましたが、北欧史屈指の大海戦“スヴォルドの海戦”(1000年)でオーラヴが追い詰められると、敗北を認めた彼は海へ身を投じ、長蛇号は王に叛旗を翻していた候エイリークの戦利品となりました。
漫画【ダンピアのおいしい冒険】の冒頭でも、武装商船を襲うと、より小さな自分達の船と交換する形で積荷ごと乗っ取っていますし、その後も拿捕した船を新たな私掠船として仲間に与えたりしています。
船を拿捕する事は単に船を奪うだけでなく、その船内にある物資や金目の物まで得られるため、大きな利益を見込めたのです。
こういった戦利品は船長だけでなく、船員にも分け前があり、移乗攻撃は死傷のリスクが大きいにも関わらず船員の士気が高くなるものでした。(この辺りは陸上も同じであり、戦闘そっちのけで略奪に夢中になるケースも多い)
近代においてもこれは変わらず、幕末“薩英戦争”(1863年)に至っては、拿捕した薩摩船の略奪に英兵が夢中になり過ぎて、戦闘に大きな支障をきたす事態が発生していました。(幕末期の通訳で知られるアーネスト・サトウもこの略奪に参加し、陣笠などを手に入れている)
敵船の拿捕には基本メリットしかないので、古代から近代まで積極的に移乗戦が行われ、ガレー船の衝角攻撃も、敵船に突っ込んだ後に刺さった船首を足場に切り込むことが多かったようです。(これには、ガレー船の舷側に櫂が並んで邪魔なため、船腹を付けることが難しかった事情もある)
特にローマ帝国崩壊後は、経済や物流が一旦衰退したために船の建造コストが上がったことで、衝角攻撃による撃沈より移乗攻撃が主流になっていきました。
英語Wikipedia記事【Battle of Damme】によると、13世紀のイングランド王国では50隻以上の艦隊を維持するのに、おそらく王室収入の4分の1にもなるであろう費用(3500ポンド以上)が掛かったとか。そりゃ常設海軍じゃなくて商船の戦時徴用が主流になるし、撃沈より拿捕優先になりますわ。
また古代と違ってガレー船の漕ぎ手※を大勢確保することが難しくなっていき、帆船の使用が増加。余計に衝角の使用が少なくなります。
※ (商用なら奴隷の漕ぎ手でも問題無いが、軍船となると、オールの動きを一糸乱れず揃えられる、高度に訓練された漕ぎ手が必要だった)
また商船の徴用が行われるようになるのも、海軍の維持コストの他に、ガレー船の減少と帆走商船の増加が大きいようです。
そして海戦における陣形について。
ガレー船が主流だった時代は、船が横一列に並んだ「横陣」が基本でした。
『艦隊の陣形は、より多くの兵士を乗せて速力を上げるために大勢の漕ぎ手を乗せたガレー船の時代には、多数の櫂が突き出す脆弱な舷側を、味方の隣り合う船同士が互いに護り合うため、おもに横広に展開する「横陣」(中央が敵方にせり出した「弓形陣」、逆に凹んだ「三日月陣」を含む)が用いられた』(【用兵思想史入門】34P)
横陣を組んだ敵艦隊に対する戦術としては、艦隊の一部を敵側面に回り込ませて衝角攻撃をさせたり、縦一線の戦列を組んで敵艦隊の正面から突破し背後に回り込むといった、正しく陸戦と大きく変わらない戦い方が行われたそうです。
ガレー船の艦隊による戦術として興味深いものとしては、一つにイタリアのジェノヴァ共和国とピサ共和国が衝突した“メロリアの戦い”(1284年)での2列配置。
ジェノヴァ側は艦隊を2列の横陣に分け、第2列を第1列のずっと後方に置いたのですが、これによって敵方のピサ側は第2列の船団が軍艦なのか、或いは軍艦を後方支援する雑役用の船なのか判別できなかったそうです。
そしてジェノヴァ艦隊の第1列とピサ艦隊が戦っている間に、後方から猛進した第2列の艦隊がピサ艦隊の側面を突いて勝敗が決しました。
(ちなみに戦闘前の祭儀の際、ピサの大司教の杖にある銀の十字架が落ちてしまったが、ピサ艦隊は「神の助けが無くとも風があるなら勝てる」として気にしなかったという。結局負けているが)
もう一つが“サルテス島の戦い”(1381年7月17日)でのカスティーリャ(スペイン)艦隊の撤退からの逆襲。
この海戦では、ガレー船17隻のカスティーリャ艦隊に対しポルトガル艦隊はガレー船23隻と、カスティーリャ側が戦力的に劣勢でした。
このまま戦ってはまず勝てないと判断したカスティーリャ艦隊は、回頭してセビリアの港に戻ろうとします。
当然ポルトガル艦隊はこれを追撃。逃げるカスティーリャ艦隊は乗組員に速く漕ぐよう命じ、追うポルトガル艦隊も負けじと速度を速めました。
やがてポルトガル艦隊は縦隊で追撃を強行するうちに、船同士の距離が離れて隊列が伸びていき、更に疲労や喉の渇き、夏の暑さによって、より多く漕がねばならない後方の船から落伍、つまり追撃から脱落する船が続発してしまいます。
それでも勝利を確信していたポルトガル艦隊前衛の8隻が、ウエルバ川の河口にある小島サルテス島を襲撃。これはサルテス島の漁業を破壊することで、カスティーリャ側に経済的打撃を与える意図があったようです。
すると、逃げていた筈のカスティーリャ艦隊が逆襲に転じ、この8隻を簡単に拿捕。
残るポルトガルのガレー船は疲弊し船同士も離れたままで、整然と密集陣で進むカスティーリャ艦隊の敵ではありませんでした。(襲われる味方船の元に駆け付けようとした後方のポルトガル船は、急いで櫂を漕ぐことで余計に消耗し、更なる弱体化を繰り返した)
結果、23隻あったポルトガル艦隊は最後の1隻を除いて全て「順番に」拿捕され、約6000人もの乗組員が捕虜となる完敗に終わっています。
こういったガレー艦隊の陣形や戦術は、大砲が登場してからもしばらくは大して変わりませんでした。
ガレー船は櫂で推進する都合上、舷側に艦砲を積むことが難しかったので、もっぱら船首に搭載されています。そのため、後の軍艦と違って船首を敵に向け続ける昔ながらの戦い方に変化は現れなかったのです。
肝心の大砲の使いどころも、遠距離から砲弾を撃ち込むのではなく、衝角が敵に突っ込んだ後に発砲すべきとされました。
というのも初期の大砲は、命中精度も威力もまるで期待できるものではなかったからです。
最初期の砲は石の砲弾(専用の矢を撃ち出すことも)を飛ばす“射石砲”であり、火薬の配合も未熟だったため、酷くコストが掛かる割に投石器ほどの威力も出せない代物に過ぎません。
(漫画【ホークウッド】でも思わせぶりな登場をしておいて、大音響で混乱を引き起こすことはできたものの、実際に与えた損害は不運な敵兵一人に拳大の石弾を当てただけだった)
しかし、急速に大砲や火薬の改良が進み、あっという間に何とかまともに使える兵器へと変貌しました。
“バルセロナの戦い”(1359年)では、アラゴン王国の艦隊が数に勝るカスティーリャ艦隊に対し、射石砲の砲撃でカスティーリャの大型帆船に大きな損傷を与えています。
やがて大砲が標準的な装備となり、帆走軍艦が広まるようになると、衝角もガレー船もやがて大きく衰退していきます。
衝角が再び軍艦に装備されるようになったのは、近代に蒸気機関を動力とした軍艦が登場してからでした。(しかし、近代において実際に突き沈めた事例は、敵艦より「味方への衝突事故」の方が多い。一方で衝角が廃止された後も、第一次、第二次大戦では潜水艦に対する戦法として体当たりは行われた)
一方で中世の主力帆船である「コグ船」は、ガレー船のような横陣主体というわけではなかったようです。
本項冒頭で触れた“スロイスの海戦”でも、フランス側ではガレー艦隊の指揮官から出された海上迎撃案が、鈍いコグ船と俊敏なガレー船では統一行動が出来ないという理由で却下され、港での艦隊籠城が行われました。
しかし“スロイスの海戦”で行われた密集陣が、長弓の射撃に敗れたように、コグ船の海上要塞化はやや難があったようです。
“サンドイッチの戦い”(1217年。第一次バロン戦争)においても、70隻もの輸送艦を護衛していたフランス艦隊は、密集陣形でイングランド艦隊と戦いましたが、風上を取られた上に長弓兵の射撃を受けて大損害を出しています。
おまけに密集したことが仇となって、集中攻撃を受ける先頭の旗艦を、他の船が上手く支援出来なかったそうです。
そして旗艦を失ったフランス艦隊は敗走。輸送艦はほぼ全て拿捕される結果に終わり、100年後のスロイスの海戦同様の大敗となりました。
『フランスの水兵は虐殺されるか海峡に投げ込まれたが、捕らえられた各船に乗っていた2人か3人は助かった』(英語Wikipedia記事【battle of Sandwich (1217)】)
余談ですが、この海戦ではイングランド側が生石灰を目潰しとして使用しています。マストの上から石灰入りの鍋をひっくり返し、風に乗せてフランス艦隊にお見舞いしたとか。ひでぇことしやがる……。
《中世の船》の中で、コグ船はロングシップなどに対し甲板の高さから優位に立てたと解説しましたが、一方でガレー船相手に強いとは言い切れません。
それが如実に表れたのが“ラ・ロシェルの海戦”(1372年)です。
百年戦争の最中、イングランドの手にあったラ・ロシェルを奪還せんとするフランス軍を同盟国カスティーリャ王国がガレー艦隊(指揮官はジェノヴァ人)で支援。これとイングランド海軍が交戦したのが本海戦でした。
積極的に攻撃するカスティーリャ艦隊と、ラ・ロシェルへの物資を満載した輸送船を守るために、密集陣で城塞化するイングランド側との激しい戦闘の末、両者は一旦離れて小康状態となります。
史料によってこの時のカスティーリャ側とイングランド側の位置が違いますが、共通しているのはイングランド艦隊は浅瀬の上に停泊した事でした。これはカスティーリャ艦隊の巧妙な策略だったとも、イングランドの輸送船の操縦ミスとも言われています。
干潮になると喫水の深いイングランドの船は座礁してしまい、動けない彼らにカスティーリャ艦隊が総攻撃。
喫水の浅いガレー船は引き潮の浅瀬でも問題なく航行し、イングランドの船に油を撒いて火を付けました。勝敗は言うまでもないでしょう。
イングランドは壊滅した艦隊(軍艦は36隻?)を再建するのに14の都市の努力と1年の月日を要したとか。
喫水と機動力の差でコグ船がガレー船に敗北した事例ですが、一方で乾舷(水面から上甲板まで)の高さもカスティーリャ艦隊の「ガレー船」が勝っていたそうです。(カスティーリャ艦隊のガレーは木製の胸壁を増築していた。またイングランド船が多くの物資を積んでいたことも影響したらしい)
中小のコグ船では、ガレー船相手に甲板の高さで負ける場合もあるのです。
以上の様に、中世の海戦は敵船を沈めるのではなく、弓矢で弱らせての接舷切り込みで拿捕を狙うのが基本であり、そこには船の建造や維持のコスト問題も大きく影響していました。
また艦隊の規模も100隻どころか50隻でも十分大規模で、なおかつ作戦行動中の艦隊の多くは、兵や物資を運ぶ輸送船、テンダーや艀といった雑役用の船が大部分を占める場合も多々ありました。
(古今東西、大規模な海戦は陸軍の輸送や上陸作戦を阻止しようとして発生することが多い。ナポレオン戦争の“トラファルガーの海戦”や日清戦争の“黄海海戦”、更には第二次世界大戦、大和型戦艦が沈んだ“レイテ沖海戦”や“坊ノ岬沖海戦”の背景にも、上陸作戦や陸軍の輸送があった)
中世ファンタジー世界においても、風魔法などで大量の木を一遍に切り倒して簡単に材木を確保することが出来ても、船の建造に結局大きなコストが掛かってしまうことでしょう。
そのため魔法攻撃は史実の衝角のように、敵船の撃沈ではなく、マストや索具、櫂などを攻撃して航行の妨害を狙ったり、兵員を殺傷して切り込みを支援するのが主目的になりそうですね。
ざっと中世の海戦について解説しましたが、次回では艦砲を使用するようになった時代の海戦について扱います。
主な参考資料
Wikipedia
【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード
【用兵思想史入門】田村尚也
【図解 中世の生活】池上正太
【ゲームシナリオのための戦闘・戦略事典: ファンタジーに使える兵科・作戦・お約束110】山北篤