【宗教と科学】前編(キリスト教) “ガリレオ裁判”は「地動説」への弾圧ではなかった
「『地動説が唯一の真実だから、天動説は間違いだった』と切り捨てるのは、異なる知識体系を持つ人を理解し、対話する努力を放棄する態度です」――山口裕之徳島大教授(2022年9月22日の信濃毎日新聞記事、【無正解の時代】科学の「正しさ」培う営み より)
「宗教と科学」というと、よく相入れない関係であるかのように捉えられがちです。
しかし、実際には宗教と科学の関係は、真っ向から相対するものではありませんでした。少なくとも中世ヨーロッパでは。
まず、宗教が科学を弾圧していたと主張される際に、必ずやり玉に上がるのが“ガリレオ裁判”です。
太陽を中心にして地球がその周囲を回っているという地動説。
これをガリレオ・ガリレイが著書の中で主張すると、地球を中心に他の惑星が周回するとした天動説を支持するカトリック教会にそれを咎められ、異端として有罪判決を受けたとされる宗教裁判です。
「それでも地球は回っている」という言葉で有名ですね。(実際には「板垣死すとも自由は死せず」と同じく、弟子や支持者などによる創作らしい)
しかし、ガリレオ裁判を「宗教による科学への弾圧」と断定するのは誤りと考えるべきでしょう。
というのもこの宗教裁判は“異端審問”であり、「地動説と天動説どちらが正しいか」「地動説がキリスト教の世界観を傷付けるかどうか」は焦点では無かったからです。
じゃあ何が裁判の焦点であったかというと、ガリレオが「教会の権威に逆らったかどうか」でした。
実の所、異端審問はあくまで「教会に従うか否か」を問い質すもので、有罪無罪はあまり重要ではありません。
この辺りを理解するのに良さそうなツイートがあるので以下に引用させて頂きます。
漫画【乙女戦争】の作者、大西巷一先生のゲーム【キングダムカム・デリバランス】プレイ感想(異端審問に掛けられた女性を助けるイベント)の呟きです。
『そして判決は…「有罪」
ただし、罪を認めて悔い改める姿勢を示したので軽い罰で済んだ。おそらくベストエンド。
肝心なのは「夢のお告げ」が本当かどうか、有罪か無罪かではなく、教会に従うかどうか。ヨハンカの罪は神の声を教会に相談せずに勝手に広めたこと。このあたりも実にリアル。』
『この時代の異端審問の被疑者はざっくり2パターンあって、一つは教会の正統教義を否定する神学論タイプで、もう一つは神や天使や聖人のお告げを受けた主張するスリチュアル系。前者の代表例がヤン・フスやヴァルド派やカタリ派などで後者の代表例はジャンヌ・ダルク。今回のヨハンカも後者』
『どちらのタイプでも実のところ、被疑者の主張が正しいかどうかではなく、教会に服従する意思があるかどうかが問題。過ちを認めて軽い罰を受けるか、過ちを認めず重い罰(最悪火炙り)を受けるかの2択。それが異端審問』
つまり「異端」とは創造主ではなく“教会”への反逆なのです。
実は一般イメージと違って、カトリック教会は古くから「主の御考えなんて、人間如きが測れる訳ねーだろ!」という態度を取っていました。
「創造主の代理人を名乗る組織」などではなかったのです。
例えば「正しい者なら創造主に守られる筈」と焼けた鉄を握らせるなどの“神明裁判”は、中世前期〜盛期に掛けて行われた神学者からの強い批判もあって、教会が禁令を出しています。
(善人ヨブが創造主によって酷い目に合わされる【ヨブ記】が、神明裁判に対する批判の主な根拠とされた)
そもそも神明裁判は、聖書の記述にありませんし、禁じられるのは当然の流れでしょう。
しかし、教会の影響力が薄い地方や民間の間では、創造主に裁定してもらおうとする考えが根強く残ってしまい、近世に入った16世紀のドイツでも決闘裁判が普通に行われたりしました。
(ドイツは19世紀のドイツ統一まで大小の領邦国家が入り乱れており、そのせいで中世でも教会権威の通用度合いはバラバラだった)
教会からすれば、こういう事態は許し難いものだったでしょう。だから教会の権威を浸透させるべく、異端審問が行われたのです。
また異端を正すということには、霊感商法を始めとする詐欺やカルトの取り締まりも含まれていました。
やたら悪いイメージがありますが、真っ当な理由もちゃんとあったのです。(アルビジョア十字軍やヤン・フスの火刑といったイメージ通りの宗教弾圧もあったが)
ガリレオ裁判に話を戻すと、先に書いた通り、これも「教会の権威に逆らう異端」を裁くものであって、地動説云々はほとんど関係ありませんでした。
この裁判は詳細が分かっていない部分や疑問点が多く、諸説あるものの、大きく問題となったのは、ガリレオが出版した【天文対話】とされています。
実のところガリレオは【天文対話】の出版前にちゃんと教皇庁の検閲を受けており、出版許可もきちんと出ていたそうです。
しかし、ここが謎なのですが、教皇庁の許可が出ていたにも関わらず、彼は異端審問に掛けられてしまいます。
物証は無いのですが、当時から現在まで信じられている説として、対話形式で進む【天文対話】の登場人物が問題とされたそうです。
【天文対話】の内容は、サルヴィアティとシンプリチオという二人の哲学者と知的な一般人サグレドの三人が、様々な科学を議論するという形で、ガリレオの主張が表現されたものでした。
しかしながら、その二人の哲学者、コペルニクスの最新学説を主張するサルヴィアティと、伝統的なプトレマイオスの学説を主張するシンプリチオが問題視されたのだとか。
サルヴィアティはガリレオ自身であり、シンプリチオは教皇がモデルではないか、ガリレオは著作の中で教皇を侮辱したのではないかと疑われたのです。
当時の教皇ウルバヌス8世は、まだ枢機卿だった頃にガリレオと交流があり、親密な友人関係だったそうです。
が、シンプリチオ=ウルバヌス8世疑惑を耳にした彼は激怒。ガリレオへの異端審問が半ば強引に行われた……というのが、当時から現在に至るまで語られるガリレオ裁判の噂です。
真相は今なお不明ではありますが、確かに言えることは、「地動説が弾圧されたわけではない」という事実です。
あくまで教皇庁によって発禁処分となったのは、ガリレオの著作【天文対話】のみでした。
また、ガリレオ裁判の前にコペルニクスの地動説が教皇庁によって一時禁じられたものの、「数学的仮説である」との但し書きを加えるという、緩い条件一つで許されています。
一説には、多くの聖職者同様、ウルバヌス8世も地動説を胡散臭い偽科学だと考えており、科学が歪められないようにという真っ当な感覚で禁止の判断を下したという話も。
そもそも当時の地動説は、まだまだ荒削りで天動説に並ぶほどには洗練されていなかったという背景がありました。
『科学哲学を専門とする山口裕之徳島大教授は、「科学の正しさは科学者たちの共同作業によって〝作られた〟ものであって、科学の歴史は誤った理論から正しい論理への単純な進歩ではない」と語る。地動説が唱えられた近世初頭においては、日食や月食、天体の位置を予測するのに天動説に基づく理論の方が正確だった。「地動説が天動説に取って代わったのは、砲弾を飛ばすといった新たなニーズによりよく応える理論体系だったのが一因」という』(2022年9月22日の信濃毎日新聞記事より抜粋)
ちなみに現在でも、位置天文学において、暦の計算の際に天動説的説明の方が都合が良いのだとか。
話を戻すと、ガリレオ裁判の結果、教皇庁は地動説を否定する見解を出したものの、【天文対話】の発禁以外には特に行動を起こしていません。
地動説を憎んだのではなく、ガリレオの態度に不満を持っただけに過ぎないのです。
ここで中世における宗教と科学へと視点を変えましょう。なおガリレオ裁判は16世紀、つまり近世の初めに起きた出来事です。
それよりも前、中世ヨーロッパにおいて宗教の科学への態度はどうだったのか?
実は中世という長い時代の間、科学は宗教の中にありました。
ヨーロッパにおいて、宗教と科学の対立は近世から起きたものであり、それ以前、つまり中世のほとんどの期間では、科学は宗教の中に包まれ一体化していたのです。
『中世初期の知的風潮について科学史家R・J・フォーブスは「科学はもはや哲学の僕ではなくなった。それどころか、科学と哲学は宗教に仕えるものとなった」と指摘している。実際、中世の初期、哲学は宗教とほとんど区別されず、科学は宗教の仕え女のようなものだった。中世の神学者が宗教、哲学、科学という三つの思考分野の間に違いがあると聞いたら驚いたに違いない』(【大聖堂・製鉄・水車】106、107P)
そして、《地球が丸いことは中世の人々も割と知っていたという話》でも触れましたが、中世の学者はほとんどが聖職者でした。
『中世の知識人といえば、頭を丸め、ラテン語を話す聖職者だった』(【大聖堂・製鉄・水車】299P)
ガリレオの200年も前に、地球が自転している可能性をニコル・オレームという人物が主張しているのですが、彼もまたパリの神学校で博士号を取得した聖職者です。(本人は「天動説と地動説どちらも否定できない」という結論に達した)
ニコルの同僚であり、彼の地動説を踏まえた天文学だけでなくヨーロッパの科学に多大な影響を与えた、「運動学」の権威ジャン・ビュリダン。彼も司祭、つまりは聖職者でした。
こういった、科学に貢献した聖職者達は数多く存在しました。
『学者たちはアリストテレスに心酔してはいたが、自分たちの経験に照らしてその考え方を批判するのをいとわなかった。「自然科学とはただ教えられたとおりに受け入れることではない。自然現象の原因を追究する学問である」と、パリ大学の著名な学者アルベルトゥス・マグヌス(一二〇〇頃~一二八〇年)は言っている。こうした考え方によって、一三世紀にはサレルノ、ボローニャなどの学校で解剖が行われるようになった』(【大聖堂・製鉄・水車】291P)
※(ただし、中世の実践的解剖学はマイナーなものに終わってしまったらしく、16世紀の解剖学のように伝統的なガレノス式医学へ風穴を開ける事は出来なかった)
ファンタジーなどでよく聖職者が信仰を優先して科学に否定的な態度を取っていますが、神学者である聖アウグスティヌス(キリスト教修道会規則の大元の一つを作るなど、後世に大きな影響を与えた)が『被造物であるこの世界を観察することよりも、信仰こそが神を知る最善の道』と、まさにファンタジーに登場する聖職者のような事を主張していました。
が、大多数の神学者は彼とは全く対照的な、古代ローマの哲学者ボエティウスの思想に従ったそうです。
『つまり、宇宙の美と秩序を探究することによって神を知ることができると考えたのである。ボエティウスによれば、理性的な人は「物事の原因を突き止めたいと思う――そよ風が海の波を起こすのはなぜか、この世の安定を覆す霊とは何か、太陽はなぜ東から昇り、西の海に沈むのか……春の穏やかな天気がもたらすのは何か……実りの秋にブドウがたわわに実るのはなぜか」。要するに、「自然に秘められた原因」を探ろうとしたのだった』(【大聖堂・製鉄・水車】107P)
そしてその科学的追究を支えたものは、一般的に現代人が科学とは相容れないと考える「信仰」そのものでした。
『一二世紀ルネサンス人たちの健全な懐疑主義を下支えしたのは特異な、熱意あふれるともいえる純朴さであった――中略――神への感謝をもって自然界を探究し、「創造主についてのより深い理解へと人を導くことは」キリスト教徒として自分たちの務めだと、純粋に信じていた。自然現象の科学的説明と教会の教えとの対立が起きるなど予想だにせず、自分たちの研究は古代の迷信を打ち負かす一助になると考えたのだ。木や岩、川の流れや森などに不思議な力があると信じる古代の迷信は、当時もなお広く信じられていた。ボエティウスの伝統に従って自然界を神話から切り離したことによって、中世の教会はルネサンス期人文主義者の先駆けとなったのだ。ジョージ・オヴィトによれば「中世の『スキエンティア(知識)』とは神学であった。しかし、この神学には神の本質や道徳律だけでなく、神が創造した世界の本質の探究も含まれるというのが一般的な理解であった」』(【大聖堂・製鉄・水車】213、214P)
『神学校の時間割は、社会の尊敬される一員となる人物を養成するための充実した「古典的」教育を施すだけでなく、その職務の進行に必要な神学的・精神的・哲学的技術を授けることを中心とする。科学や自然界についても取り扱うが、それが神の偉大なる創造計画をいかに示すかという点に重きが置かれていた』(PCゲーム【Empire total war】神学校)
世界を科学的に探究することは、創造主が創ったもの、創造主が定めた法則を正しく理解することで、より創造主の真意に近付き、またその偉大さを証明して異教を否定する手段と見なされていたのでした。
中世ヨーロッパの聖職者にとって、科学は敵であるどころか、キリスト教の正しさを補強する重要な味方だったわけです。
中世を過ぎても宗教と科学の距離はそう離れてはいません。
ガリレオも敬虔なカトリックで、創造主への科学的な理解も深く、それ故に他の聖職者らの嫉妬を買いガリレオ裁判が起きたという説もあります。
近代以降の弾薬に欠かせない“雷管”も、実は聖職者によって発明されました。
『実際の歴史では、雷管を発明した人物は、スコットランドの聖職者アレクサンダー・ジョン・フォーサイス(1769~1843年)であった。彼は、狩猟時の問題に対し、解決方法を探していたのである』(【Empire total war】雷管)
※(18世紀に主流だった銃の点火方式、火打石を火皿にぶつけて点火薬に着火するフリントロック式は、火打石の撃鉄による衝撃や火花、若干の遅発がどうしても発生してしまい、それらによって発砲直前に鳥の警戒を招いていた。このため不可視の点火とタイムラグの無い発砲を実現するべく雷管が生まれた)
【ロウソクの科学】で有名な化学者マイケル・ファラデー。「電磁気」など化学分野に大きく貢献した人物ですが、その前半生は一日中働きながら勉学に励み、化学者ハンフリー・デーヴィーの助手時代は安い給料でこき使われるなど苦しいものでした。
それでもファラデーは辛抱強く努力しやがて化学者として大成しましたが、その精神を支えたのが“信仰”です。
彼は敬虔なクリスチャンであり、どんなに辛くとも日曜礼拝を生きがいの一つにして不遇の日々を耐えていたのだとか。
現代においても信心深い科学者は少なくないそうです。
このように宗教と科学は、相容れない関係などではありませんでした。
中世の間、宗教が先頭に立ち、その一歩後ろに科学が控えていましたが、近世になると次第に科学が宗教の背後から離れて自立の動きを見せ始め、それに宗教が「どこにいくんだ」とばかりに科学の腕を掴んで引き留めようとしたのが、ガリレオ裁判を始めとする宗教と科学の対決姿勢の顛末と言えるのではないか。
そう自分は考えています。宗教は科学を憎んだのではなく、長い間子離れが出来なかったのではないか、と。
現在、宗教と科学は切り離されているものの、信心深い科学者の存在を考えれば、今の宗教と科学は、別の道を歩みつつも互いの顔が見える程度にしか離れていない、近過ぎず遠過ぎない距離に居るのかもしれません。
私たちも、宗教を偏見から目の敵にしたりすることなく、その距離を保ち続ける努力をするべきかもしれませんね。(そもそも偏見解消以前に宗教とカルトを混同してる人が多いですが)
※「神」をいちいち“創造主”と書いているのは、日本語における“カミ”と一神教の“神”はかなり違い、宗教に疎い人には誤解を与えると考えているからです。(日本の“神”への解釈は、一神教だと精霊や妖精に近いことが多い)
主な参考資料
【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース
Wikipedia
信濃毎日新聞
【無正解の時代】科学の「正しさ」培う営み
漫画
【偉人たちの科学講義 天才学者も人の子】亀