【中世の風呂屋と近世の喫茶店】後編 権力者に疎まれた反乱の拠点
中世の風呂屋と近世の喫茶店が社交の場であったことを前編で説明しましたが、後編ではいずれも実は反乱の拠点にもなったことを説明します。
まず前編において中世の風呂屋は、権力者に嫌われていたと書きました。
なぜ風呂屋が権力者に疎まれたのかというと、度々反乱の計画が話し合われる場になっていたからです。
当時、風呂屋は社交の場であると同時に、聖域(聖堂の内部など統治権力が及ばない場所。治外法権に近い)の一つと考えられていて、浴場ではしばしば突っ込んだ政治的な会話が交わされています。
時には権力者への批判、更には犯罪の計画、反乱や一揆の計画が練られることも。
何かの企みというと酒場などで話し合われてそうですが、浴場は酒場よりずっと密室に近く、権力の手が及びにくい聖域という点からも、風呂屋の方が密談に都合が良かったのでしょう。
権力と揉め事を追い出した空間である聖域については、また別項で詳しく書きたいですね。
そんな訳で前編で書いたように、中世後期から風呂屋への規制が強まり閉鎖に追い込まれたのは、どうも単純に売春問題や衛生管理だけでなく、それらを大義名分にして風呂屋という“反乱の拠点”を排除したい権力者の思惑もあったようです。
(【宗教と科学】後編で触れたファーティマ朝エジプトのカリフ、ハーキムも、風呂屋を公序良俗に反するとして、かなり強引に閉鎖しているが、大量の水と薪を使用することも浪費として問題視していたらしい)
また風呂屋そのものだけでなく、そこで働く人達も評判が良くありませんでした。
湯を抜く、水を汲む、客の背中を流す、垢すりなどの下働きに従事した、日本で言う「三助」に当たる人々は、「名前でしか呼んでもらえない」(名誉ある苗字など持たない)人達でした。
なお、男湯には三助が、女湯には湯女がと、男女別にきちんと対応しています。
こういった下働きには娼婦やイカサマ賭博師が混じっていることも少なくなかったそうで、風呂屋で働いている間はともかく、風呂屋の外に出れば“無頼の徒”(ならず者、やくざ者)に向けられるのと同じ冷たい視線に晒されてしまったとか。
風呂屋の三助はヨーロッパに限らず中東などでも当たり前で、“文久遣欧使節”(1862年)の武士達はエジプトのカイロにある蒸し風呂で三助に出会い、「日本と同じだ!」と感動しています。
『風呂屋の従業員である「テラク」は、何世紀も前のローマ帝国やビザンティン帝国の浴場で奴隷がしたように、客が体を洗うのを手伝う。――中略――しかし、テラクは、オスマン帝国の非イスラム教徒から、器量の良さと従順さで選ばれた青年(決して女性ではない)である。したがって、トルコ風呂を訪れることは、純粋に衛生的な行為であり、ゴシップの機会であり、また同時堕落の味に身を委ねる機会でもあった』(【Empire total war】トルコ風呂)
ちなみにヨーロッパと違い、中東では風呂屋が反乱や犯罪の温床となることはなかったので、厳しい規制は広がらず、現在に至るまで人々の憩いの場であり続けています。
中世の風呂屋と同じく、喫茶店もまた、時として不穏な空気がありました。
何故なら風呂屋同様に、利用者の間で政治について率直な意見交換があったからです。
1675年には、政治談議が盛んに行われたという点が問題視され、英国王ジェームズ2世が喫茶店の閉鎖を宣言しています。
政府批判が公然と行われることも珍しくない場所など、権力者からすれば忌々しいだけだったのです。
この喫茶店閉鎖宣言は強い反対にあってすぐに取り消されましたが、1世紀後に隣国で起きた“フランス革命”で、喫茶店が大きな役割を果たしたことを思えば、ジェームス2世の危機感は的外れではなかったと言えるでしょう。
オスマン帝国でも喫茶店は統治者にとって危険な場所でした。それもヨーロッパよりずっと。
『カフヴェ・ハーネは、いったんイスタンブルに開店すると、またたくまに流行し、男たちの憩いの場、情報交換の場として普及した。もともと民族の「坩堝」といわれるイスタンブルで、これを溶解する機能を果たしたのがカフヴェ・ハーネであった。しかし、カフヴェ・ハーネに集う男たちの談笑が、やがて時の高官や政治への批判となったのは、当然の帰結である』(【世界の歴史⑮ 成熟したイスラーム社会】136P)
そして単なる政治批判だけでなく、時として反乱やクーデターが喫茶店で計画されたのです。
オスマン帝国の常備軍イェニチェリは、17世紀から度々クーデターを起こして大宰相を失脚させたり皇帝を廃位するなど政治介入を繰り返しました。
そして彼らは喫茶店を政治会合の本部にしており、中には自ら喫茶店を所有するイェニチェリすらいたそうです。
『国家権力にとってもっとも警戒すべきはこのイェニチェリのカフヴェ・ハーネであった。というのも、ここでは「国家談義」と称して、時の政治を批判する政談がおこなわれ、反乱の温床となっていたからである。十八世紀以後、「トゥルンバジュ」と呼ばれる西洋風のポンプ車による「火消し隊」が編成されると、イェニチェリのカフヴェ・ハーネはこれに受け継がれ、やがて任侠無頼の徒のたまり場となった』(【世界の歴史⑮ 成熟したイスラーム社会】139P)
こういったイェニチェリの政治介入は、イェニチェリの腐敗の象徴でありオスマン帝国の混乱や衰退を招いた、と批判的に見られがちで自分も長い間そう考えていました。
しかし、実際のところはそうとも言い切れないらしいです。
喫茶店を通じてイェニチェリと市民が繋がり、民衆の不満を皇帝や政府にぶつけることで、絶対主義を防ぐ意味があったという意見も研究者の中にあります。
イェニチェリは給料不払いへの不満といった自己利益だけでなく、商工人などの利益代表として、民衆に代わって中央権力に「強権化へのNO」を突き付けるべくクーデターを起こしていたのだと。
17世紀はヨーロッパでもイギリスの“清教徒革命”と“名誉革命”など、人々の意思を受けて王政を揺るがした事例が見られ、ロシアの銃兵隊による暴動や政治介入も、単純な腐敗ではなくイェニチェリのように民衆の利益代表として振る舞っていた面がありました。
18世紀のフランス革命は言わずもがなです。
日本でも幕府や藩に対する非武装の一揆が幾度も起こり、幕政や藩政に大きな影響を与えることがありました。(日本の一揆は非武装故に、藩も幕府からの処罰を恐れて迂闊に強硬な手段を取れなかった)
17、18世紀は世界的に民衆が絶対主義的な封建権力を大いに揺さ振った時代であり、オスマン帝国も例外ではなかったというわけです。
そしてヨーロッパでもオスマン帝国でも、それに喫茶店が大きな影響を与えていたのでした。
なお、喫茶店が統治者にとって危険な存在と見たオスマン帝国では、喫茶店への禁令、果てには政府による焼き討ちや店主の斬首まであったのだとか。
しかしながら、これらの強硬手段にも関わらず、喫茶店の人気は衰えることはなく、結局ジェームズ2世の施策と同じく、廃止には至らなかったようです。(コーヒーが帝国に莫大な税収を齎していた事情も大きい)
前編後編に分かれて長くなりましたが、中世ヨーロッパの人々は風呂を愛し、楽しんでいた一方、反乱や犯罪の謀議が話し合われることさえあった場所でもあり、喫茶店も人々の娯楽と社交の場所であると同時に、中世の風呂屋と同じく不穏な気配も漂っていたことはお分かり頂けたでしょうか。
そしてファンタジーの風呂屋を考える場合、史実のものをそのまま導入出来そうではあります。
酒場のように情報収集の場になったり、また史実の風呂屋は入浴しながら飲食が出来たそうなので、宿屋とは違う優雅とも言える食事シーンを描くのも良いでしょう。
ですが、従業員の多くが“無頼の徒”同然と見なされたという点から、冒険者が低級依頼か副業として風呂屋で働くというのもアリかもしれません。
冒険者が日銭を稼ぐために風呂屋でアルバイトしてたら、客たちのよからぬ企みを聞いてしまってトラブルに巻き込まれるとか話を広げられそうです。
近世、近代風のファンタジーでは喫茶店が酒場に並ぶ情報収集の場所となることでしょう。こちらも上記と同じく、うっかりトラブルに巻き込まれたり重要な情報を耳にする舞台として使えます。
それと、中東や中央アジア風の世界では喫茶店が酒場の代わりとなるので、「ヨーロッパ風と違ってイスラム教モデルにすると酒場でお決まりの諸々が描けない」と杞憂することなく、砂漠やステップ気候の国や地域が描かれることが増えて欲しいですね。
ヨーロッパ風、中華風だけでなく、中東風ファンタジーも増えて欲しいなぁ。
主な参考資料
Wikipedia
【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース
【図解 中世の生活】池上正太
【世界の歴史 20 近代イスラームの挑戦】山内昌之
【ペルシア見聞記】ジャン・シャルダン
【世界の歴史⑮ 成熟のイスラーム社会】永田雄三 羽田正
ブログ
中世史の保管庫
https://ameblo.jp/sumire93/
ふっくら通信(トルコの話題あれこれ)
http://hodjaaishe.jugem.jp/?eid=81
Watanabe(@nabe1975)