中世、近世の海④【海賊と商船の実態】港にいる間は商船だ!海に出たら海賊だ!ホント近代以前の海は地獄だぜ
※遅れて申し訳ありません。
某太閤立志伝にハマったり、フランス国王ルイ9世が十字軍遠征に出発する際に船乗りの不信心振りに驚愕したエピソードを何の資料で見たのか分からず、色々読み直しても結局見つからなかったりで時間が掛かってしまいました。
『一七四五年イギリス商人はフランスやスペインとの講和が成るかどうか警戒心をもって見守っていた。彼らの一人は次のように述べている。「戦争は海軍のみによって行われるので、彼らとは、平和状態よりも戦争状態を続けることの方が、概してわれらが王国のまことの利益である。……われらの通商は、一般的に言って、両国との自由な交流を許す平和の下にあるよりは、巧みに管理された厳しい海戦下にある方が、一層繁栄するのである」』(【ヨーロッパ史における戦争】88P)
《中世、近世の海》はとりあえず今回で終わりとなります。最後は近代以前の海の様相について。
近代以前の海というと、商船が行き交う中を時たま海賊が現れるといったイメージを持たれるかと思われます。
そして、非武装の商船を海賊船が一方的に襲うものだと、つまり“商船”と“海賊船”は「全くの別物」というイメージもまた一般的でしょう。
しかし、歴史を見ると、実際には両者の違いは「かなり曖昧である」ようです。
それでは近代以前のカオスな海の世界へご案内しましょう。
近代より前の時代における商船と海賊船に大して違いが無いことを示す例として、まずはヴァイキングが挙げられます。彼らはただ集落を略奪していくだけではなく、略奪品を各地で売り捌く商人でもありました。
『戦利品を山と積んだロングシップが交易船に早変わりし、侵略した地のすぐそばで臨時の店をひろげることもあった。奇襲と略奪を繰り返したヴァイキングだが、やがて交易に比重を置くようになり、東ヨーロッパやロシア各地に広がる商業帝国を打ち立てた』(【大聖堂・製鉄・水車】104P)
※(ヴァイキングの商業活動については、交易路「ヴァリャーグからギリシアへの道」のWikipedia記事も参考になる)
また、ノルマン人などのヴァイキングはヨーロッパ各地へ進出する中で、東ローマ帝国(現在のギリシャ及びトルコ辺り)やルーシ諸国(現在のウクライナやロシア西部)を通じて、イスラーム勢力とも交易を行っていたことも、北欧などで出土した貨幣を始めとする考古物から分かっています。
そんな彼らの商人としての顔を、とあるイスラームの外交官が記録しています。
『北の商人はそれぞれ岸に上がると「人間の顔のようなものがついた大きな木柱」の前にパンや肉、タマネギやビールなどの捧げ物を供えながら祈りを唱える。「神よ、私は遠方から、これこれの人数の女奴隷としかじかの刀剣を携えてまいりました」。他の商品もひとしきり詳しく数え上げてから、偶像に向かって願い事をする。「願わくば神よ、多くのディナール銀貨やディルハム銀貨を携えた商人を私のもとにつかわしてください。あの商人たちが商品をすべて買い上げ、文句を言い立てませんように」』(【大聖堂・製鉄・水車】105P)
ヴァイキングの場合は、集落の襲撃、略奪が商品の仕入れという経済活動の中に包括されており、彼らにとって略奪は商業と何ら矛盾しない行為でした。
が、後に封建制によるヨーロッパの防衛体制が確立した事や、キリスト教化もあって、この略奪と商業の一体化状態は消滅していきます。
しかし、ヴァイキングが消えても、商人と海賊両方の顔を持つ人々はなお存在しました。
それは当の“商人”達です。
どういうことか説明する前に、先に中世の海賊について軽く触れます。
中世前期から中世盛期に掛けて、イスラーム勢力が支配していたイベリア半島やシチリア島を、ヨーロッパ勢力が奪回したり、十字軍によって中東にヨーロッパ勢力が進出していく中、地中海には大きな変化が起きたそうです。
『イスラム勢が地中海沿岸の拠点を奪われ、ヨーロッパの港が防衛強化を進めたために、それまで水陸両面作戦をとっていたイスラムの海賊船が海上での襲撃へと、戦術を変えたのである。ヨーロッパ側も民間の海賊船を雇ってこれに対抗し、貨物品の防衛強化に努めた。高級品の輸送に特化したガレー船は船体がより長く、低くなり、スピードが速まった。』(【大聖堂・製鉄・水車】202P)
海賊に対して海賊を雇う。現代の感覚からすると違和感を覚える人も多いでしょうが、これはいわば傭兵を雇う事と変わりないことでした。
事実、普段は賊として、戦時には傭兵として活動する者達は、陸海関係なく存在していて、中世において盗賊と傭兵の違いはほとんど無いと考えても問題ありません。
英仏百年戦争が小康状態になった時や終結した際に、フランスとの契約が切れた傭兵達は、「次の戦争まで食い繋ぐために」フランス領内を散々に荒らしています。
『彼らは、戦闘と戦闘の合間は、田舎に寄食した。皮はぎ人たち(ēcorcheurs)という呼び名が恐ろしいまでに彼らをよく言い表しているが、彼らは、十四世紀の中頃から十五世紀の中頃まで意のままにフランスを歩きまわり、集団であるいは個人で略奪し、強姦し、火をつけたりした。――中略――やぶれかぶれのフランス王は、ただ彼らを始末するためだけに、スペインとハンガリーで戦争をしかけた』(【ヨーロッパ史における戦争】42P)
海賊も同様に、国などに雇われれば報酬を受け取る間は海上戦力として働き、仕事が無くなれば「自ら稼ぎにいく」ものでした。
中世日本の海賊も警固衆といって、商船に対し「警護料」や「通行税」を取り立てたものの、要求さえ吞めば平和的に通行させてくれる上に安全を保障してくれることもあった、いわば海の関所として機能しています。
彼らもまた権力側に雇われ、いわゆる「水軍」(※水軍という呼称は江戸時代から)として働くこともありました。
他にも“白熊衆”という河船賊が中世ルーシに存在していましたが、これは強力過ぎて誰も討伐できず(モンゴル帝国でさえ、してやられるばかりだった)、根拠地となっていたノヴゴロドも、彼らを戦力として利用しつつも、他都市への略奪行為には見て見ぬふりをして放置するといった事例もあります。
洋の東西を問わず、海賊は海軍になり得たのです。
というか、地中海のイスラム海賊や日本の海賊の場合は、無法者というより戦国大名の様な軍閥と言った方が的確で、海軍たり得るのはある種当然とも言えますが。
一応東ローマ帝国には国が管理する正規の海軍がありましたが、大半の中世国家における海軍は、海賊や商船を徴用して臨時編成されるものでした。
弓矢と投槍で射ち合い、剣を手に乗り込んで戦う時代なので、商船でも武装兵を乗せれば軍船に出来てしまい、その場しのぎの海軍でも特に問題が無かったのです。
この状況は日本を含めアジアでも同じでした。
また、必要な時のみに海軍が臨時編成されたのは、古代から現代に至るまで、海軍を整備維持するコストは非常に大きいものであるという事情もあります。
そして無法者、傭兵を含む独立した武装勢力以外に、騎士もまた通商破壊(敵国の輸送、通商ルートを攻撃する事)の一環として海賊行為をすることがありました。
『一一八三年、フランスの騎士ルノー・ド・シャティヨンは紅海でアラブの貨物船をたびたび襲撃した』(【交易の世界史 上】272P)
聖ヨハネ騎士団も1291年にパレスチナから完全に追い出されて以降、まずはキプロス島を拠点に、“異教徒に対する聖戦”と称して海賊行為に勤しんでいます。
その後ロードス島へ移り、ロードス島陥落後はマルタ島へ拠点を移しつつも、イスラームの商船を襲撃し続けました。
彼らは早々にイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒まで襲うようになり、挙句にはキリスト教徒の船まで襲うこともあったとか。完全にただの海賊です。
(「ギリシャ人は正教であってカトリックじゃないからセーフ、イタリア人は神より金を崇める連中だからセーフ」と言い訳してたと思われる)
ここで商人へと話を戻します。
上記にある様に商船でも武装してしまえば軍船になれるということは、商船が他の船を襲う事が可能であったということでもありました。
そう、商船はそのまま海賊船になり得たのです。
『十四世紀に商船が、当時利用できるようになった軽砲で武装し始めたのは、多分、商船相手の防御のためであった』(【ヨーロッパ史における戦争】77P)
自衛として武装した商人が、その自衛用である筈の武器を別の商人に振るうことは、陸海問わず世界各地で見られました。
ベドウィンなどの砂漠の遊牧民は隊商を営むと同時に、自分以外の隊商を頻繁に襲撃していましたし、日本でも「僦馬の党」という武装した運輸業者が、野盗に対する自衛だけでなく、自ら競合相手に盗賊行為を働いています。(新聞連載小説【親鸞】でも、馬借と牛飼が抗争の戦力となっている)
“文安の麹騒動”も酒屋と麹屋という商工人同士の対立から起きた武力闘争と言えるでしょう。
そしてヨーロッパでは、イタリア商人が互いの船へ襲い掛かっています。
ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどといった港湾都市は、どれもライバル関係であり、時には戦争という形で衝突することさえありました。
故に、「海の上で何が起きようと証拠は何一つ残らない」という点から、自衛用であった筈の武器を平然とライバル同業者へ向けたのです。(たとえ被害者が当局に訴えても、航行記録などの“証拠”が無ければ証人も意味が無かった)
中世の商船は、港にいる間は行儀良い商船でも、一度海に出て敵対関係の船と出会ったら、即座に海賊船へと変貌することが珍しくなかったのでした。
その中には海賊以上に凶悪な者達もいたようです。
コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマといった、香辛料を求めてインドへ向かった冒険商人がその最たる例でしょう。
『ダ・ガマの目的は貿易帝国を築くことではなかった。保護してやるという口実で地元の商人を脅し、市場価格以下でスパイスなどの品物を買ったり、他者、とくにイスラム商人に誠実な取引をさせないようにしたかったのだ。こうした「保護」行為と略奪の境界は紙一重で、ダ・ガマはしょっちゅうこの一線を超えた』(【交易の世界史 上】308P)
『ダ・ガマはよくこんな自慢話をしたという。略奪したダウ船の犠牲者の死体を吊るして射撃の的代わりにし、その後死体の断片を地元の支配者に送りつけてカレーの材料にしたらどうかといってやった、と』(【交易の世界史 上】316P)
近世に入り火砲を装備した帆船が一般化していくと、商船はますます積極的に海賊行為を働くようになります。
『商船でさえ、平甲板に沿って搭載した大砲によって、船首と船尾にしか砲を搭載できなかったガレー船に対し、自分を守る以上のことができた。そのため、やがて、軍艦と商船の差異はほとんどなくなった。両者の差異が再び生ずるようになるのは、十八世紀のことである。――中略――やがて、船荷の運搬と戦闘の両方ができなければ、船を出港させる価値がなくなった。それは戦争と発見と交易という三語がほとんど同じ意味をもつようになった時代であった』(【ヨーロッパ史における戦争】78P)
こういった武装商船はやがて、国家から「私掠船」という形で雇われるようになります。
私掠船とは、言ってしまえば「国家公認の海賊」です。
私掠免許という正式な許可証が発行され、敵対国の船を自由に襲ってもよいとされたのでした。
『これは、私船に対して、君主の敵を痛めつけ戦利品を取ることを認め、君主はその中から儲けの分け前を取った。かくして、私掠船は、ある意味で、傭兵隊長の海上版とも言うべきものであった』(【ヨーロッパ史における戦争】91P)
こうして、海賊の合間に交易するヴァイキングが復活したかのように、武装商船は略奪と交易を気ままに繰り返す様になります。
『堅実な商人も立派な廷臣もイングランド女王自身までもが、十六世紀の最後の三分の一の間には途方もない儲けを生むようになったこの事業に、よろこんで参加した』(【ヨーロッパ史における戦争】80)
『西インド諸島における実際の利益は、略奪と海賊にあった。十六世紀の私掠船の船長たちは、十七世紀にはカリブ海でその地位を事実上制度化し、都合のいい旗を掲げて交易し無差別に襲撃した』(【ヨーロッパ史における戦争】85P)
史上初の株式会社として知られるオランダ東インド会社も、カリブ海へ進出してまず最初にしたことは、貿易拠点の建設でも通商ルートの形成でもなく、スペイン船を襲う事だったそうです。
彼らはアメリカ大陸の品々を積んだスペイン船から、火薬と銃砲弾と刃で積み荷を“購入”し、本国に持ち帰って利益を上げる海賊会社として、西インドでの商売をスタートしたのでした。
『当時の他国の商人にとってと同様、戦争は見事に利益を上げていたのである』(【ヨーロッパ史における戦争】82P)
戦争で商人が利益を上げるというと、現代人は一般的に武器商人といったいわゆる「死の商人」を思い浮かべるでしょうが、歴史的には長らく戦争に乗じて(合法違法問わず)海賊行為を働くことで儲けていたのです。
政府が講和の動きを見せると、東インド会社を始めとする商人たちは挙ってそれに反対したというのですから、余程旨味のある“商売”だったのでしょう。
本項冒頭にある「自由で平和な海」より『巧みに管理された厳しい海戦下』の方が商人にとって都合が良いというのも、他国の同業者が自由に商売できる状態より、「自国商船は軍艦に守られ、他国業者は軍艦と武装商船によって排除される」戦時下の方が、自国商人が海を独占できるからいうわけです。
ただし、私掠船には大きな問題がありました。
期限切れ(戦争終結による無効化など)の私掠免許や偽造免許、他者から奪った免許などを根拠して私掠活動を行う者、私掠船を名乗りながら実際には無免許な者、敵対国以外の船も無差別に襲う者など、私掠船の制度を悪用して暴れ回る海賊が圧倒的に多かったのです。
漫画【ダンピアのおいしい冒険】でも、ダンピアの乗る私掠船が実は無免許状態だったり、中立国の船を襲ってたり、そもそもスペインとは休戦してるから私掠活動が許可されていないのにお構いなしだったりと、好き放題やる人々の姿があります。
挙句の果てに、「英国に帰っても仕事の当てがないから」と本国にいる船主から依頼されてた筈の貿易をほっぽり出して、仲間を募集する私掠船の下へ群がっていってしまう商船の船長と船員まで。
近世の船乗りに遵法意識は無いのか。(まあ、ダンピア自身も知り合いの地主に頼まれたジャマイカでの農場経営を一年で投げ出して、南米での違法伐採に参加してますが)
ファンタジー世界における商船は随分と大人しい存在ですが、史実の商船は当たり前のように武装し、海賊の顔を隠し持つ場合すらあった、油断ならない存在だったのです。
また、海軍が恒常的に組織されていない時代において、商船は軍船となり、商人は君主に対して強力な戦力を提供し得たという点も、忘れてはなりません。
どちらも小説ネタに十分使えると思いませんか?
主な参考資料
Wikipedia
【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース
【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード
【交易の世界史 上】ウィリアム・バーンスタイン