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キリスト教VSイスラム教 意外と緩いお付き合いがあった件


 前回に引き続く形で「対立と交流」をテーマに、今回はキリスト教とイスラム教の関係を扱います。


 どちらも源流を同じくする「アブラハムの宗教」でありながら、長年激しく対立してきた宗教。

 そう一般的には思われていますが、歴史を見ると意外にゆるーいお付き合いがちらほらと見掛けられます。


 7世紀前半(大陸では随末期~唐の時代。日本では蘇我入鹿(そがのいるか)の時代)にイスラム教が誕生した当初は、キリスト教もユダヤ教もこの新宗教に酷く攻撃的でした。

 何故ならキリスト教がユダヤ教を批判する形で生まれたように、イスラム教は「ユダヤ教もキリスト教も権力や富に結び付いて、本来の姿から大分歪んでない?」という疑問を持つ人々から支持を得ていたからです。

 その結果、既得権益を脅かされると考えた者達や保守的な信徒からの弾圧を受け、これに反撃する形で交戦状態となりました。


 こういった背景から教義の中に、ユダヤ教徒やキリスト教徒との戦争を想定したものが含まれています。

 (※イスラム教の聖典(クルアーン)は一冊ではなく全30巻で構成されている。ある部分ではユダヤ人やキリスト教徒との融和を説き、ある部分では容赦するなと説かれて一見矛盾しているように見えてしまうが、内容的に六法、戦争を含む国際法、説話が混在しているため。仏教などでも矛盾する教義があるが、それは信者の理解度や考えに合わせて説くためだったりする)


 しかしその一方でイスラム教は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典(けいてん)の民」つまりイスラム教徒と同じく“アブラハムの宗教”の民であるとし、人頭税(ジズヤ)や不自由な結婚などの制約と引き換えに信教の自由を認めてもいます。(※アブラハムは一神教を初めて説いた預言者。ユダヤ人やアラブ人の祖とされる)


 いわゆる“ズィンミー(庇護民)制”です。

 元々はユダヤ教徒とキリスト教徒のみでしたが、やがて拝火(ゾロアスター)教徒や仏教徒などにも適応を拡大したようです。


 『クルアーン(改宗)貢納()(戦争)か』というフレーズも有名ですね。(ただし、この言葉は聖典(クルアーン)にも預言者ムハンマドの言動を記した言行録(ハディース)にも記述は無いらしく、いつ誰が言ったのかはっきりしていない上に内容自体さえ諸説ある)


 更にズィンミー制を発展させたようなものとして、オスマン帝国の“ミレット制”というものがあります。(厳密には正式な制度ではなく慣例的なものだったらしい)

 これは納税と引き換えに信教の自由と自治を認め、一定の多文化共生を実現したものでした。

 オスマン帝国帝都のコンスタンティーヤ(イスタンブール)の人口割合も、半分がギリシャ人やアルメニア人などの非イスラム教徒(ムスリム)で、時代によってはムスリム住民の数を上回ったとか。

 近代での商工会議所に至っては議長役にムスリムが形式的に居るだけで、他全員は非ムスリムで占められていたそうです。


 またあまり知られていませんが、実は納税と引き換えに認められた非ムスリムの権利には、信仰や自治以外にも、兵役の免除が含まれることも多々ありました。

 イスラームにとって戦争は名目上「イスラム教を守るため」に行われるべきであり、その“聖戦”はムスリムだけが参陣できるというわけです。(「戦は騎士や武士の特権」というのと似た感覚か?)


 一方で、ヨーロッパでは近代まで常にキリスト教一色で、イスラム教徒やユダヤ教徒はおろかフス派などのキリスト教非主流派さえ、自由な信仰や商売は認められていません。


 しかし、何事にも例外はあるようで、13世紀のハンガリー国王アンドラーシュ2世は異教徒を活用する独自の政策を行いました。

 それはユダヤ教徒とイスラム教徒に対し、税と引き換えに貨幣鋳造と徴税、鉱山経営を認可したり、金融業者として雇うというもので、経済をこれまでになく活性化させることに成功しています。

 が、異教徒の重用(ちょうよう)は国民や教皇庁の不興を買い、最終的にはアンドラーシュ2世の破門へと繋がりました。


 シチリア王兼神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世も、異教徒と融和的であったことは有名ですね。(彼の下には精強なムスリム弓兵が親衛隊として存在し、最後は討死にした息子のマンフレーディの代でも、ムスリム弓兵は一人残らず主君の為に玉砕したという)


 中世イベリア半島でのスペイン(の元となった諸勢力)とイスラーム勢力との関係も、相争うだけでなくお互い状況に応じて同盟を結んだり兵を貸し合ったりと複雑で興味深いですが、解説できる程詳しくはないので今回は省略します。

 (興味のある方は「タイファ」「Farfanes」などで検索。なおFarfanesの読みは「ファルファネス」で、イスラム勢力に従ったキリスト教徒傭兵のこと)


 さて、キリスト教とイスラームの対立というとやはり“十字軍”は絶対に外せないでしょう。

 しかし、一般的にイメージされる宗教戦争と見るべきかは中々微妙な状況でした。


 最も熱狂的だったとされる第1回十字軍(1096〜1099年)でさえ、参加諸侯は聖地(エルサレム)奪還より自分の領土確保を優先していたのは、ある程度知られている事です。

 中にはエルサレムに向かう本隊から離れて勝手に領地を築く者までいたとか。(エデッサ伯領の前身など)

 諸侯の中で最もエルサレム奪還に熱心で信仰(あつ)かったという、トゥールーズ伯レーモン4世(第一回十字軍の中心人物の一人)も、己の土地が欲しいことには変わりなく、ビザンツ帝国と征服地の切り取り勝手の密約を結んでたりします。(後のトリポリ伯領)


 まあイスラーム勢力の方も、突然現れた侵略者に団結して立ち向かうどころか、内輪もめを優先して、ライバルが十字軍に攻撃されるのを高みの見物とばかりに、援軍要請を無視したりしていましたが。


 十字軍遠征の後、中東に築かれた十字軍国家は、すぐさまイスラーム諸勢力との外交に明け暮れ、関係改善どころか同盟さえ結ぶようになります。

 真面目に外交しないと周囲を全部敵に回して袋叩きにされますから、「信仰だの異教徒だの言ってられんわ」という感じだったでしょうね。

 イスラーム勢力もライバルを蹴落とすための戦力として、十字軍国家を利用しようと接近していたようです。彼らの目には都合の良い傭兵と映ったのでしょうか。(ライバル排除の報酬は金で済む事も多かったが、時には領土の乗っ取りを企てられる事もあった。西ローマ帝国に入り込んだゲルマン人みたい……)


 こういった複雑な状況の中にいた十字軍国家にとって、後発の十字軍は厄介な存在だったとか。

 何故なら、現地の外交状況を全く無視して暴れ回る事がよくあったからです。十字軍国家が同盟を結んだイスラーム勢力を、新参の十字軍が攻撃して外交問題に、という事もあったそうで……迷惑過ぎる……。


『──前略──それぞれがみずからの利害に基づいて複雑に同盟・敵対関係を結んでおり、そこではイスラームかキリスト教かは決定的な敵対要因ではなかった。むしろどちらの陣営にとっても迷惑千万だったのは、一〇九六年以来の数回におよぶ十字軍の侵攻と略奪であった。これに辟易(へきえき)したビザンツ帝国はしばしばセルジューク朝に支援を求め、同盟関係を結んでいる』(【世界の歴史⑮ 成熟したイスラーム社会】45P)


 そして本エッセイの【中世の香辛料】でも扱った、イタリア商人とイスラーム勢力の取引においては、商人にとって利益の前には信仰など取るに足らないものでした。


『マムルーク朝エジプトは黒海への出入りが自由だったにもかかわらず、海上輸送能力の不足から奴隷需要を満たせなかった。そのため、ジェノヴァの港と船がどうしても必要だった。――中略――ジェノヴァのほうも、マムルーク朝がアッコとテュロスの十字軍最後の砦に最終攻撃を仕掛けるのを大目に見たばかりか、海軍によるイスラム軍への援助を約束した節さえあった』(【交易の世界史 上】226P)


『ジェノヴァ人は、神か富かの選択に際してほとんど迷うことはなかった。歴史家アンドリュー・エーレンクロイツは次のように述べている。

 抜け目のないジェノヴァのキリスト教徒にとって、マムルーク朝とのビジネスライクな関係から得られる実質的利益にくらべれば、レヴァント地方のキリスト教徒が味わった最後の屈辱など、大した問題ではなかった』(【交易の世界史 上】228P)


 挙句の果てには「異教徒と戦うこと」が存在意義だった筈の宗教騎士団までもが、異教徒と関係を持っていました。


『聖地ではキリスト教国同士にとどまらず、イスラムの権威との間でも、他者のために、そしてまた自身の得にもなるように駆け引きを繰り広げた。ダマスクスやエジプトといった強大なイスラム勢力間の均衡政策は小アジアの永住者である自身の利益に(かな)うため、誰彼となく、憚ることなく同盟を結んだ』(【中世ヨーロッパの騎士】175P)


 また本エッセイの《現実の騎士の姿⑤【騎士団】》の項でも触れましたが、宗教騎士団は聖地奪還に目を眩ませることなく、現実的な戦略を執る事がしばしばありました。

 1189年から1192年に掛けて行われた第3回十字軍では、指揮下の将兵に厭戦(えんせん)感情が広がり苦心するリチャード獅子心王へ、これ以上の戦闘は不可能でありエルサレムを諦めるよう騎士団が説得。

 そして“破門十字軍”の名で知られる第6回十字軍(1228〜1229年)において、平和的にエルサレムがフリードリヒ2世の手に引き渡された停戦条約に、テンプル、ヨハネの両騎士団は強く反対しました。


『両者にとってイェルサレムの返還はじつは迷惑な話だったのだ。固い守りが解かれたイェルサレムの防備は困難だからである。停戦が失効した一二三九年、街はあっけなく奪還され、騎士団の見解が間違っていなかったことが幾分か証明されたが、ヨーロッパでは騎士団は「地元とひとつになった」という見方が広まった』(【中世ヨーロッパの騎士】175P)


 上記の様な外交や戦略だけではありません。

 12世紀シリアの作家ウサマは、エルサレムでテンプル騎士団と付き合いがあった自身の体験を記録に残しています。


『[アル=アクサーのモスクは]テンプル騎士団の手に落ちているが、私が訪ねれば顔見知りの団員が[小さな礼拝堂を]自由に使わせてくれて、私が祈りを捧げることができるよう計らってくれた』


 そしてメッカへ向けて礼拝をしようとしたところ、突然一人のフランク(ヨーロッパ)人がウサマを背後から抱えて『祈りを捧げるならこっちだろう!』と東の方角へと向くよう仕向けられます。


 ※(アル=アクサー・モスクの東には、キリストが(はりつけ)にされた「ゴルゴダの丘」とされる地に建てられた「聖墳墓教会」がある)


 すると『すぐにテンプル騎士団の団員が何人か割って入って男を抑え、遠ざけてくれた』のですが、礼拝を再開した時『監視の目がなくなると、そいつは再び私を捕まえて無理やり東を向かせ、これが祈りを捧げる方角なのだと繰り返した』ので、テンプル騎士団の団員が再び割って入り、男を連れ去ってくれたそうです。


『彼らは私に謝罪して言った。『あれは今日到着したばかりの北方出身のよそ者で、東以外の方角に向かって祈りを捧げる人がいることを知りもしないのだ』。私は『礼拝は済んだ』と告げ、[メッカに向かって]人が祈るのを見てあれほどまでに動揺して騒ぐ狂信者の存在にあきれながら、モスクをあとにした』(【中世ヨーロッパの騎士】176P)


 そして、まさかのカトリック教会までもが、イスラームから渡って来た物を重宝していました。

 絹織物です。


 正教の総本山でもあった東ローマ(ビザンツ)帝国は大規模な絹織物産業を育んでいましたが、ヨーロッパは(もっぱ)ら中東やアジアから絹織物を輸入していました……のですが……。


『教会は大口の顧客だった。聖人たちの遺物を包む絹が必要だったのだ。ときおり不適切なアラビア語が生地に書き記されていたが、そんなものは無視された――ダラム大聖堂に(まつ)られた聖カスバートの遺体を包んだ帷子(かたびら)には「アブ・マヌ・ハイドル司令官に栄光と幸運あれ。アッラーが長命の恵みを授けたまわんことを」と書かれていた』(【大聖堂・製鉄・水車】165P)


 実は中世ヨーロッパでは古くから「擬クーフィー様式」という、アラビア文字の書体である“クーフィー体”を参考にしたり模倣したりした美術様式が存在していました。(特に聖母マリア関連に使われたらしい)

 教会も内心は絹織物のアラビア語に気付きつつも(中世を通じてヨーロッパの知識層の間では、アラビア語書物の翻訳が盛んだった)、「これはそういう模様!」「アラビア語じゃなくて擬クーフィー様式!」で押し通していたのかもしれません。(引用内容の聖カスバートの帷子を見るに、ヨーロッパへ輸入された絹製品は中古品が多かったのだろうか……)


 イスラーム側もまた、キリスト教を受け入れる……というか何というか、生活の中に組み込まれることもあったようです。


 ペルシア(イラン)を除いて中東の大部分を支配していた東ローマ(ビザンツ)帝国が、イスラームに敗れて退いてからも、中東各地には多くのキリスト教徒(主にネストリウス派、非カルケドン派、東方典礼カトリック教会といった正教)が残っていました。特に有名なのはエジプトの人口一割を占めるコプト教徒でしょうか。

 こういった中東のキリスト教コミュニティの存続を助け、ローマ・カトリックの側に引き寄せる目的でカトリックの聖職者が中東へ(おもむ)くことがよくありましたが、サファヴィー朝イランに降り立った彼らは現地のイスラム教徒と不思議な接点を持つようになりました。


『修道士たちは、ときにムスリム女性から福音書を読むように頼まれた。彼女たちはそれによって子供の病気を治療してもらうつもりなのである。同様の理由で子供の洗礼を依頼されることもあった。カトリックの教義を知りこれに改宗しようというのではなかった。彼女たちにとって、修道士は医者であり、呪術師だった』(【世界の歴史⑮ 成熟のイスラーム社会】375P)


『ペルシア人はすべての人びとの祈りは善にして有効だと信じており、病気やそのほかの困窮の事態におちいったとき、彼らが他宗教の祈禱をうけいれ、またそれを求めに行くのは今迄に千度も見たことがある』(【ペルシア見聞記】121P)


 アッバース大王以降、近世イランには自由な雰囲気が満ち、異教徒の信仰や文化にも十分な敬意が払われていたみたいです。

 ただ一方で「無神論者、偶像崇拝者、ユダヤ人、キリスト教徒」といった言葉が、(ののし)りの言葉として機能することもあったようですが。(『キリスト教徒の犬のほうがお前より()()だ』『ヨーロッパ人の犬の餌になってしまえ』という具合)


 最後に地中海を支配したオスマン帝国海軍について。

 イスラーム勢力として最強を誇ったオスマン帝国ですが、その海軍は意外にも非イスラム的だったそうです。


『オスマン海軍は、黒海、エーゲ海、地中海をわが庭のごとく知りつくしたギリシア人、造船技術や航海術にたけたジェノヴァ人、西地中海を荒らしまわり、キリスト教徒の船に恐れられたマグリブの海賊たちなど、さまざまな「海の民」をたくみに利用することによって、十六世紀に黄金期を築き上げた。オスマン海軍とは、「トルコの海軍」ではなく「地中海世界の海軍」だったのである』(【世界史リブレット 79 オスマン帝国の近代と海軍】30P)


『内陸アジアの遊牧民出身であるトルコ人が建設したこの国家では、海に関係する技術のほか、技師、船員など人的資源の多くはギリシア人とイタリア人に依存していた。オスマン帝国の海軍提督がイタリア語起源の「カプタン」と呼ばれたのがこれを象徴している』(【世界の歴史⑮ 成熟したイスラーム社会】85P)


 更に、17世紀半ば頃からオスマン海軍はそれまでの櫂船(ガレー)中心から帆走軍艦への転換が段階的に行われ、帆船に必要な高い操船技術を持つギリシア系水夫への依存度が高まったことで、ますます非イスラム的になりました。

 (ムスタファ2世の大宰相キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャの指揮下、元キリスト教徒の海軍総司令官メッツォ・モルト・フセイン・パシャによって、18世紀初頭に初めてガレオン船のみで構成された艦隊が創設された)

 18世紀後半にはフランスから来たフランソワ・バロン・ド・トットという仏軍将校が、オスマン軍の改革に関わった事もあってか、より帆走軍艦の配備が進み、合わせて非ムスリム水夫の依存もますます強まります。


『ある史料によれば、この時代オスマン艦隊の熟練水夫の九五%、賃雇い水夫の七五%、砲手・水夫の五〇%がキリスト教徒であったという』(【世界史リブレット 79 オスマン帝国の近代と海軍】34P)


 もう「キリスト教徒の艦隊」じゃん……。(このため、近代にギリシャが独立すると、オスマン海軍の人材不足が大変なことになり、ただでさえ予算不足や海軍人事の不振で衰退しつつあった海軍は悲惨な状態になった)



 キリスト教とイスラム教の関係は、常に対立的だったと思われがちですが、このように実際の関係は何とも複雑で、時に緩い付き合いをしていたのです。


 ところで異教の祈りを治療の頼りにするって、結構ファンタジーのネタに使えそうですね。


 しかし、基本的に同文化の呪術師、祈祷師などには敬意を持ちありがたがるものの、異文化のそれらを「邪教」だとか「魔女」と呼んで恐れるというのが普通です。

 (ヴァイキング時代の北欧も、呪術師に敬意を払ったが、言語も文化も異なるフィン人の魔術師は()み嫌い恐れた。

 エイリーク血斧王の妻グンヒルドが魔女として恐れられたのも、フィン人魔術師の弟子だったせいらしい。「貴方の従者がお困りでしたので2人の師匠殺しときました」「あいつ、土地持ち過ぎだから殺しましょう」とか言い出す、本人の気性がヤバかったのも大きいだろうけど)


 その点を考えると、異教の祈祷を頼りにするって余程切迫しているか、大らかで余裕ある社会が前提になってそうですね。これも小説ネタに使えると思えません?


主な参考資料


 Wikipedia


【交易の世界史 上】ウィリアム・バーンスタイン


【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース


【世界の歴史⑮ 成熟のイスラーム社会】永田雄三 羽田正


【ペルシア見聞記】ジャン・シャルダン


【世界史リブレット 79 オスマン帝国の近代と海軍】小松香織


【世界の歴史 20 近代イスラームの挑戦】山内昌之

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