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中世の食事⑤【中世ヨーロッパの調理法とパン】 中世人「まな板?ねえよそんなもん」「パンに砂利が混じってる?石臼なんだから当たり前だろ」


 今回紹介するのは中世ヨーロッパにおける調理法とパンについて。


 まず、調理法に入る前の前提として、中世ヨーロッパの調理場に日本では必ず有るはず物が、一般的ではありませんでした。

 まな板です。


 日本人からすると、まな板も無しにどうやって食材を切るのかと思ってしまいますが、世界的には(むし)ろ、まな板を使わない所の方が多いぐらいだったり。


 というのも(はし)を使う文化圏では、調理の際に食材をあらかじめ一口大に切っておくのに対して、箸を使わない文化圏では、食事の際に自分で好きな大きさに切り分ける事が多かったからです。

 また、何でも鍋にぶち込んでスープにするという事も一般的でした。


 こういった事情から、中世ヨーロッパにまな板はほとんど無かったようです。

 使うにしても必要になってからその辺の板などを利用し、使い終わったら火に()べて薪の足しにしていたとか。


 では普段はどうやって調理していたかというと、鍋の上から食材をボトボトと切り落としていたそうです。まな板が普及している現代の欧米などでも、今なおこのやり方で調理する事は多いとか。


 実はこれ、大多数の日本人も見たことが有る筈な光景だったりします。

 スタジオジブリの大名作【天空の城ラピュタ】のワンシーン、ヒロインのシータが飛行船タイガーモス号の厨房で、ジャガイモを削ぐように切って鍋に落としていく調理シーンです。(「いい……」の直前のシーン)

 ああいう形が欧米での一般的な調理で、中世ヨーロッパでも同じでした。


 肉の場合は食事の際に個人で切り分ける事が多い為、塊での丸焼き、丸茹で、炙り焼き(ロースト)という風に、切り分けず塊のまま丸ごと調理する事が多かったようです。ただ、ステーキは中世末期頃になってからみたいですね。


 そして保存の観点から大半は塩漬けになっており、家畜が生きたまま購入され(さば)かれてすぐ調理される場合を除いて、塩抜き処理が必要でした。

 当時の塩の消費量は、塩が貴重であったにも関わらず、現在の2倍にもなったそうで。


 シチューやスープに関しては、料理としての前提が現代と全く異なっていました。


 現代では普通、料理はその食事の分を人数に合わせて食材を用意するものですが、中世では火に掛けたままの鍋に、その都度有り合わせの食材を継ぎ足していくやり方だったそうです。

 いちいち鍋を洗ったり、毎度火を起こすのも現代ほど容易ではなかったので、効率的には理に適ってはいます。


 また一般庶民は穀物粥がベースだったらしいので、鍋に放り込まれた食材が何であろうと、“雑炊”に近い状態が常だったかもしれません。


「今日のご飯はなーに?」「昨日と同じ麦粥よ、明日も、明後日も、来月も、来年も……」


 というのが農民を始めとする庶民の現実だったでしょう。


 それと常時火を絶やさぬよう、薪や(しば)(細木の枝)を毎日確保する必要があり、子供は大抵森などで枝集めをやらされていたそうです。

 (時には狩猟場や資源管理として立ち入り制限された領主の森にも入り込んで木枝を盗む事も。豚を肥えさせるべくドングリを求めて、または密猟のために侵入した際にも、子供は人が来ないかの見張りをやらされた。「村人を襲うゴブリンの正体は、領主の手先である森番(森林監督官)だったんだよ!」「な、なんだってー!」てのもアリかも)



 続いては今も昔も世界各地での主食になっているパンについて。


 パンやそれに類似した物は、(かゆ)と並んで古代から世界中の大部分で、既に基本的な食事となっていました。

 が、その多くは無発酵のパンだったり、保存の観点から日本のパンのようにふっくらしていない硬めの物ばかりだったようです。

 (現在でも欧米では硬め食感のパンが好まれる事が多い。フランス人はフランスパンの最も美味しい部分は硬い両端と考えており、断りも入れずにその端を取るのは失礼にあたるとか)


 そして、古くからパンは神聖な食べ物とされていました。

 ユダヤ教においては、かつて家長がパンを祝福してから席を共にする者達へ分ける食前の儀式があり、キリスト教の儀式的な会食である聖餐(せいさん)では、イエス・キリストの血とされるワインとキリストの肉とされるパンを食します。

 (ただし、正教会では発酵パンを使うのが一般的である一方、カトリックなどではウエハースに近い無発酵の薄焼きパンがほとんど)


『新約聖書の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)およびパウロ書簡は、イエスが晩餐の席でパンを取り、自分の体であると言って弟子たちに与えたこと、また杯を自分の血であると言って弟子たちに勧めたことを伝える』(【パンとワインが意味するもの—キリスト教の共食儀礼としての聖餐—】より)


 他にも酵母の働きが古代の時代に神秘的なものと捉えられた事も、パンが神聖視される要因だったそうです。そのため、パンは単なる食べ物ではなく儀式の道具でもありました。

 古代の農民は豊作を祈って大地にパンを捧げており、キリスト教にもその大地へ対する祈りは受け継がれて、パン=キリストの肉体という考えが補強されたようです。また耕作地は聖母マリアであり、神の霊を受けた耕作地より穀物が生まれるため、イエスは生命のパンであるという説教もあったとか。


 塩が魔除けになるとされたのは東西共通ですが、ヨーロッパではパンもまた魔除けの効果を持つとされました。


 スラヴ文化圏などでは「パンと塩」という来訪者への歓迎を表す習慣があります。

 これはパンの上に当時貴重だった塩を乗せて歓待するというものですが、一方で聖なる食べ物であるパンと魔除けとなる塩によって、来訪者が悪魔でないか確認する意味もあったとか。

 例えて言うなら、吸血鬼と疑わしき人物にニンニクを振る舞おうとする感じでしょうかね?


 他にもパンの外側の硬い皮は最も魔除け効果が高いとされ、「パンの硬い皮を好んで食べる人には幸運を約束される」なんて言い伝えもあったそうです。

 また魔女はパンを恐れており、魔女の宴にパンが登場することはなく、特に(かま)で最初に焼かれた十字を刻んだパンには決して近付かないとされました。(ドイツでは「Kreuzbrot」というパン)

 なお最初に焼かれる十字パンは、次回(大抵ひと月後)窯へ火を入れる直前、つまり最後に食べるべきパンとされました。魔除けのお守りとして、最後まで取っておくという事でしょう。


 保存や魔除けという点から硬く焼き締められていたパンですが、やはりというべきか、やわらかくして食べる方法も考えられています。どうせなら美味しく食べたい欲求は中世でも変わらないようですね。


 中世(後期頃?)では、牛乳や卵に浸してやわらかくする方法が主で、これはフランス語では「パン・ペルデュ」(失われたパンの意)と呼ばれました。“失われた”つまり硬くなってしまったパンが生き返る(やわらかくなる)ことからそう呼ばれたとか。

 他にも「黄金のスープ」「黄金のトースト」という名前もありました。ちなみにパンなのに“スープ”という呼び方なのは“suppare(浸す)”製法によるとか。


 14世紀のドイツでは「アルメ・リッター」英語では「プア・ナイト」つまり“貧乏騎士”という呼び名も北ヨーロッパ各地で存在し、北欧にはこれにクリームを加えたアレンジ「金持ち騎士」という物もあるそうです。

 ただ寒冷な北欧では小麦の生育が悪く、パンは他の地域より長く高級な位置付けでした。(有ってもライ麦などが中心)

 平野部が少なかったり、特に寒さが厳しくて大規模農業ができなかったノルウェーやアイスランドでは、ヴァイキング時代の農民はパンの代わりに干物へバターを塗って食べてたとか。(名士クラスだと香草も加えて調理したりムニエル風にしていたが、やはりパンは目立たなかった模様)


 本項で何度かパンの保存性について触れていますが、古来より保存性を高める方法としては二度焼きがよく採られました。二度焼きのパンは特に軍用食(レーション)として利用されています。

 二度焼きされたパンはカチカチに硬いらしく、スープに浸す以外に(あぶ)ると柔らかくなったそうです。


 ビザンツ(東ローマ)帝国にも「パキシマディオン」というラスクに近い二度焼きパンがありました。

 が、二度焼くという事は通常の二倍薪が必要になる、つまりコストが二倍になってしまう欠点があり、時折その皺寄(しわよ)せが兵士に襲い掛かっています。


 帝国の最盛期を築いたユスティニアヌス帝の治世に行われた、北アフリカ遠征(ヴァンダル戦争。533~534年)において、北アフリカを目指す500隻の船団(陸兵は1万5000)は途中風が弱まったことで停滞を余儀なくされ、その間に糧食のパンがカビて赤痢を誘発。戦わずして500名の命が失われてしまいました。

 その原因を歴史家プロコピオス(遠征指揮官ベリサリウスの顧問として同行)は、予算不足を理由にした文官の独断によるコスト削減として、二度焼きではなく一度焼きで済ませてしまったことだと記しています。


 当時ヨーロッパで最も富んでいた帝国でも、大量の二度焼きパンを用意するのは難しかったという事実を見るに、薪によるコスト増は結構な負担だったのでしょう。そりゃパン以上に薪を消費する鉄も中世では高級品になりますわ。


 軍用となると薪のコスト以外にも、炊事の煙で軍の位置や兵力を気取られてしまうという点も気になるところでした。旧日本軍でも米を炊く際の煙が原因で奇襲を受けた事もあったとか。

 そういった事情からか余熱を利用して大量にパンを焼く製法もありました。


『北方民族文化誌、パンの作り方で一番好きなやつ「行軍してる時の兵のために大量のパンを野外で焼く方法」というやつで、「まずは地面を綺麗にしてそこで火を焚く!火をさっとどけてパン生地を広げ余熱で焼く!火をまた移動させてどんどん焼く!以上だ!!」ってやつです』(Twitterからの引用)


 ※北方民族文化誌(著者は16世紀のスウェーデン人オラウス・マグヌス。古代や中世の記録などを元に北欧の歴史や文化習俗を編纂した書物)



 最後に本項タイトルにある石臼で締めたいと思いますが、中世における石臼には領主と農民の対立が深く絡んでいました。


 石臼は古代から現代に至るまで使用されていますが、中世の石臼はほとんど研磨などされておらず、挽かれた小麦粉に微量の砂利が混じるのはよくある事でした。

 これにより専門家は頭蓋骨の歯を見るだけで、遺骨の人物が近代以前に生きていたかどうか分かります。砂利混じりのパンを長年食べていた人は、歯が擦り減って細くなっているからです。


 そして中世ヨーロッパにおいて、パンなどを作るため穀物を挽く“製粉”は、領主と農民の対立の種でした。


『領主の権利の一つに、最も忌み嫌われた「禁令 (バン)」があった――自由民でない小作農に、領主の製粉所で粉を挽いてもらうことを義務づける法令だ。「粉挽き料 (マルチャー)」を支払ってである。料率は持ち込んだ穀物か挽いた粉の一三分の一が一般的だった。』(【大聖堂・製鉄・水車】156P)


 【中世ヨーロッパの食卓】でも少し触れたように、製粉の際には挽いてもらう穀物の一部が税として取られており、製粉を営む水車番(領主から任命された役人でもある)はその料金とは別に穀物の一部を横領していると人々から常に疑われ、嫌われています。

 また製粉所で列を作って順番待ちをしなければならないことも、農民にとっては我慢ならないことだったようです。(やらなきゃいけない作業があるのに、待たされて時間を無駄にされるのはムカつくという気持ちは、まあ理解できる)

 そして領主は“税収”を上げるために、手回し臼の所有を禁じる、つまり製粉所を強制的に利用させようと個人での製粉を禁止する事もしばしばでした。


 こういったことから、『こっそり違法な挽き臼を動かす人も多かったが、粥をすする昔の暮らしに戻った人も多い』とか。


 一方で自由民は、領主の粉挽き水車を使う義務が無いどころか、製粉待ちの“順番飛ばし”が出来る特権があり、利用料金も『穀物の二四分の一』という割安なものでした。(というかこの値段が適正だったらしい。領主がめついなぁ)

 おまけに穀物を粉にしても、パンを焼くためには、またパン職人(水車番と同じく領主に属する役人であることが多い)にその粉の一部を代金として渡さねばなりませんでした。(こちらも当然横領を疑われたし、実際に量の誤魔化しはよくあった)

 農民個人で(かまど)を持つのは難しく、薪も安くはないので(薪も料金として持参しなければならない場合も)ほとんどの場合は、領主に雇われたパン職人に嫌々支払わざるを得なかったようです。そりゃパンを諦めて粥を常食にもしますわ……。


 また、こういった手数料という形をとった税は、油やブドウを(しぼ)圧搾(あっさく)や製鉄などにまで押し広げられ、当然度々農民から抗議の声が上がりましたが、領主の方はお構いなしだったようです。


 しかし、自由民ではない農民達もやられっぱなしではなく、時として実力行使に出ました。


『たとえば、自由権を得ようとしたセント・オールバンズの住民が、公然と手回し臼で粉を挽き、領主である修道院長に挑んだ事件がある。反乱は鎮圧された。修道院は農民の挽き臼を押収し、勝利の証として広間の床材に混ぜ込んだ。五〇年後の一三八一年の反乱のとき、セント・オールバンズの住民は修道院の床を掘り起こし、連帯のしるしとして――修道院の年代記編者トーマス・ウォルシンガムによれば、まるで聖餐式に臨むように――挽き臼の破片を分け合った。』(【大聖堂・製鉄・水車】157P)


 このように、水車や風車など領主の石臼は抑圧の、農民の石臼は抵抗の象徴でもあったのです。


 そして中には領主の水車に対抗して、自分達で水車小屋を所有したり、挙句には“収益”を上げて領主側水車と競合することもあったとか。(近年の研究によって、農奴さえ水車小屋を持っていた事例も判明している)


 石臼一つとっても、そこに利権が存在する以上、激しい利害の対決が起きていたのです。

 普段食べている物にまでそんな争いが隠れていたとは、人間は何と業が深い事か……。利権って怖いわー。


主な参考資料


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース

【図解 中世の生活】池上正太


Wikipedia


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