中世の食事 番外編【お茶とコーヒー】
※今回は参考資料がwiki中心の低品質番外です。
※2024年4月28日追記
ティーポットからカップに注がれた紅茶を、貴族が優雅な所作で香りと味を楽しむ。
なーんて光景は19世紀という近代の話で、残念ながら中世どころかマリー・アントワネットが生きた18世紀後半でも、その情景は一般的ではありませんでした。
そもそもヨーロッパにお茶がやってきた時点で“中世”はとっくに終わってますし。(ハーブや薬草を煮出して飲むといった、ハーブティーの先祖とも言える薬湯は紀元前からあるが、今でいう薬用酒的な扱いだった)
中国原産である「茶」がヨーロッパに渡ったのは、17世紀前半頃。(※ヨーロッパにおいて、中世という時代は5世紀から15世紀まで)
西ヨーロッパではオランダが日本と中国から緑茶を輸入したことから始まり、東欧ではロシアにモンゴルから贈られたのが初めてでした。
当初は眠気覚ましなどの薬として用いられましたが、数十年後にはタバコや酒と同じ嗜好品として楽しまれ始めたようです。
というか、むしろ薬扱いされる程の薬効が人気に火を付けたらしく、16世紀後半〜17世紀後半に掛けて、茶の健康上における利点を論じる医学書などが出まくったとか。
いわゆる「健康ブーム」が当時にもあったようです。(【ペルシア見聞記】の中のジャン・シャルダンを見るに、“散歩”もこの頃から「健康に良い」として流行していたらしい)
当初はジャワ島 (インドネシア)経由でオランダへ輸入された、中国産と日本産の緑茶が出回ったものの、日本の貿易制限(いわゆる鎖国)などもあって、すぐに日本産の姿は消え、量や質で優る中国産茶葉が主流になりました。
(※戦国時代の悪影響や工業化の遅れなどの要因により、一部工芸品を除く日本製品の多くは江戸時代~明治まで高品質とは言えなかった。特にセリシン除去技術が無かった生糸は、欧米の技術や知見を取り入れてから、初めて国際競争に乗り出せた)
こうして喫茶文化が始まった近世ヨーロッパですが、現代のイメージと大きく違う点が一つありました。
カップに茶葉を入れて熱湯を注ぎ、そのまま飲んだのです。
理由としては磁器製ティーポットを100%輸入に依存していた事(一応金属製の物が作られたが、金属製だと茶渋がこびりついてしまう)や、茶漉しが普及していなかった事などだと思われます。
また「建水」(「こぼし」とも)という、使った湯や水を捨てる茶道具があるのですが、ヨーロッパでは『カップの底に茶葉がしばしばあったので、それは熱いお茶で補充する前にティーカップの冷たいお茶とかすを空にするために使用されました。』(建水の英語版wiki機械翻訳より)
しかし、至極当然ながらカップで直接煎じる方法は「茶葉が口に入って飲みにくい」「熱くてすぐには飲めない」といった問題に直面しました。
ならカップで茶を淹れたら、茶葉と熱を避ける為に別の飲用容器に注ごうという事になりますが、なんとティーカップから受け皿に茶を注いで飲むようになってしまいました。
『ジェファーソンがフランスから戻ったとき…彼はジョージ・ワシントンになぜ上院が創設されたのか尋ねた。ワシントンはジェファーソンに「なぜあなたはそのお茶をあなたの受け皿に注いだのですか?」と尋ねることによって答えました。「それを冷やすために」とジェファーソンは言った。「それでも、私たちはそれを冷やすために上院の受け皿に法律を注ぎます」とワシントンは答えました。』――チャックグラスリー上院議員によるフロアスピーチ(ソーサーの英語版wiki機械翻訳より)
これがマリー・アントワネットの時代における一般的な紅茶の飲み方です。
この辺りは、N◯Kの少し毒舌な5歳児が進行する某番組でも紹介されたので、知っている人もいるのでは?
ちなみにこの飲み方、ヨーロッパでは18世紀が終わる頃には廃れていきましたが、何故かロシアでは長く現役なままになっています。
流石にロシア革命後は今と同じやり方になったようですが、帝政時代は皿に茶を注ぐ方法が伝統として残っていたとか。理由は不明です。何故……。
磁器製ティーポットの普及は中国との貿易の拡大や、マイセン磁器を始めヨーロッパでの磁器生産が可能になったことなど、複数の要因が重なり、18世紀から19世紀に掛けて普及が果たされたようです。
(金属製ティーポットは既に17~18世紀には使われていた模様。ただ茶漉しが無い事や茶渋が付着する問題から、淹れる為の物ではなく茶用の湯沸かし器扱いが多かったと思われる)
こういった紅茶と茶道具の事情には、中国との貿易がポルトガルやスペインにほぼ独占されていた事が大きく関わっていました。
近世のポルトガルは東南アジア各地に拠点を持ち、更にマカオという東アジア貿易の一大拠点をも保有しており、中国相手の貿易シェアは大きなものでした。(いわゆる“南蛮貿易”の時代)
そんな“ポルトガル海上帝国”の存在感は長く残り、1662年に英国王チャールズ2世にポルトガル王女のキャサリン・オブ・ブラガンザが輿入れした際には、莫大な持参金によって当時イギリスが抱えていた負債が解決されています。
おまけに持参金には、ポルトガル領になっていた北アフリカのタンジールとインドのボンベイ(現ムンバイ)が含まれていました。太っ腹過ぎる……。
ポルトガルの財力は世界一ィィィィーーーーッ! と言っても過言では無かったかもしれません。
そんなポルトガルと世界を二つに分け合った(教皇子午線)関係である“陽の沈まぬ帝国”スペイン。
かの大帝国もまた、東アジアや東南アジアでの存在感は巨大でした。
教科書を始め一般的には、スペインの「無敵艦隊」が“アルマダの海戦”(1588年)で英国海軍に大敗し、以降はイギリスやオランダが海上覇権を握ったと認識されています。
しかし実際には、海戦の敗北は英国本土上陸を諦めさせただけに過ぎません。
「最高の祝福を受けた大いなる艦隊」「至福の艦隊」と称したスペイン海軍は、依然として強大であり、ヨーロッパ最強クラスの大国というスペインの立ち位置は18世紀まで健在でした。
“アルマダの海戦”から半世紀以上経っても、スペインは依然強大で、イギリスが直接対決を避け続けていた事実は、漫画【ダンピアのおいしい冒険】でも描かれています。
このポルトガル海上帝国と陽の沈まぬ帝国スペインという二巨頭(なお一時期には、同君連合としてスペインがポルトガルを併合している)による影響で、茶葉はともかくも磁器製のティーポットは、オランダやイギリスのアジア進出までの間、他のヨーロッパ諸国の手には渡りにくかったようです。
(行きで銀を積み、復路では絹や磁器などアジアの産物を積んで、スペインとフィリピンのマニラを行き来した船を「マニラ・ガレオン」といい、南米の富をスペイン本国へ運ぶ「インディアス艦隊」と並んで、スペインの富の柱であり象徴だった)
故にティーポットの普及が宮廷や上流階級クラスでも遅れたのです。そもそも舶来故の超高級品だった事も大きいでしょうが。
ところで紅茶と言えばイギリスが想起されやすいですが、戦車に湯沸かし器を標準装備させるなど「紅茶狂い」とも評される程に、紅茶好きなかの国における紅茶文化の始まりは、意外なことに外から導入されたものでした。
茶を飲む事自体は1657年からコーヒーハウスで提供されるなど、茶が初めて輸入されて数十年の内に行われてはいましたが、まだ緑茶が中心だった事もあり、あくまで健康の為の薬用飲料という扱いでした。(現代における青汁的なものか?)
茶を純粋に嗜好品として楽しむ文化はまだなかったのです。
イギリスに紅茶文化を齎したのは、先程触れたチャールズ2世に輿入れしたポルトガル王女のキャサリン・オブ・ブラガンザだとされています。
彼女はポルトガル王宮で高級な紅茶を嗜んでおり、イギリスに渡った際にも当たり前のように紅茶を所望しましたが、「英国にはジンとエールしかねえよ」とばかりにエールを飲まされたというエピソードがあります。
英国王妃となったキャサリンは毎日のように茶会を開き、当時高級な品だった紅茶と砂糖を惜しげもなく使用することで、ポルトガルの威信と紅茶文化を積極的に発信。
これがイギリスにおける紅茶文化の始まりとされています。
なお、紅茶にミルクを入れるのは18世紀前半、1720年頃からフランスから伝わって始まったそうで、それまでは砂糖のみだったようです。
17〜18世紀において、茶はコーヒーやチョコレートと並んで最先端な飲み物として持て囃され、大いに流行しました。(※チョコレートは元々「ショコラトル」というココアに似た飲み物で、固形になるのは19世紀)
が、やはり輸送コストから茶の価格は高く、結構な高級品ではあったようです。1660年代にはコーヒーの6〜10倍もしたとか。
茶やコーヒーに砂糖を入れるのも、苦みを抑えて味を調える以外に、高級品に高級品を加えるという最高の贅沢だったそうで。
また、17世紀後半から砂糖による健康への悪影響を論じる文献が広まったことも大きい様です。茶に砂糖を入れるのは、茶の薬効で砂糖の不健康な要素を打ち消す「健康的な砂糖の消費方法」とされたのです。
さて、ファンタジーなどにおいて茶はよく登場する一方で、コーヒーはほとんど見られません。
しかし、アジア生まれの茶よりもアフリカ生まれのコーヒーの方が、ヨーロッパにおける接触や普及は早かった事実があります。
エチオピアから端を発したと考えられているコーヒー豆を使用した飲料は、中世前期にはアラブ世界に持ち込まれ、これは「バンカム」と呼ばれていました。(アラビア語ではコーヒー豆のことを「バン」という)
そして早くも13世紀には、豆を焙煎したコーヒーの原型が誕生したそうです。(アラビアに広まる以前はイエメンがコーヒー豆利用の中心地だったらしいため、イエメンでの出来事か?)
その後、15世紀から中東各地に広がり、16世紀初頭にオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを征服した事をきっかけに、アナトリア地域(現トルコ)にも伝わりました。
アラビアでは「カフワ」と呼ばれていたコーヒーは、オスマン帝国において「カフヴェ」(または「カーヴェ」)と訛った呼び方になり、これらが「コーヒー」や「カフェ」という言葉の語源となります。
なお「カフワ」は“欲望を減退させる物”を指し、一般的にはワインを指す言葉でした。
そして恰もアルコールと同じ依存性があるように見える程、人々がコーヒーに夢中になった事で、コーヒーがイスラム法に抵触するのではないかという疑義が生じてしまいます。(「炭を食する事を禁じる教義に反するのでは」という主張も)
神秘主義者を中心に礼拝しながらコーヒーを飲み続ける人まで出たそうなので、そりゃ規制に動きますわな。
ただ、「礼拝中は祈りに集中しろや!」という理由でジャーミイ内で飲むことは禁じられたものの、コーヒーそのものに対する規制は、一時の弾圧を除いて厳しくはなかったようです。(後に「コーヒーの飲用は教義には反しない」という見解が出された)
こういったコーヒーの中毒性を疑う意見は、後にヨーロッパでも起こっており、コーヒーの有毒性を主張する意見と擁護する意見とが激しくぶつかったとか。
近世スウェーデンに至っては、囚人に毎日コーヒーを飲ませて、健康被害が起きないか調べる人体実験まで行われていました。(結果は、コーヒーに含まれるポリフェノールのおかげなのか、当時の平均寿命を上回る大往生)
コーヒーがヨーロッパに初めて渡ったのは、茶より少し早い16世紀後期~17世紀前半頃で、ヴェネツィア商人によってイタリアに持ち込まれたのが最初の様です。
非商業的にはこれより早く、オスマン帝国の使者がハンガリーに持ち込んだのが初めてだそうですが。
ヨーロッパ初の喫茶店も1632年にイタリアのリボルノで、或いは1640年頃のヴェネツィアで現れたとか。(なお中東の喫茶店は16世紀に出現している)
しかし、中東と同じくヨーロッパでもコーヒーに対する宗教的批判が早々に巻き起こりました。
イスラム教徒がワインを「悪魔の飲み物」と見なしたように、「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」というコーヒーに対する反対意見が現れたのです。
カトリック教会にまでその影響は届き、時の教皇クレメンス8世へ「悪魔の飲み物」であるコーヒーに関する見解を求められるほどの大事となったとか。
そこで教皇自らコーヒーを吟味し判断することになりましたが、クレメンス8世はその芳醇な香りに魅了され、コーヒーを祝福することで宗教的なコーヒー論争は長引くことなく終止符を打たれたそうです。
なお祝福する事で飲食しても問題無いとするのは、キリスト教ではよくあるらしく、現在でも正教会では、リンゴや蜂蜜などの初物に、聖職者が聖水を掛けたりして成聖(聖別)する儀式があるのだとか。(神と食べ物の繋がりを更新する意味合いがあるらしい)
コーヒーの栽培に関しても茶より早かったようで、1616年にオランダ商人がイエメンのモカからコーヒーノキを(非合法に)入手し、アムステルダムの植物園へ持ち帰ったのが始まりなんだそう。
1658年には植物園の温室で育てたコーヒーノキを、セイロン島 (スリランカ)に運び、コーヒー豆の本格栽培が開始されました。後にインド南部にまで栽培地を拡大させています。
しかし、供給過多による価格低下を避ける為、インドネシア方面での大規模単一栽培へ注力する代わりに、インド方面での栽培事業は断念せざるを得なかったとか。
コーヒーは18世紀に紅茶に取って代わられるまで、社交界を中心に大流行していましたが、紅茶と主役を交代した原因の一つが戦争でした。
イギリスでは“アメリカ独立戦争”(1775~1783年)の影響で、コーヒー豆が入手し辛くなった事が大きな要因だとされています。
なお、世界最大の紅茶消費国であるトルコも、元来コーヒー党でしたが、第一次世界大戦によってコーヒー豆の輸入が途絶した事により、代用品として紅茶に切り替えたのが紅茶消費増加のきっかけだとか。
戦争とコーヒーといえば、タンポポコーヒーなどの代用コーヒーも有名ですね。
ただ、18世紀プロイセン(北ドイツ)では、外貨流出を防ぐ施策として、高価な輸入品であるコーヒーの飲用を禁止されたことから、ドングリやオクラを使った代用コーヒーが発明されるという変わった事例もありますが。
ほとんど紅茶一色と言っても過言ではないファンタジー世界の喫茶文化。
コーヒーも忘れないでやって下さい。
「なんか紅茶の方がファンタジーっぽい」「コーヒーはファンタジーのイメージがない」というなら、東スラヴ圏の“スビテン”といったスパイス飲料や、中世から徐々に貴族的飲み物と見なされていった“蜂蜜酒”ならどうでしょうか。
喫茶文化自体、中世の代物ではない(中世は宴の世界)ですが、貴族や名士、その子息と令嬢がスパイス飲料や蜂蜜酒を片手に談笑する、史実寄り中世ファンタジーだってあってもいいじゃないですか。
自分で書けって? ……返す言葉もございません。
最後に余談ですが、ノンフィクション作家の高野氏と日本史学者の清水氏の対談をまとめた【世界の辺境とハードボイルド室町時代】には、興味深い話があります。
タバコの話題から茶やコーヒーに繋がるのですが、初めて茶を飲んだヨーロッパ人は、「幻覚を見た」というのです。
まず戦国時代の日本にタバコが渡来しているのですが、【当代記】という安土桃山時代から江戸初期の政治・社会状況を編纂した二次史料に、「タバコを吸い酩酊して死んでしまう人が続出して社会問題になっている」といった事が書かれているのだとか。
高野氏と清水氏は、どんな吸い方をしたらそんなことになるのかと互いに首を捻った後、茶やコーヒーで幻覚を見た海外の記録に話が映るのです。
『高野 ただ、あれなんですよね。お茶ももともとヨーロッパにはなくて、インドでお茶を飲む習慣を知ったイギリス人が本国に持ち帰ったじゃないですか。その時の記録が残っていて、お茶を初めて飲んだ人たちは幻覚を見たというんですよ。そんなこと、考えられないでしょ(笑)。でもまったく知らない刺激物に触れると、脳や体が激しく反応しちゃうっていうことはあるかもしれない。』(【世界の辺境とハードボイルド室町時代】177P)
またイスラームのスーフィーが徹夜で聖典を暗唱するなどの際、眠気覚ましのコーヒーを飲んで陶酔する、いわば「トランス」のような状態になっていたことにも言及されます。
『高野 ──前略──カフェインの効果が徹夜のハイとあいまって陶酔できるんじゃないかと言われていますよね。
清水 なるほど。しかし、お茶で幻覚を見るというのは、煮出して飲んだんですかね。それとも抹茶みたいに茶葉をゴリゴリ挽いたのをお湯で溶いていたのかな。
高野 煮出したんだと思いますけどね。
清水 それで幻覚を見ますか。
高野 見たらしいですよ。初めの頃は社会問題になって、お茶は薬物扱いで、禁止すべきだという議論もあったとか。
清水 ああ、確かに鎌倉時代には日本が渡ってときも、まず薬として受け入れられたんですよね。あとは、目が覚めるからというので、栄養ドリンクみたいなものとして飲まれるようになった。』(【世界の辺境とハードボイルド室町時代】178P)
中世風ファンタジーで、茶やコーヒーが初めて持ち込まれたら、カフェイン耐性の無い人々がキマってしまう……なんて描写も面白いかもしれませんね。