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中世、近世の海①【中世の船】コグ船「ガレオン!フリゲート!戦列艦!なぜだ!なぜ中世生まれじゃない奴らを中世ファンタジーに登場させて俺を出さねぇんだ‼︎」

 

 《中世の食事》の中で香辛料や茶などの貿易に触れたので、今度はその舞台である“海”について。


 中世の海と言われると、どのようなイメージをお持ちでしょうか?


 いくつもの帆を持つ帆船が往き交い、時折海賊が哀れな商船を襲う。

 一般的なイメージはこんな感じですかね。


 毎度の如く、史実と一般イメージは大きく違うもので、“歴史の中の海”も同様でした。

 今回からは中世及び近世ヨーロッパにおける帆船や、海に関する事について扱います。



 まず帆船ですが、ファンタジーなどにおいて登場する船は、どれも複数の帆と帆柱(マスト)を持っている事が多いです。

 南蛮貿易などで有名な「ガレオン船」や、コロンブスの大西洋横断にも使用された「キャラベル船」「キャラック船」、更にはもっと後の時代の帆船が、そういった一般イメージの元になっているのでしょうね。

 (実際に南蛮貿易を行ったのは、ガレオンだけでなく大型キャラックも多かった。教科書などに掲載されている南蛮船の絵もキャラック)


 しかし、「キャラベル船」及び「キャラック船」は中世も終盤な15世紀後半に開発されたもので、両者を土台に発展させて誕生した「ガレオン船」に至っては、中世が終わった16世紀の代物でした。

 中世の帆船として扱うには微妙なのです。


 では中世後期以前の帆船はどの様な船だったのか?

 何本ものオールを()いで進む「櫂船(ガレー)」? 間違いではありません。西暦800年代以降の中世の地中海では、向かい風に強い大三角帆(ラティーンセイル)を持つ一本マストの帆船と、ガレー船が主流でした。


 古代から軍艦として使用されたガレー船は、輸送能力も優秀だったので、商船としても長く運用されていました。

 中世前期に大暴れしたヴァイキングの船として有名な「ロングシップ」も、ガレー船の一種と見る事ができます。(ガレーもロングシップも、浅瀬や河川または戦闘時にオールを漕ぎ、外洋に出ると帆を張った)


 ガレー船は穏やかな地中海や、狭く入り組んだ峡湾(フィヨルド)がある北欧などでは、近代前期でも使用されています。


『歴史的には、ガレー船は穏やかな海での実用的な軍艦として長く使われた。オスマン帝国軍とスウェーデン軍とロシア軍は戦艦隊としてガレー船を使った。1790年代になっても、バルト海と地中海では、まだガレー船が使われていた』(【Empire total war】ガレー船の解説より)


 が、英仏海峡やドイツ北岸などの寒風吹き荒ぶ北海地域で、ガレー船を運用する事は少ないのが実情でした。(ロングシップは例外)

 それにガレー船は構造上、船員の居住スペースがほとんど無いので、夜が訪れる度に上陸して野営せざるを得ず、地中海より上陸しやすい場所が少なく波の荒い北海での運用は難しかった様です。

 (しかし、中世以前の北海では、ロングシップの先祖とみられる、帆を持たずカヌーの様にパドルで進む船が使われていた模様)


 ならば北ヨーロッパの中世帆船は何だったのか?

 正解は「コグ船」です。


 まずコグ船が生まれる前、中世の初期においては「クナール」(クノールとも)という、ヴァイキングが使用した貿易船が存在していました。


 クナール船はロングシップと違い、一本マストの純粋な帆船で、オールは方向転換用として船尾側に6~8本程度しかありません。船型も細長いロングシップに比べて、船幅が広く丸みを帯びています。

 (オール)による推進と帆走を併用するロングシップに対し、クナール船は少ない人員で多くの物資を運べる完全な帆船でした。


 ヨーロッパで封建体制が整備され、防備が固められていくと、ヴァイキングの活動は下火になっていきました。

 するとスカンジナビア(北欧)の人々は、略奪(ヴァイキング)から貿易へと比重がシフトしていき、平時には使い辛いロングシップよりクナール船の使用率が増えていきます。

 当然イギリスやフランス及びドイツ北部などでもクナール船、またはこれを模倣した船が使用されたことでしょう。


 このクナール船に取って代わったのが、「コグ」です。


 コグ船は丸型かつ平底という構造で、軽快高速なロングシップに比べ、かなりの鈍足だった代わりに、圧倒的積載量を誇りました。


『かつてアイスランドやグリーンランドにまで繰り出した古いタイプのクノール船は一二~一四人の乗組員で五〇トンの荷を運ぶことができた。ずんぐりと横幅の広い新型のコグ船は一八~二〇人乗りで二〇〇トンも運べた。一二世紀末には三〇〇トンもの荷を積んでいた。』(【大聖堂・製鉄・水車】201P)


 ※(ただし、ブログ【中世史の保管庫】によると、北海において100トン以上の荷を積める船の数はそう多かった訳ではないらしい。というのも大型船は建造コストが掛かるだけでなく、進入可能な水深や設備の関係で入港出来る港が限られてしまう欠点があった。一方、北海より沿岸の水深が深い地中海では大型な船が多かった)


 また積載量を増やすために、水面より上の船体部分である乾舷(かんげん)や甲板の位置が高くされ、建物でいう二階建てのような構造になりましたが、結果的にこれは戦闘でも役立つことになりました。

 なぜなら、たとえ「長蛇号(オーメン・ランゲ)」の様な最大級のロングシップでも、結局のところ一階建てに過ぎず、二階建てであるコグ船には常に上から矢を射られてしまう上に、接舷して斬り込む際にも高さの違いから縄や梯子(はしご)でよじ登らなければならない、などの不利を強いられたからです。


『甲板が高いコグ船は、同種のコグ船で攻めないかぎり難攻不落だったのだ。』(【大聖堂・製鉄・水車】201、202P)


 ロングシップは船上に(やぐら)、つまり弓兵用の高台を組んでこの高さに対抗しようとしましたが、コグ船も同じように船首や船尾に櫓を設置し、コグ船優位は(くつがえ)りませんでした。

 コグ船に常設されるようになった櫓は、やがて「船首(ろう)」及び「船尾楼」へと発展します。(横から見ると凹型に見える船体の中でも特に高くされた部分。居住スペースでもあった)


 コグ船の革新的な点としてもう一つ、それまでの船は船尾が低く湾曲していたのに対し、大型のコグ船の船尾は高くかつ比較的真っ直ぐだったことが挙げられます。

 これは「船尾(かじ)」を取り付けるのにぴったりでした。(これ以前は操舵櫂(ステアリングオール)という、舵取り専用のオールを使用していた)


 舵や帆については次回で扱います。


 コグ船とは別に、現在のオランダ辺りではハルク(ホルク、フルクとも)という似たような船が誕生しています。

 元は河川用ボートだったとも言われ、小型のコグもそうでしたが、喫水(船体の水面下に沈む深さ)の浅いハルク船は河川でも航行が可能で、内陸と沿岸を繋ぐ重要な役割をはたしていました。

 ハルク船は地中海に導入されると、後にキャラベルやキャラックの発展元になったとも考えられています。


 なお、ガレー船も喫水が浅い上に、(オール)で風を気にせず進めるので、ハルク船と並んで河川の物流を担っていたそうです。

 また河川艦隊として兵員及び物資の輸送(川を線路に見立てれば鉄道のような存在だったと言える)や、河川を支配、警備する戦力など、内陸でも軍艦としての役割が与えられていました。馬もそうでしたが物流を担う以上は、軍事と切り離されることはなかったのでしょう。


 そしてヨーロッパではありませんが、地中海を航行した船として、アラブのダウ船も外せません。


 コグ船などと同様に一本マストの帆船でしたが、横帆はほとんど使わず大三角帆(ラティーンセイル)を使用し、何より釘を一本も使っていないという特徴があります。(ヨーロッパの船が三角帆を使うようになったのは、ダウ船の影響が大きいという意見もある)

 「ダウ」は板材を縫い合わせたり縛ったりして固定する方法で作られる、縫合船の一種でした。

 衝撃に弱い代わりに建造や修理が簡単で安価にできるという利点から、アジアを中心に長く使用されています。(ヴァイキングのロングシップも金属釘ではなく木釘を使用しており、縫合船とは建造思想が近い)

 しかし、その建造法から大型化が難しく、近世にヨーロッパから金属釘(そもそも中世は精錬技術の問題で金属自体が高価だった)などの技術が導入されるまで小型の船が圧倒的に多かったようです。



 古代や中世前期では、帆柱(マスト)を一本だけ持ち、帆も一つだけという形の船ばかりでした。ですが、中世盛期である13世紀に入ると、それまで一本だった帆柱を二本持つ大型船が地中海で現れています。


『ヴェネツィアの造船所 (アルセナーレ)で作られた「大ガレー船」と呼ばれる船は実はガレー船ではなく、港に出入りするときに(かい)を使う帆船であった。二本(のちに三本)のマストには大三角帆を張り、大きな主帆 (メインスル)で動力となる風を受けた。船倉の容量は一五〇トン。北へ向かうとき絹や香料を積み、帰路には毛織物や羊毛を積んだ。』(【大聖堂・製鉄・水車】282、283P)


 更に、北海で生まれた「コグ」が地中海で改良され、大型化しました。

 そうなった要因は、地中海の方が北海より水深が深いので大型船に都合が良かっただけでなく、大西洋と地中海を行き来する際の問題もあったようです。


 というのも西から吹く卓越風、いわゆる偏西風のお陰で、ジブラルタル海峡を通って地中海へすんなり入れても、大西洋を通過して北海に向かう時は偏西風が逆風となって今度は邪魔になってしまうのです。


『一四世紀、コグ船は基本的なモデルチェンジによってこの問題を解決した。二本目のマスト(ミズンマスト)をつけ、それに大三角帆を張ったのだ。この新型コグはジェノヴァ人の間でたいそう評判がよかった。エーゲ海のフォカエア島やチオス島からフランドルやイングランドへと、ミョウバン(染料固定剤)を直接運ぶのに便利だったからだ。』

『一四〇〇年には積載量六〇〇トンもの船が生まれた。ハンザ同盟の大型船の三倍もの積載量であった。』(【大聖堂・製鉄・水車】283P)


 ※ハンザ同盟(北ドイツの都市同盟。元は北ドイツの商人達が結成した団体)


 帆船が改良され大型化していくと、それまでの船は明らかに旧式化してしまいましたが、現代でも様々な道具がそうであるように、すぐに旧型が一掃されたというわけでもないようです。

 特にガレー船は、本項の最初でも触れましたが軍艦として長く使用されていました。


『軍艦の生命は高速力と旋回性能、しかし当時の帆装ではそれを期待できない。人間と櫂とが動力だったのだ』(【軍艦無駄話】収録、艦首はどっちだ)


 一方で商用ガレーも、キャラック船に取って代わられるまではある程度生き残っていたようです。


 建造のコストの関係から中小商人に使われただけでなく、旅人にとってもガレー船は有難い存在だったとか。

 ガレー船は船内に居住スペースがほとんど無いので、毎夜上陸する必要があったのですが、経済的には非効率なそれが逆に旅人にとって嬉しい事に繋がりました。


 特急便である帆船は無駄なく目的地まで真っ直ぐ向かうため、途中で有名な町の近くを通っても乗客は海上から眺める事しかできません。

 また、旅行者は荷を運ぶ商船に便乗させてもらってるだけなので、食事も自前で用意しなければなりませんでした。


 一方、ガレー船は毎日寄港するので、陸の上等な食事にありつき、揺れない寝台で熟睡し、更には観光を満喫することもできたのです。

 当然、帆船の方が短期間で目的地に着ける上に『運賃は安かったが、待遇には一等船室と三等船室ほどもの差があったのだ。』(【大聖堂・製鉄・水車】284P)



 中世全体を見ると帆船はまだまだ発展途上(とはいえ積載量は大型トラック4、5台分以上に匹敵する結構なもの)で、現代人が想像する帆船とは異なる姿でした。

 ですが、着実に進化していき、ヨーロッパの経済活動を大いに押し上げていた功労者であったことは、揺るぎない事実です。(船舶保険の普及も中世盛期頃)


 そんな一見貧相でも、縁の下の力持ちだった一本或いは二本マストの帆船達を、是非皆様の世界でも働かせてやって下さい。少なくとも読みたいと思う人間がここに一人いますから。


主な参考資料


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース

【図解 中世の生活】池上正太


Wikipedia


漫画【軍艦無駄話】黒井緑



動画

【Krauka - Ormurinn Langi (Faroese folk song)】長蛇号の歌 イラスト左側には操舵櫂も見える

https://www.youtube.com/watch?v=oAbz_X8VUDg


Gruß an Mecklenburg [German march] 背景にコグなどの中世帆船を再現した写真画像

https://www.youtube.com/watch?v=8B8ULArgmEA

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