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現実の騎士の姿 番外編②【騎士学校は実在したのか?】史実とファンタジーの軍事教育について


 騎士団に続いて今回解説するのは、ファンタジーでお馴染みの騎士学校について。

 番外編としたのは、思ったより騎士に関する記述が少なくなってしまったためです。



 まずいきなりですが、はっきり言ってファンタジーに登場するような「騎士を養成する学校」は歴史上に実在しません。


 中世も過ぎた1572年のスペインに“王立ロンダ騎士養成学校”といういかにもな学校が設立されていますが、教育内容は貴族子弟に馬術や乗馬武術などを教える程度。

 「騎士」と銘打ってはいるものの、結局ただの騎兵育成でした。(おそらく騎士と(うた)った方が格好良いからだと思われる。現代米軍に「騎兵」を名乗る部隊が残っている様に)


 そもそも中世の騎士や貴族の子息らは、自分より上位の家に従者として迎え入れてもらい、そこで実践的に武術や礼節を学ぶのが普通で、学校には行きません。(勉学は武芸習熟の邪魔になると考える者も少なくなかった)

 漫画【騎士譚は城壁の中に花ひらく】で、そういった騎士見習いの生活を良く描かれています。(一巻時点では主人公はまだ雑用しかできない小姓(ペイジ)。二巻の最後で従騎士(スクワイア)になっている)


 しかし、ファンタジーの「騎士学校」に似たようなものは歴史上にもいくつかありました。


 最も分かりやすいのは“士官学校”でしょう。

 事実、士官学校をモデルに「騎士学校」を描いたと思われる作品は散見されます。


 近代にヨーロッパ各国で設立された士官学校は、“士官”つまり指揮官クラスの軍人を養成する学校です。

 戦場が完全に銃と大砲に支配されると、それまでに比べて軍の官僚化が進み、軍事の専門性もどんどん高まりました。(ビザンツ(東ローマ)帝国を除いて中世ヨーロッパに軍を管理する官僚組織は存在しておらず、軍務大臣のような存在もいなかったが、常備軍の発展に伴い文民統制が始まった)


 剣や槍、弓などが主流であった時代は、極端に言えば兵を突っ込ませるだけでも済む比較的簡単なもので、指揮官に求められるのは、精々その時その時の対応力や機転ぐらいに過ぎません。


 ところが、前装式銃(マスケット)など銃火器が主流になると常備軍による軍隊の大規模化も相まって、戦場の複雑さが増大。

 中世において重視されるどころか認識すら怪しかった“規律”という概念も、近世以降には必須要素と化し、専門的に訓練された人間でなくては兵士すら務まらない状態に。


 更に軍の規模拡大に加えて“火薬”という新たな軍事物資が大量に必要となり、補給を始めとする「兵站(へいたん)」の負担と重要性も増していきました。


 こうなると「兵を纏め上げて、敵に突っ込む」戦士型の指揮官だけではどうにもならなくなります。


 事務仕事は膨大になり、大部分は軍本部にいる軍官僚の仕事とはいえ、現場で軍を率いる者達も書類を扱わなくてはなりません。

 そうなると読み書きできない文盲は論外。計算もある程度はできなくては話にならなくなってしまいます。

 (なお中世全体を通して、読み書きできない貴族は結構いた。有名人としてはローマ留学の経験があるアルフレッド大王や、ハプスブルク家始祖ルドルフ1世も文盲だった)


 中世なら補給や兵への給料といった事務仕事は、書記官や主計官などに丸投げできましたが、略奪で補給をなんとかできた時代と違い、大軍を維持し行動させるために、司令官や指揮官は自ら後方からの補給調整や、作戦行動と補給計画の整合性などを考慮しなければなりませんでした。


 さもなければ軍隊は飢えて戦うことなく壊滅してしまいますし、食料と違って村や町を略奪してもほぼ獲得できない物資である“火薬”が欠乏(けつぼう)すれば、銃はただの棍棒、大砲は置物と化して最早軍隊ですらなくなってしまいます。


 後に「兵站幕僚」「需品係」といった補給専門の「参謀(スタッフ)」(戦国日本でいう「小荷駄奉行」)が、事務仕事の大部分から将軍達を解放してくれましたが、どちらにしろ士官以上の軍人には一定以上の教養が絶対的に必要となったのです。

 (おまけに、常備軍整備に伴う外国人傭兵の大増加で、指揮官には多言語習得や外交的立ち回りさえ求められる事もあった)


『ほとんどの国で、軍の司令部は支配階級の人間が占めている。これは、社会の存続に対し利害関係を有する者のみが適切に国家を防衛できるという、まこと思慮深い考えに基づいている。だが、軍事の問題は複雑であり、いかに良い縁故があろうとも「ジェントルマンの素人」では十分ではないという反論もある』(PCゲーム【Empire total war】軍学校の解説文より)


 専門性が高まる軍事の中でも、特に砲兵や土木工兵に関しては数学的知識や技術的知見などが必須であり、決して「育ちの良さ」だけでは務まりませんでした。

 また陸軍将校は将校任命辞令を()()してその職(つまり階級)に就くことが可能でしたが、年功序列と実績に基づく健全な昇進が約束されていたのは砲兵将校だけです。


 砲兵及び工兵はその道の専門家でなくてはならないという事情からか、砲兵と工兵、それらの将校を育成する教育機関は意外にもかなり早くから存在したようです。


『歴史的に見ると、多くの砲兵隊と砲術学校は国家軍よりも長い歴史を持ち、その起源は兵器部門または砲術の専門家が王室の一部に所属する時代にさかのぼる』(【Empire total war】砲術学校)


『土木工兵や地雷工兵には、砲兵隊の専門家と同様に長い歴史があり、中世からルネサンス期にかけての王室軍においては終身勤務であった』(【Empire total war】技術者養成学校)


 イギリス最古の陸軍士官学校も当初は、兵器(しょう)(軍の工場、武器庫のこと)の一部を間借りする形で置かれた、砲兵や工兵の育成機関から始まり、規模が大きくなって専用の校舎が建てられても、歩兵や騎兵の士官教育は結構後になってから行われるようになったそうです。


 砲兵、工兵以外の士官教育が遅れた理由には、『英国人は生来、陸軍を暴君の道具とみなして信頼しなかった』(【Empire total war】陸軍参謀本部)結果、専門性を高めようという気運が中々持ち上がらなかったからだとか。

 (近衛騎兵隊も一般の人々からすれば憧れの存在どころか「民衆弾圧の代名詞」だったらしい。少し時代が後ろにズレるが“ピータールーの虐殺”とかモロにそう)


 一方の近世フランスでは、王室の厩舎(きゅうしゃ)で王子や貴族子弟に軍事教育を行っていましたが、ルイ15世の王命により、貧しい生まれでも優秀な士官候補生を教育する目的で、1751年に“軍士官学校(エコール・ミリテール)”を設立。

 これは当時画期的な教育機関でした。

 しかし、その後の再編で「若き紳士のための学校」となり、当初の意図から大きく外れてしまったそうです。


 これはファンタジーによく登場する「貴族学校」と言えるかもしれません。

 軍学校から次第に軍事色が薄れて、ただ上流階級の礼節と教養を学ぶだけの学校と化した……といった設定があれば、貴族の学校に魔法や剣術の授業があることへ説得力を与えられそうです。


 某ちょび髭男「将軍とは名ばかり! 士官学校で習ったのはナイフとフォークの使い方だけだ!」


 ……さて海軍の方はどうだったのかというと、航海技術など技能的な要素が多いため陸軍より実力主義が強かったものの、所詮は『穏やかな実力主義』でしかなく、やはり家格がモノをいうことに変わりはありませんでした。

 国に所属する正規の海軍がほとんど存在しなかった中世では、名家生まれの提督も少なくなかったものの、それでも実力が優先されていました。(例:アンドレア・ドーリア)

 が、近世(16〜18世紀)になると逆に家柄や政治事情が実力より優先されるようになってしまいます。


 漫画【ダンピアのおいしい冒険】でも、イギリス海軍のエドワード・スプラッグ提督(日本語wikiはないが、元奴隷の水夫から経歴をスタートさせ艦隊司令にまで成り上がった凄い人)が、『ろくすっぽ海を知らねえ紳士の方が王立海軍の指揮官にゃ相応しい…そう思われてんのさ』と吐露しています。


 スプラッグ提督の宿敵であるオランダ海軍でも、政府内の派閥の都合で海軍の人事や方策が成されるというどうしようもない負の面がありました。(17世紀当時、イギリスとオランダは世界でも指折りの海軍国。それでもこの有様だった)


 18世紀(江戸時代後期)になってようやくほぼ全ての海軍が、“素人のジェントルマン”ではない海軍将校が必要だと認識し、海軍学校が設立されていきます。


『育ちの良さ以外に取り柄がない人物であっても、陸軍を指揮する際には優れた仕事をする可能性はあるが、船の船長の場合は自らの仕事に精通していなければ、そのキャリアは必ずや暗礁に乗り上げるだろう。「穏やかな実力主義」により運営されていた当時の優れた海軍では、威光と縁故が相変わらず重要であったが、能力と訓練と人柄はさらに重要視された』(【Empire total war】海軍大学校)


 ですが、必要な知識や教養を学校で学べても、結局技術的な部分は実際に軍艦へ乗り込んで、実地で経験しなければなりませんでした。(19世紀以降は「練習艦」で実践技術を学べるようになる)



 以上を踏まえてファンタジーの「騎士学校」を考えてみますと、銃や大砲を“魔法”に置き換えれば、士官学校を「騎士学校」とすることはできるでしょう。


 “魔法”(魔術)という技術は、専門性や属人性(個人差)が高い傾向があり、軍事にも直結するとなれば、国家が教育と人材の囲い込みを図るのは当然と言えます。

 無論、国家による統制が前提なので、中央集権を果たせていない中世封建国家の場合は実現できず、親類や師弟などによる個人レベルの教育に留まるでしょうが。(それはそれで、よりファンタジーらしい気がする)


 ただ、「魔法や魔術を教育する学校」があっても、騎兵として育成されるならともかく、大多数の生徒へ剣術を始めとする武術は教えられる事はほとんどないか、有っても大して重視されていないと考えられます。

 というのも、“銃火器”に代わって“魔法”が存在するのなら、戦場を支配しているのは刃を交える白兵戦ではなく、隊列を揃えて撃ち合う火力戦となる筈だからです。(世界によっては史実近代に匹敵、凌駕(りょうが)するものになるかも。手榴弾~砲弾レベルの遠距離攻撃をバカスカ撃つ歩兵とか恐ろしすぎる)


 場合によっては剣を交える乱戦も十分あり得るでしょうが、それでも遠距離から砲弾の代わりに飛んでくる強力な魔法や、銃の役割を担う中距離魔法によって、騎兵であっても援護無しの正面突撃は愚策と化すに違いありません。歩兵なら尚更(なおさら)でしょう。

 たとえ身体能力を魔法で強化し弾幕を強引に突破できたとしても、それが可能な人間は多くないと予想されます。

 いくら強力でも、少数の寡兵(かへい)に過ぎなければ、戦局に大きな影響を及ぼすには至らないでしょう。


 そういった戦場を反映して、教育内容も如何(いか)に魔法の威力や精度、連射力を向上させるかといったものになり、武術は最低限しか扱われないと思われます。


 魔法による身体強化を行った魔法戦士が、近現代における“戦車”に相当するレベルなら、機甲部隊の様に集中運用して戦線の突破を図る戦術が生まれるなど、また話は違ってくるかもしれませんが。

 逆に、魔法の行使に大きな制限があったり素養を持つ人間がかなり限定的であるなど、制約が大きければ、魔法は史実における“火縄銃”や“大砲”相当となって、武術教育の意義は相対的に増加するかもしれません。



 ここで一旦「士官学校」という“近代”の代物から視線を外してみましょう。

 中世やまだ中世の香りが残る近世初期、日本の戦国時代同様、火薬に押されながらも未だ剣や槍が主役顔をしていた時代においてはどうだったのか?


 学校というとつい、校舎があってその中に教室があって……と近代、現代的想像をしてしまいますが、中世の学校は日本の寺子屋のような私塾に近い形態が珍しくありませんでした。

 中世の大学も元々は高名な学者の家に学問を志す若者が集まったものだったのです。(これとは別に、修道院付属学校などは現代人が想起する学校に近い)


  ヨーロッパにおける軍学校は“軍事革命”で知られるオラニエ公マウリッツが行った、貴族将校への教育が始まりとされており、それ以前は軍事的教育となると、体系的なものは期待できなかったでしょう。


 「ガッタメラータ(ぶち猫)」(老獪という意味合い)の渾名(あだな)で知られる傭兵隊長(コンドッティエーレ)“エラズモ・ダ・ナルニ”(1370~1443年)の日本語Wikipedia記事には、『1370年にイタリアのナルニにパン屋の息子として生まれる。軍人学校を卒業した後~』とありますが、どうも実際には“軍人学校”などというものには在籍していなかったようです。(学校自体、存在もしていなかったでしょう)

 イタリア語や英語のwiki記事(機械翻訳)を見るに、アッシジ領主のチェッコロ・ブログリアの軍に入って先輩から学んだり経験を積んだりしたのが実態でしょうか。


 彼がチェッコロの次に仰いだ上司ブラッチョ・ダ・モントーネなど、他の傭兵隊長(コンドッティエーレ)も、傭兵団で訓練を受けたり実戦経験を積んで、武芸や戦術を身に着けていったようです。


 しかし、整備された軍事教育が全くなかったわけでもないみたいです。


 【中世ヨーロッパの騎士】304Pでは『サー・ハンフリー・ギルバート(一五三七年頃-一五八三年)が「貴族とジェントルマンの若者」を訓練する目的でロンドンのさる学校(アカデミー)のために構想した計画に記されていた騎士教育の内容』に触れており、『ラテン語と文学、哲学、法学、現代史、演説、紋章学、そして宮廷の儀礼を習得すべきとされた』とあります。


 「まさにファンタジーのような騎士学校じゃないか」と思ってしまいそうになりますが、残念ながら騎士学校とは言えそうにありません。

 確かに兵法は必修とされたそうですが、『学ぶべきは槍や剣の技ではなく、数学、工学、弾道学、そして軍事理論だった』のですから。


 本エッセイの複数の項目でも説明したように、板金鎧(プレートアーマー)が一般的になった15世紀は既に騎士が大分衰退しており、上記のハンフリー・ギルバートの生きた16世紀(1500年代)つまり“中世”という時代が過ぎた後にはもう、戦場に剣や槍を持つ「騎士」の居場所はなく、火器に精通した「軍人」だけが求められるようになりました。


 わざわざ時代に置き去りにされてしまった存在を育成しようなどとは、誰も思わなかったのです。




 最後に、ファンタジーにおける騎士学校にかなり近い、実在した学校を紹介して終わります。

 散々「ファンタジーに登場するような騎士学校は史実にはありません」と書きましたが、「騎士」に拘らなければ実は“中世”にもあります。


 “エンデルーン学校”です。


 コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国のメフメト2世(1432〜1481年)によって設立されたこの学校は、官僚や軍人(イェニチェリ)などを育成するためのものでした。

 元々メフメト2世の父ムラト2世が“宮殿学校”という、強制徴用(デヴシルメ)によって集められた有望なキリスト教徒の若者をイスラム教に改宗させ、宮殿内でエリート教育を施す寄宿学校を作っていたのですが、これを発展させたのが“エンデルーン学校”です。


 宮殿学校及びエンデルーン学校に共通しているのは、ただ教養を身に着けさせるだけでなく、教育プログラムに()()()などの“戦闘教練”も含まれていたことです。

 まさに「騎士学校」のようではないですか。


 しかも学年級や制服(脱走しても目撃情報ですぐに分かるという囚人服めいた意味もあったらしい)も存在したそうです。更に図書館や寄宿寮、浴場などまであったとか。

 うーん、まんまファンタジーの学校だ。


 そしてもう一つ面白いのが独特な進級制度。


 イスラム教に改宗した若者達はまず、トルコ語の習得具合やオスマン帝国の文化に馴染めるかなどを見られて、一般兵として軍に送られるか入学するか決められます。

 入学が決まると帝都コンスタンティーヤ(イスタンブール)にある七つの学校の内一つに入れられ、教育を受けます。

 成績優秀者は宮殿学校へ編入され、進級できなかった者は新兵軍団(アジェミー・オウラン)へ配属され、精鋭歩兵(イェニチェリ)として経歴をスタートさせました。

 宮殿学校へ進めた者は高度な教育や職能訓練(製本や建築も含む美術や音楽の教育)を受け、卒業後は教員や科学者、官僚などの職に就いたそうです。中には大臣や大宰相に上った者も。


 卒業後の進路も何だかファンタジーの貴族学校っぽいですねぇ!


 “エンデルーン学校”をモデルにファンタジー学園ものを描くというのも、かなりアリだと思うのですが、どなたか書いてくれないでしょうかね?


動画

【Prussian Cavalry - in Training and at War】18世紀プロイセン胸甲騎兵の調練及び実戦

https://www.youtube.com/watch?v=Sl8IFC4IIZs


「騎士学校」の多くが軍学校をモデルにしていることがよく分かる動画。銃の訓練を魔法に置き換えれば、ほぼファンタジーにおける「騎士学校」と言える。



主な参考資料


【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース


【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード


【戦闘技術の歴史 近世編】共著 クリステル ヨルゲンセン、マイケル・F. パヴコヴィック、ロブ・S. ライス、フレデリック・C. シュネイ、クリス・L. スコット


Wikipedia


PCゲーム【Empire total war】


漫画【ダンピアのおいしい冒険】トマトスープ

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