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中世の食事③【中世の香辛料 前編】コショウは一概に高級品とは言えなかったし、そもそも香辛料=コショウではない


 香辛料(スパイス)。現代においても、数多くの料理の基本要素にまでなっている欠かせない存在。

 当然、中世ヨーロッパ世界でも重宝され、それどころか現代以上に重視されていたのは、広く知られているでしょう。


 一方で、その価値や扱いなどといった“情報の中身”については、誤解に(まみ)れています。

 本項の題名はそれを踏まえての事です。


 まずは香辛料(スパイス)といえば、胡椒(コショウ)

 「大航海時代、人々は(こぞ)ってコショウを求めてインドを目指した」とか「コショウは同じ重さの金銀と交換された」などといった事が、かつて教科書などにも載っていました。


 が、実際の所これらはまるっきりの誤りです。


 確かにコショウの需要は高く、古代から常に求められていましたが、需要に対しては当然供給が為されるもの。

 コショウの輸入は古代の時点から途切れる事なく行われており、輸入量も年々増えていました。


 そして、流通する量が増えればその分、価値が下がっていくのは当たり前の事。


 紀元前からの途方もない期間、東南アジアやインドから中東へ、中東からヨーロッパへと、コショウが流入し続けていくうちに、中世の頃にはその価値が随分と押し下げられていたそうです。


『《胡椒》は、知られるように、「大航海時代」の結果、東インド諸島から大量にヨーロッパに荷揚げされるようになったが、それ以前にもかなりの量がでまわっていたらしい。とくにヴェネチア経由で大量にはいってきて広範に広がり、もっとも安価な香辛料のひとつであったことは、世界史の常識に反するが、事実である。』(【ヨーロッパ中世における食物のイメージ】より)


 そもそも、古代の時点で「同じ重さの黄金と交換される」ほど高価ではありませんでした。


 古代ローマの博物学者にして政治家プリニウスが著した【博物誌】には、『ナガコショウは1ポンドが15デナリウス、白コショウは7デナリウス、黒コショウは4デナリウスで売られている。』という記述があるそうです。

 なお“デナリウス”とは古代ローマの銀貨のことです。(後にフランスの“ドゥニエ”や中東の“ディナール”など、各地の貨幣名の語源となった)


 そして、当時の農場労働者の1日の賃金は約1デナリウスだったとか。

 “デナリウス”のWikipedia記事によれば、ローマ本国たるイタリアでの『大人が1日に消費する食費等は2アス(8分の1デナリウス)』だったそうなので、1ヵ月強の食費で1ポンド(約454g)の黒コショウを買えることになります。(“アス”は青銅貨。1日の食費2アスは、パンのみの食事を想定している模様)


 1デナリウス=16アスで単純計算すると、1アスで約28gの黒コショウが、1日の食費で約57gの黒コショウを手に入れられることになりますね。


 また、紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火で滅んだことで有名な古代都市ポンペイの遺跡には、『このカウンターではワインが1アスで飲める。もっといいものなら2アス。4アス出すとファレルヌス産のワインが飲める。』という居酒屋に書かれた落書きが残っているとか。

 (なお、【博物誌】著者プリニウスはポンペイを滅ぼした噴火の影響で没している)


 プリニウスの時代におけるコショウは、ワインより大分高いものの、庶民でもなんとか手が届くものだったようです。

 まあプリニウス曰く、その値段は原価の100倍だったそうですが、輸送距離に加えて需要の高さに供給が追い付かないならそうなりますわな。ローマがエジプトを征服して以降、アラビア海経由の海路による輸入が増大したのでこれでも安価になってますが。


 その後、ローマ帝国が衰退するに連れ、香辛料の輸入も衰えてしまいます。


『ローマ帝国の最盛期には四五〇グラムの黄金で約一三五キログラムのコショウが買えたのに対し、四世紀初頭にはわずか四〇キログラムしか買えなかった。』(【交易の世界史 上】209P)


 更に中世になるとイスラーム勢力による中東支配によって、アジアからヨーロッパへ入る香辛料に関税が掛けられてしまい、ヨーロッパにおける香辛料の値段は、人々にとって高価にならざるを得なくなりました。

 が、流通する量そのものは全体的に増加を続け、寧ろローマ時代よりも広い範囲で人々がコショウを口にすることが可能になったそうです。

 相対的に値段が上がったのも需要が更に拡大、つまり以前より多くの人が買い求めるようになったのも大きかったとか。


 ここまでの解説で既にお分かりでしょうが、「コショウは同じ重さの黄金と交換された」というかつての教科書的認識は全くの誤りであることを更に強調させて頂きます。


 カリフォルニア大学デービス校の名誉講師ケビン・ロディ氏が公開した中世の物価リスト※には、香辛料の値段もあるのですが……。


(※ただし、あくまで当時の記録にある物価をまとめたものに過ぎず、当時の人々がその価格であらゆる物の取引をしていたというわけではないと、ケビン氏は注意喚起している。同年代でも情勢などによる変動も大きいため、中世の経済感覚を現代的に変換するのは容易ではない)


 スパイス(シナモン、グローブ、メイス、コショウ、砂糖など):1ポンド当たり1~3シリング

 コショウ:1ポンド当たり4シリング(13世紀中頃)

 コショウ:1ポンド当たり12ペンス(1279、1280年)


 比較として酒の値段を加えると以下の通り。なお1シリング=12ペンス。


 安価なワイン:1ガロン当たり3~4ペンス(13世紀後期)

 最高のワイン:1ガロン当たり8~10ペンス(13世紀後期)

 一流エール:1ガロン当たり1~1.25ペンス(1320~1420年)

 二流エール:1ガロン当たり0.75~1ペンス(1320~1420年)


 プリニウスの時代と同じく、中世盛期から後期においてもコショウの値段は、ワインより高いけれど庶民の手には決して届かない程に高額とは言えなさそうです。(13世紀中頃から後期の数十年の間に、価格が4分の1にまで下落してることにも注目)


 貨幣史に関するサイト(参考記述の出典は【中世ヨーロッパ都市の生活】)によると、1250年頃のフランス北部の町トロワでは『胡椒 1オンス(30g)あたり4ドゥニエ』で取引されていたらしく、更にドゥニエ銀貨の重さと当時の金に対する銀の価値から『金1g=胡椒72g、銀1g=胡椒6g』になると紹介しています。


 『とくに珍重されたこしょうは、当時同じ銀と交換されたともいわれる。』(【明解世界史図説 エスカリエ 四改訂版】121P)といった、かつての教科書、教材で言われていた“一般認識”と完全に異なりますね、はい。


 以上のように、コショウの価値はそう高いものでもありませんでした。

 では何故「コショウは同重量の金銀と同じ価値があった」という誤った情報が一般的になってしまったかというと、後世の誤解や歪曲が原因みたいです。


 先に紹介したプリニウスの【博物誌】のコショウに関する記述には『それらは金や銀のように目方で買われているのだ。』(サイト【胡椒の値段】より)という文があります。


『コショウもショウガも現地では自生しているというのに、金や銀と同じような目方で売買されているのだ。』(【交易の世界史 上】77P)


 これがどうも「金や銀と同じように目方で買われている」がいつしか「金銀と同じように高価」「金銀と同価値」という風にすり替わってしまったらしいのです。


 そしてその歪められた情報が碌に検証されないまま教科書に採用されてしまい、世間に流布されたのでしょう。

 最近の教科書や世界史学習の資料では修正されてるんですかね? そうであって欲しいものです……。


 とはいっても、古代や中世ヨーロッパの人々がコショウに熱を入れ上げていたのは事実でした。

 また香辛料の値段が原価より遥かに吊り上がった背景には、輸送コストや関税だけでなく、商人達による戦略もありました。「遥か東方から運ばれる香辛料(スパイス)」に神秘性を加えて、付加価値を増大させたのです。


『当時香辛料を輸入していたヴェネティアの人々は、胡椒を「天国の種子」と呼んでいた。こう呼ぶことで、胡椒の価値をいやがうえにも高めていたのである。』(【ヨーロッパ中世における食物のイメージ】)


 しかし一方で、余りにもコショウが貴賤(きせん)に関わらず多くの人が夢中になった事や、流通量の増加で価格が抑えられていく内に、コショウのイメージが低下し始めてもいたみたいです。


『アルノー・ド・ヴィルヌーヴ作とされる『レギメン・サニタティス』には、「胡椒は農夫のソースであり、かれらは胡椒を下品な豆類と混ぜて食っている」と記載し、富者の上品なソースと対比させて述べている』(【ヨーロッパ中世における食物のイメージ】)


 ただ、コショウと一口に言っても、庶民的と見なされたのは黒コショウで、白コショウはその上位として扱われ、そして貴族は長コショウを好んでいました。


 長コショウは“ヒハツ”の別名でコショウの仲間。刺激的な辛味が特徴な香辛料です。(中世ヨーロッパ貴族の間では強い辛味や酸味が度々流行していた。イングランドでは吐き気がする程の甘味も流行した)

 古代や中世の人々は“ヒハツ”を早摘された未成熟のコショウだと思っていましたが、現実には完全なる別種です。

 元々ヨーロッパでは「コショウ」というと、この“長コショウ”を指していましたが、12世紀からより安価な黒コショウと競合するようになり、やがては黒コショウが一般的なコショウに置き換わって、長コショウは高級なコショウとされたようです。



 ここまでコショウについて説明しましたが、中世の人々を熱狂させた香辛料(スパイス)は、コショウだけではありません。

 (むし)ろヨーロッパ人がインドや東南アジアを目指して海に出た目的の大部分は、“コショウ以外の”香辛料でした。(ただし、香辛料貿易だけが大航海時代の幕を開けた理由とは言えないことに注意が必要)


 コショウ以上に珍重され富裕層に持て囃されたアジア産の香辛料(スパイス)は、桂皮(シナモン)丁子(クローブ)、ナツメグ、メースです。(ナツメグとメースは同じニクズクの種子から作られる)


 中世の時代において丁子(クローブ)、ナツメグ、メースの三つは“スパイス諸島”(インドネシアのモルッカ諸島)でのみ産出した貴重な物。その希少性から最高級の香辛料とされました。

 シナモンはこれらの香辛料とコショウの間に位置する物で、産地は概ねコショウと重複しています。


 しかし、香辛料の中でも安価であったコショウに対し、シナモンの価値はかなり高いものでした。


『シナモンはローマ帝国最盛期にはじめて首都のローマにお目見えし、調味料や芳香薬として最高の贅沢品となった。シナモンは四五〇キログラムあたり一五〇〇デナリウスもし、ほぼ同じ重さの黄金との値段と等しかった。それほど裕福でない人びとは、四分の一の価格で比較的手に入れやすかったシナモン・オイルで我慢した。』(【交易の世界史 上】208P)


 その理由については、後編でスパイス諸島の3香辛料と共に説明します。


 後、【交易の世界史 上】208Pの記述を見るに、コショウが「同重量の金銀と交換された」と後世に誤解された要因には、シナモンとの混同もあるのかもしれませんね。



 最後に、後編に移る前のおまけとして、“砂糖”について少し。


 実は砂糖もかつては“香辛料(スパイス)”の一つとされ、常にコショウよりも高値で取引されていたそうです。

 砂糖の一大産地であったエジプトがすぐ近くにあるヨーロッパにとって、コショウより産地がずっと身近だったにも関わらず、需要の高さ(当然ながら消費者はヨーロッパだけではない)から、高額なままでした。


 そしてヨーロッパを砂糖輸出の得意先とした中世エジプトには、国営、民営問わず大規模な製糖工場が複数存在しており、それらの収益が奴隷軍人(マムルーク)軍団を整備維持する資金源になっていたそうです。

 エジプト以外の中東の国々でも砂糖産業は巨大なものでしたが、その辺りはいつか別項で書きたいですね。


 なお、15世紀にポルトガルによってマデイラ諸島での砂糖栽培、つまりヨーロッパ勢力による砂糖の生産が行われましたが、その程度では価格に大した変動はなかったようです。

 17世紀以降に各国植民地での大規模単一栽培(プランテーション)を経て、ようやく国際価格が下がり始めたものの、その分また菓子やジャム、ジュースなどといった形で新たな需要が生まれた為、利益は依然として莫大だったとか。


 しかし、その砂糖栽培には多くの黒人奴隷が投入されていた事実を無視する訳にはいかないでしょう。

 製糖工場で稼働する搾汁(さくじゅう)機の歯車やレバーなどの技術発展が産業革命の要因の一つとなった、つまり人類の発展に植民地での砂糖栽培が大きく寄与していたとはいえ、「良かった」などとは手放しに言えません。


 あの白く甘い砂糖には、かつて真っ黒な歴史が存在していたのです。

 そしてそれは、香辛料にも言えることでした……。


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