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【宗教と科学】後編(イスラム教) 中世科学の本場 中世イスラームの学問は世界一ィィィ!


 前回はヨーロッパにおける宗教と科学、つまりキリスト教と科学の関係を扱ったので、今度はイスラム教と科学について。


 「進化論」を認めておらず、何かと科学と相性が悪いとされるイスラム教。


 ※(漫画【サトコとナダ】によると、サウジアラビアで放送された、アニメ【ポケモン】の進化の場面さえ「お友達を呼ぶ」という、幼児でもおかしいと思う強引な改変がされていたとか)


 しかし、前回で取り上げたキリスト教と科学の歴史と同じく、実際の所はそうでもなかったりします。

 上記の「進化論」云々も、目くじら立てるのは厳格なワッハーブ派(スンナ派の宗派で、非常に保守的なハンバル学派に所属。主にサウジアラビアで信仰される)ぐらいですし、キリスト教も「進化論」を公式に認めたのはごく最近です。

 (言及しておくと、聖職者の中にはダーウィンの進化論を「()の創造計画の偉大さ」を示すものだとして支持する者もいた)


 むしろイスラーム世界こそが、世界の科学を担ってきた歴史があります。そもそも科学の基礎に貢献した錬金術(アルケミー)も、中東からヨーロッパに(もたら)されています。(アルケミーの語源もアラビア語由来とされる。アラビア語の「アル」は英語の“the”に当たる単語)


 まず中東の人々は異なる文明から様々な技術や知識を取り入れる事に貪欲でした。


『アッバース朝時代の文人ジャーヒズが伝えるつぎの言葉は、当時のアラブ人ムスリムの考えや心情をみごとに表現している。

 すべての民族は、それぞれ固有な特徴がある。たとえば中国人は技術に、ギリシア人は哲学と文学に、アラブ人は詩と宗教に、ペルシア人は王権と政治において優れている。そしてトルコ人は戦闘技術に秀で、彼らの関心は征服、略奪、狩猟、乗馬におかれている。(『トルコ人の美徳』)

 もちろんギリシア文明からは、哲学や文学以外に、医学・数学・化学・地理学などを学んだし、インド文明からは数学、とくに「ゼロの観念」にくわえて、天文学や暦法、あるいは医学などが導入された。』(【世界史リブレット17 イスラームの生活と技術】11、12P)


 そして、ヨーロッパではローマ帝国の崩壊などによって、古代ローマとギリシャの知識や遺産がある程度失われたり衰退したりしたのに対し、イスラームは多くをそのまま取り入れることに成功しました。


『「アラブ人による翻訳の時代」はハールーン・アッ=ラシード(在位七八六~八〇九年)の治世下に始まった。ペルシャの南西ジュンディ・シャプールにあるネストリウス派の学園の医師や学者のグループがバグダッドに招聘された。カリフの命を受けた仲買人たちが買い集めたギリシャの古典を翻訳するためだ。仲買人たちは現代風にいえば「文化を買い漁った」のだった』(【大聖堂・製鉄・水車】137P)


『こうして翻訳されたギリシャの著作の多くはヘレニズム時代に書かれたもので、そこに現れた文化は文学的アテネよりも科学的アレクサンドリアの香りが高かった。――中略――関心があったのはアリストテレスその人の言葉であり、その基礎となる科学、医学、化学、天文学、数学、地理、そして哲学であった。学者たちは古典の保全と翻訳だけにとどまらず、論評や注釈を施したが、ここから後のヨーロッパの学者たちは大いに学んだ』(【大聖堂・製鉄・水車】138P)


 これら翻訳活動の中でも有名なのが、バグダードの“知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)”です。(前身はハールーン・アッ=ラシードがギリシア語書物を収集して設立した図書館“ヒザーナト・アル=ヒクマ”。息子のマームーンがこれを翻訳・研究機関へと発展させた)


『翻訳に従事したのは、アラビア語をはじめとして、ギリシア語、シリア語、中世ペルシア語に堪能なネストリウス派のキリスト教徒やゾロアスター教から改宗したイラン人ムスリムなどであった。彼らはカリフ・マームーンがバグダードに建設した知恵の館 (バイト・アル=ヒクマ)に集い、カリフの保護のもとにヒポクラテスやガレノスの医学書、アリストテレスの『形而上学』や『自然学』、プラトンの『国家論』などの翻訳を精力的に進めていった』(【世界史リブレット17 イスラームの生活と技術】12、13P)


 ※(ネストリウス派は431年のエフェソス公会議において異端認定されたことで、ササン朝ペルシアに亡命し、以後は中東や中央アジアなどで活動していた)


 古代の叡智(えいち)を吸収したバグダードは、世界最高峰と言っても過言ではない学問都市となりましたが、あまり時を置かずにライバルが現れます。


 イベリア半島に根差した後ウマイヤ朝は、アブド・アッラフマーン3世(889~961年)の時代に最盛期を迎え、コルドバやトレドといった主要都市がバグダードに追い付くレベルにまで成長。

 コルドバの詩人イブン・アブド・ラッビフ(860~940年)は、自作の詩の評価はそれほどでしたが、アラブの伝統的詩文を編集した詩華集【類稀なる(イクド・アル)頸飾り(ファリード)】(中東だけでなくヨーロッパにも文化的影響を与えた)を作成するなどの文化的成果から、「バグダードはあなたにひれ伏すだろう」とまで称えられたそうです。


 しかしその後すぐに、北アフリカの東部を支配したファーティマ朝の首都カイロが、バグダードやコルドバを超える学問都市へと躍り出ました。


 ファーティマ朝第6代カリフ、ハーキム(985~1021年)によって「知恵の館(ダール・アル=イルム)」という、おそらくバグダードの知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)を範にしたであろう教育・研究機関が置かれ、ハーキムは多くの私財を投じてまで学問を保護。

 (※ダール=壁や天幕などに囲まれた空間、家。バイト=家。イルム=努力によって習得される知識。ヒクマ=知識)

 これにより新たに誕生したカイロ学派は、自然科学に貢献する優秀な学者を輩出し、史上最も偉大な科学者の一人とされる「光学の父」イブン・アル=ハイサム(965~1040年)も、多くの業績はカイロで成していました。

 なお、イブン・アル=ハイサムは、物理実験より古代式の数学理論が先行しがちな中世において、実験を多用、活用した数少ない学者。デカルトの影響を受けて机上の理論より実験を重視した、かのニュートンに通じるような気がします。


 12世紀頃にはギリシア哲学研究が停滞し、知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)を始めイスラームの学問都市は衰退してしまいましたが、学者らにとってはそう大きな問題ではなかったでしょう。

 何故なら古くからイスラームは遊学の社会だったからです。


『初等教育を終えた青年たちは、一ヶ所のモスクやマドラサ(学校)で勉学を続けたのではなく、法学や哲学や医学、あるいは伝承学、歴史学、数学などの師を求めて遠隔の都市を遊学して歩いた。どこで学んだかではなく、誰について学んだかが重視される社会であった。』(【世界史リブレット17 イスラームの生活と技術】6P註釈▼学問の旅)


 「どこで学んだかではなく、誰のもとで学んだか」は、東大やハーバードなどといった名門校の衰退が時折指摘される昨今を思えば、現代でも重要なことではないでしょうか。


 なおイスラームの教育はヨーロッパのそれに負けず劣らず高度であり、“マドラサ”などのイスラム神学校では聖典(クルアーン)の内容など信仰に限らず、法律、法学、科学、歴史も扱われました。


『歴史的にみると、一部のイスラム神学校ではさらに広範な科目の選択が可能だった。例えばアラビア語文学、英語、フランス語、オランダ語、その他の交易上有用な言語、さらに科学、数学、世界史等を学ぶことができたのだ。教育の結果生まれた学者は、知的に成熟した人物とされ、ヨーロッパの学者と比べると、後の研究に相応しい力を身に着けていることが多かった。医学を専門とするイスラム神学校すら存在していた』(PCゲーム【Empire total war】イスラム神学校)


『医学や数学、あるいは法学や歴史学などの書物は、著者自らが記す場合もあれば、弟子がかわりに書写する場合もあった。マドラサ(学院)やモスクの一角で、先生を車座にかこんで座った学生たちは、その講義をそのまま紙に筆写するのが習慣であった。優れたノートであれば、先生がその内容を点検し、修正したうえでこれを自らの著書として認定した』(【世界史リブレット17 イスラームの生活と技術】29P)


 ちなみに13世紀からは、それまでの学問都市と入れ替わるように、アフリカのマリ帝国の交易都市トンブクトゥが、アフリカや中東の各地から学者が集まるイスラームの教育的中心地の一つとなりました。

 当時最先端の研究に関する膨大な数の原本、写本も作られ、「トンブクトゥ写本」と呼ばれるそれらは、当時の高度な学術を今に伝えています。

 これらは2012年のマリ北部紛争の際、マリ北部に侵入したアルカイダ系組織によって破壊されたと思われていましたが、図書館員アブデル・ハイダラ氏や甥のトゥーレ氏を始めとする現地の有志の人々によって奇跡的に守られています。


『――前略――荷台に積んだ金属の箱には、過激派が敵視する何百年も前に書かれた千冊以上の貴重な古文書。見つかれば殺される。トゥーレは「洋服だよ」と戦闘員らと雑談し話題をそらした。「行っていいぞ」。鉄のゲートが開けられると、ほっとして全身から汗が噴き出た。トゥーレにとって、30回ほど続く首都バマコへの古文書移送作戦の始まりだった。――中略――マリ軍に賄賂をせびられたり、過激派の掃討作戦を展開するフランス軍のヘリに武器密輸を疑われて撃たれそうになったりもした。6ヶ月間で延べ100回以上行き来し、一人の犠牲者も出さず約38万冊の大半を移した。』


『ハイダラが一番好きなのは18~19世紀に西アフリカのイスラム指導者が書いた人権に関する書物だ。「立場が弱い女性や赤ん坊、さらに胎児の権利も尊重すべきだと記している。過激派の主張とは正反対で、学ぶことが多いです」と柔和な表情を浮かべた。――中略―― なぜ古文書に人生を懸けるのですか? ハイダラは落ち着いた口調で答えた。「アフリカは長年、世界中から偏見の目でみられてきました。古文書はそんな私たちの誇りであり、アイデンティティーそのものなのです」』(信濃毎日新聞2019年記事【76億人の海図】アフリカ・マリで命懸けた古文書移送 より)


 話を本筋に戻しましょう。

 中世イスラームは哲学や科学の他に、地理学も非常に進んでいました。


 古代ローマのプトレマイオスの地理書【ゲオグラフィア】は実利的価値が高かった代物でしたが、不思議なことにヨーロッパでは15世紀に至るまで無視されていたそうです。

 一方、イスラームの学者はこれをよく活用しました。


『イスラム世界でこの書――シリア語訳として、あるいはギリシャ語の原文のまま――は広く知られ、多くの重要論文の基礎に利用されている』(【大聖堂・製鉄・水車】209、210P)


 そしてイスラームの地理学は、異教徒にも寛容だったシチリア王国によって、ある程度ヨーロッパにも伝わりました。

 初代シチリア王ルッジェーロ2世(ノルマン朝)の命を受け、北アフリカの著名な学者ムハンマド・アル=イドリースィー(1100?~1165年もしくは1166年)が、地理学者を結集して地理書を製作しています。


『こうして出来上がったのが『世界各地を行き来したいと願う人の喜び』と題する著作であった(単に『ルッジェーロの本』と呼ばれることも多い)。これは世界全体の地図と、世界を七〇地域に分けた地域別の旅行用地図とで構成されていた。また、人間が住むことができる世界を(プトレマイオスに従って)七つの気候地帯に分け、さらに各地帯を経度によって一〇地域に分けて、それぞれの地域の詳細な情報を盛り込んだ』(【大聖堂・製鉄・水車】211P)


 この地理書は各地の地理、物産、建築物、文化に宗教、言語に至るまでの情報を収集し、既存の研究と重ね合わせて作り上げていったのですが、その過程で『地理の研究に科学的手法を採用した』のだとか。

 具体的には、旅行者やシチリア島に立ち寄る船の乗組員や乗客への取材と、情報の乏しい地域へ、製図や地図製作に長けた者を含む調査団を送り込むというものです。

 これらの手法は古代の学者がほとんど行わなかったことでした。

 

『アラビア語で書かれた『ルッジェーロの本』は、一度としてラテン語に翻訳されなかったためヨーロッパの思想に直接的な影響を与えなかったものの、イスラム世界に伝わる科学的知識とノルマン人やイタリア人の海運事業とを結びつけたことで、間接的影響を残したと考えられる』(【大聖堂・製鉄・水車】211P)


 地理学の影響は限定的なものに過ぎませんでしたが、他分野の学問の多くはイスラームからヨーロッパに伝わっています。


 コルドバやトレドに残されていたイスラームの遺産を受け継いだスペインや、中東との交易が盛んだったイタリア、ギリシャ(東ローマ帝国)を経由する形で、古代の知とそれを下敷きにしたイスラームの知がヨーロッパに渡りました。


『翻訳活動の中心地はスペインとシチリアであった。アラブ人、ヨーロッパ人、ユダヤ人の学者たちが自由に交流できた地である。スペインではとくにトレドが学術活動の中心となった。トレドのレイモンド大司教が、イスラムの知識をヨーロッパに紹介することをとくに目的とした学校を建てたからだ。――中略――。

 アラブの学者の著書も翻訳された。たとえば、バースのアデラードはアラビア人代数学者アル=フワーリズミーの三角関数表をヨーロッパに紹介した』(【大聖堂・製鉄・水車】208P)


 これらイスラームの学問なくして、中世ヨーロッパの学問は発展し得なかったでしょう。

 特にイスラームから取り入れられた「インド数字」の影響は計り知れず、「ヨーロッパ科学の発展はインド数字によるもの」と断言する歴史学者すらいます。



 ざっと駆け足にイスラームの学問について解説しましたが、これだけでもキリスト教と同じく、イスラム教と科学は敵対するものではないと言い切れるでしょう。


 両者が対立するように見え始めたのは、これもキリスト教と同じく、宗教の側が相対的に衰退して余裕を失ったからであり、根っからの敵対関係などではなかったのです。

主な参考資料


Wikipedia


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース

【世界史リブレット 17 イスラームの生活と技術】佐藤次高

【世界の歴史 20 近代イスラームの挑戦】山内昌之


サイト【歴史系倉庫】亀

 後ウマイヤ朝全盛期


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