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中世という時代


※少し説明臭くなってしまったので、読んでいて「長い、読みにくい、もうええわ」ってなった場合は最後のまとめだけ読んで頂ければ幸いです。


 

 まず最初は避けては通れぬ“中世”そのものから。


 こういった史実解説系エッセイでは多くの方が「中世とは何か」を説明しており、今更改めて書く必要があるのかと言われてしまいそうですが、やはり大半の方は“中世”というものをよく知りません。授業でもちゃんと教わる事は皆無ですから当然といえば当然ですが。


 では、“中世”とはどういう時代だったのか?(注:本項では中世ヨーロッパを中心として説明します)


 石造の城や家々が立ち並び、板金鎧(プレートアーマー)を身に付けた騎士が闊歩(かっぽ)する……というのが一般的なイメージでしょうか。


 それは全くの間違いだとは言えません。ですが、それは中世全体でもかなり後ろの方で、騎士が栄えていたどころか没落していった時期でもあるのが現実です。(一般的イメージの一部に至っては“近世”や“近代”の物も紛れていますが……)

 全身を覆う板金鎧(プレートアーマー)は、自分達の価値が低下していく事を認められない騎士の、意地を張りまくった抵抗の意味が含まれていました。


 「中世という言葉は常に16世紀的幻想に包まれている」とは誰の言葉だったでしょうか。


 ……マジで誰だったっけ……持っている本の中で見かけた記憶があるのですが、読み直しても見つからず仕舞いに。歴史著作家のギース夫妻だった気がしていたのですが……。

 一応【ヨーロッパ史における戦争】19Pに『「中世」というものの多くの部分は、今なお、十五世紀的伝説という歪められたレンズを通して見られている』という記述は見つけました。



 閑話休題。

 そもそも中世という時代は、現代や近代といった百年、二百年単位の時代に対して、なんと一千年(紀元5世紀~15世紀。西暦400~1400年代)もあります。


 このため一言で「中世」といっても、学術上は大まかに中世前期、中世盛期、中世後期と分けられ、それぞれの様相もまるで違います。

 数百年もあれば様変わりするのは当然ですが、一方で短い期間の間に現代の如く急激な変化が見られることもあります。

(例:12世紀末から13世紀初期にかけての数十年における騎士の変化。あまりの変化振りに、当時の騎士譚でも「今と違って数十年前の昔はこうだったよ」と本文中にわざわざ注釈が付けられている。※詳細は後日別の項で書きます)


 このため一部の歴史学者らからは度々「古代」「中世」「近世」etc.といった歴史区分へ批判の声が上がっています。


 時代区分ごとに世界が断絶しているわけではなく、それを境に劇的な変化をしたわけでもない。その上、こういった分け方は誤解や語弊を招く(招いている)、と。



 事実、「中世」や「近代」など歴史区分の言葉は誤用が余りに酷いのが現状です。


 あるブラウザゲームでは何故かバリバリの近代である19世紀(1800年代。日本では江戸時代後期~幕末、明治)の鉄血宰相ビスマルクやウェリントン公爵が“中世欧州”の人物に分類されてたり、ある服飾史紹介サイトでは、マリー・アントワネット関連の話を紹介する際に、近代に片足を突っ込んでいる18世紀後半(1700年代後半~1800年代。江戸時代後期)を中世と言っていたり……。(アメリカ独立戦争やフランス革命が近代への転換とされている)


 中世程ではないですが、「近代」という言葉も主に軍事関係で誤用が目立ちます。

 「近代兵器」などですね。

 よく「現代兵器」と同じ意味で使われていますが、厳密に言ってしまうとこれは「“近代”の兵器」なので、例えば銃器は自動小銃(アサルトライフル)分隊支援火器(軽機関銃)などではなく前装銃(マスケット)やドライゼ、シャスポーなどの紙製薬莢式後装銃を主に指すことになります(しかしながら、近代の金属薬莢式銃は古式銃と対比して全て現代銃に分類されるというややこしい事情もある)



 話を中世に戻しますと、そもそもヨーロッパで“古代”(厳密には古典古代)が終わり“中世”が始まったのは、3世紀(西暦200年代。日本では弥生時代末期から古墳時代初期)以降に古代ローマ帝国の西半分を治めていた西ローマ帝国の最後の皇帝が廃位された(つまり西ローマ帝国が滅亡したと考えられた)西暦476年だとされてきました。

 しかし皇帝が居なくなっても西ローマ帝国が滅んだとは言えない事が分かって来るのに伴い、研究者らはこの事件を中世の始まりと見なす事は全くの“無意味”であると断じるようになります。


 そこで特定の年をもって中世が始まったと言える根拠が無い事から、現在は「500年頃に中世が始まった」というアバウトな表現になっています。


 逆に中世が終わったのは、「コンスタンティノープルの陥落(事実上の東ローマ帝国滅亡)」や「英仏百年戦争の終結」があった1453年とされていましたが、これも『明確だがさらに無意味』(【大聖堂・製鉄・水車】14P)でしかなく、今は「1500年頃に中世が終わった」という言い方が主流になっています。


 年代的に言うと日本における飛鳥時代(聖徳太子が居た時代)から戦国時代初期までがヨーロッパにおける“中世”となりますね。

 こう表現すると、“中世”という時代が決して一様ではないことが理解しやすいのではないでしょうか。



 さて、これまでに書き連ねたのは“中世という時代”というより、世間を独り歩きしている“中世という言葉”そのものについてが主になってしまいましたが、ここからどういう時代であったかをざっくり説明して終わりにしたいと思います。ざっくり。

 詳細は分野ごと項を分けて後々気ままに書きますので。



 始めに中世前期について(凡そ5、6世紀から10世紀。400年代か500年代~1000年。日本は古墳時代~平安時代)

 中世という時代が始まった頃はヨーロッパに限らず、ある程度混乱の最中にあったと言って差し支えないでしょう。それまで存在していた古代国家による秩序が崩壊し、力がモノをいうようになった時代ですから。


 ヨーロッパではローマ帝国の西半分が崩壊した事により、それまでローマから蛮族とされていた人々が次々と支配者が消えた空白地へ王国を打ち立て、ササン朝ペルシアを除いて大国が存在していなかった中東は様々な王国や部族が相争う状況(無明時代(ジャーヒリーヤ))が続きました。

 日本でも律令制による法治主義が機能不全に陥って、朝廷の力が弱まる一方で地方豪族の力が増していき、やがては武士や僧兵といった武装勢力が幅を利かせるようになります。


 かつては混沌とした時代という意味で「暗黒時代」とも呼ばれた中世前期ですが、現在そのような見方はほぼ完全に否定され、暗黒時代という言葉は「資料の少なさからよく分かっていない時代」という意味になっています。

 日本史でいえば国内(まだ文字が無かった)どころか中国の文献にも記述がない「空白の4世紀」がそうでしょう。


 群雄割拠の時代となった中世前期ですが、氷河の後退による気象変動という幸運と農業革命とも言うべき農具の改良や農業技術の向上によって、古代奴隷制を無意味にしてしまい※、古代よりも多くの人口を支えられるほどに土地を豊かにできた時代でもあります。

 だからこそ地方の力が増して国王などの中央政府は思うように国をコントロールできなかったのですが。(日本の朝廷が無力になっていったのも、農業の発展による地方勃興が大きい)


 (※新型馬具によって馬も農業や運搬への活用が可能になった事もあって、奴隷より家畜を使った方が遥かに効率が良くなった)


 またローマ、ギリシャの技術などは一時衰退したものの、決して失われたわけではなく、寧ろ改良されて戻って来ることになりました。


 やたら現代人に嫌われる宗教も、それら古代の英知を破壊した事は事実ですが、破壊した数以上に多くの技術や思想を保護しています(代表的な例はガラス製造)

 更に、女子供どころか教会すら平気で襲われるという何の制限も分別もなかった戦争に(実際に守られることは多くなかったとはいえ)最低限の国際的ルールを課すことに成功し(『神の平和』『神の休戦』)、また現代に繋がる倫理や道徳の基礎を築いています。



 続いて中世盛期。(11世紀~13世紀。1001年~1300年。日本は平安時代中期頃~鎌倉時代後期)


 リトアニアを始めとするバルト人勢力を除いて、ヨーロッパ最後の非キリスト教国だったハンガリーがキリスト教を受け入れたのは、盛期に入る西暦1000年の事。

 かつての“蛮族”達が完全なキリスト教国家となり、部族的慣習による秩序から宗教や封建制による秩序へ移行され、力が全てな雰囲気が漂うヤクザめいた前期から少し落ち着いていった時期です。


 といっても現代から見れば、まだまだかなり乱暴な時代ですが、それは仕方ないでしょう。法があっても警察がいない(創設する予算もノウハウも無い)のですから、自力救済(自分や身内で犯人をぶちのめす)にならざるを得ないのです。


 一方の中東では、7世紀に誕生し急速に広まったイスラームによって一つに纏まり「イスラームの平和(パクス・イスラミカ)」が(もたら)され、その後アッバース革命など多少の政変や国家分裂がありつつも、古代ローマとギリシャの遺産や東西との交流を元に黄金時代が築き上げられます。


 また、騎士の黄金時代とも言える中世盛期ですが、面白いことに騎士の最盛期こそ騎士の数が最も少なかったという事実があったり。この辺りも別項目で詳しく書きます。

 一方で、人口増加に伴う経済の活性化がこれまでになく盛んになっていった時代でもありました。貨幣経済の浸透及び商人と都市の急成長は後に、農業を基盤とする騎士の立場を揺らがしていきます。


 そして何より“発明と改良の時代”でもありました。製紙業、船尾舵、風車、アラビア数字(インド数字)、etc……数え切れない技術の数々が生まれたり、アジアや中東から新技術が取り入れたり改良されていく、テクノロジーの大躍進が起こりました。

 眼鏡が発明されたのもこの頃なので、中世ファンタジーでメガネキャラを描きたい方は要チェックです。といっても遠視、老眼矯正しかありませんでしたが。(近視矯正に使える凹レンズはもっと後)



 最後に中世後期。(14世紀から15世紀。1301年~1500年代。日本は鎌倉時代末期~戦国時代初期)


 一般的に中世というとこの時期(或いはこれより後の“近世”)が想像されています。

 百年戦争のジャンヌ・ダルク、ヨーロッパで初めて銃が本格的に使用されたフス戦争、コンスタンティノープルの陥落、コロンブスの大西洋横断と有名イベントが目白押しでもあるということも大きいかもしれません。


 中世後期はだらだらと断続的に続く英仏百年戦争、黒死病、複数の教皇が分立しヨーロッパの分断まで招いた教会大分裂(シスマ)といった具合に、大小の戦争に(まみ)れた前期及び盛期に劣らぬ苦難を抱えた時代です。

 しかしながら、それでもなお発展は止まらず、世界的には“辺境”に過ぎなかったヨーロッパが、巨大文明たる中国を中心とするアジアやイスラーム黄金時代の繁栄を謳歌(おうか)する中東に、勝るとも劣らない文明の中心地への成長を果たしました。


 素朴に育っていた文化、芸術は燦然(さんぜん)と成熟していき、科学もまた宗教に包まれながら成長していきます。(当時の科学者はほとんどが聖職者)


 一方で、『中世のテクノロジーが残した「最も有害な」遺産』(【大聖堂・製鉄・水車】365P)である火薬兵器が猛威を振るい始めた時代でもありました。

 火と煙、そして死を吐くそれらは、時代の変化によって衰退しつつあった騎士を更に凋落(ちょうらく)の断崖へと押し出し始めます。


 ただでさえ、自由民(平民)からなる(メン・)(アット)(・アー)(ムズ)や立場上は見習い騎士たる従騎士などの格下の存在が、「騎士と装備や戦闘力があまり変わらない上に維持費が安く済む」という理由で重宝がられ、下賤(げせん)な存在だった筈の射手達も騎士の如く馬に乗り始めた挙句、雀の涙だった給料が騎士の三分の一~半分程までに上昇するほど地位を上げてしまっている状況。


 このように相対的に価値が低下してしまった騎士の前へ、射手以上に下賤とされた砲兵や銃兵が、我が物顔で戦場に現れたのです。


 傭兵や成り上がり達に脅かされながら、それでも戦力としての騎士はギリギリ精鋭として残り、まるで仇花(あだばな)を咲かせるように『小春日和のような、騎士道の復活』(【中世ヨーロッパの騎士】298P)が訪れ、騎士道が盛り上がりを見せます。


 が、中世が過ぎて間もない宗教革命下のドイツで起きた“騎士戦争”(1522~1523年)などが示すように、騎士の没落は決定的であり、結局は彼らは時流に逆らえず戦士としての役割から降りて、貴族階級の一つとして存在するだけになっていきました。


 残された騎士道や騎士道物語は以後も存続しますが、これも詩や小説によるパロディという形での風刺(かの有名な【ドン・キホーテ】もその一つ)や、新教思想(プロテスタンティズム)からの侮蔑※などに襲われ、騎士道やそれを扱う文学がたっぷり持っていた神秘性は残らず()ぎ取られてしまいます。

 ただ武士道と同じように根底にある精神はある程度、後世に受け継がれました。


 (※【中世ヨーロッパの騎士】307Pによれば、エリザベス1世の家庭教師でもあったロジャー・アスカムは騎士道物語を『(カトリックの)「暇を持て余している修道士または、ふしだらな司祭たち」の創作物』と非難した)


 このように、中世が終わりを告げる時期は、騎士が特別な立場から転げ落ちていく時期でもありました。

 同時に中世という長い時代の間に地道な改良を重ねてきたテクノロジーが、一気に(つぼみ)を開かせ様々な革新を(もたら)します。


 その最たるものの一つが、キャラベル船やキャラック船などの遠洋航海可能な帆船(と航海技術の発展)でした。


 当初は新型船の積載量の多さや北欧と地中海を直接行き来できる性能が、経済活動を大いに上向ける意味で重要でしたが、ポルトガルやスペインがアフリカへ進出する過程でヨーロッパの外へ出られることにも注目されていきます。


 そう、この船舶及び航海技術の前進によって、ヨーロッパからアフリカやインド、アメリカ、そしてアジアへと漕ぎ出す“大航海時代”が幕を開けるのです。



 時代は“基本技術の発明と改良の時代”から“探求の時代”へと変わり、ヨーロッパ世界は“中世”と“近代”の間を繋ぐ「近世」という新たなステージに進んでいくのでした。




 ・まとめ


 「中世」という言葉は誤用されまくっている。

 16世紀(日本では戦国時代)にはヨーロッパでの中世は終わっているのに、世間ではこれ以降の時代も全部中世扱いされてしまっているのが現状。近代である18世紀後半や19世紀(江戸時代後期~幕末、明治)さえも中世と誤って呼ばれてしまっている。


 中世といっても西暦500年頃から1500年頃、日本では飛鳥時代から戦国時代初期に至る一千年ものかなり長い時代なので、「中世は〇〇」「中世は△△だった」と一様扱いには到底できない。


 中世は、ローマ帝国による秩序の崩壊とローマから“蛮族”とされた人々が自らの王国を築き始めた事で幕を開けた。

 その後、封建制度と宗教による倫理観、道徳観の形成で一定の秩序を回復し、古代には存在していなかった様々なテクノロジーの発明や改良が盛んになる(古代ローマやギリシャの英知は衰退しても失われておらず、あまつさえ改良されて復活している。当時は決して“劣化ローマ”などでは()()()())


 黒死病や百年戦争などといった数々の大きな苦難を味わいつつも発展は停滞することなく、ヨーロッパはアジアや中東に並ぶ、文明の中心地へと成長。

 一方で中世の代名詞“騎士”は時代の変化によって没落していき、中世と共に終わりを迎えた。


 中世の技術開発と改良の努力は最後に大航海時代を到来させ、“発明と改良の時代”から“探求の時代”へと、“中世”から“近世”へと進んでいった。



主な参考文献


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース

【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース

【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード

 Wikipedia

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