現実の騎士の姿⑤【騎士団】君主の下に集ったのは忠義の騎士ではなく、傭兵だった
騎士団。
王の下で忠節の騎士達が訓練に励み、治安維持や有事に対応する組織。というのがファンタジーで一般的なイメージでしょう。
しかしながら史実には君主の下に「騎士団」というものは存在していても、それは組織としては存在していませんでした。
どういうことなのかを説明する前に、そもそも騎士団の始まりから解説させて頂きます。
騎士団は2種類に分けられ、「宗教騎士団」と「世俗騎士団」が存在していました。
先に誕生したのが宗教騎士団で、正しくは「騎士修道会」と言います。
騎士修道会は第一回十字軍が終わった後、聖地エルサレムに残って聖堂の警護や巡礼者などの保護を担った「神殿騎士団」や「聖ヨハネ騎士団」(病院騎士団とも)を先駆として、キリスト教徒や教会関係の施設を保護、防衛する軍事組織でした。
騎士修道会という名の通り、騎士が修道士になったり騎士となった修道士などが所属する修道会で、根本的には通常の修道会と同じ修道生活を送っています。そこへ軍事的要素が足された、言うなれば武装した修道会でした。
「テンプル騎士団」「聖ヨハネ騎士団」「ドイツ騎士団」が三大宗教騎士団として有名ですが、他にも「サンティアゴ騎士団」「聖ラザロ騎士団」など数多くの騎士修道会が存在しました。現在も慈善団体として存続している騎士団は多いです。
「宗教騎士団」と言うと狂信的というか信仰最優先で融通が効かないというイメージを持つ方は少なくないでしょう。
実際なろう内でもそういった狂信的集団として登場する作品はありますし、自分もかつてはそう思い込んでいました。
が、史実における「宗教騎士団」は、「無理な断食で体調を崩して戦えなくなることはあってはならない」などといった、信仰より実を取れる現実主義的考えを持ち合わせていました。(最たる例は第三回、第六回十字軍にて戦略的理由から聖地の放棄を主張した事)
1216年にアッコンの司教に就任したジャクー・ド・ヴィトリは、テンプル騎士団に行った説教の中で次のような逸話を紹介したそうです。
『「この修道院にはかつて、熱心に断食と質素に努めるあまり体力を弱め、いとも簡単にサラセン人にやられてしまった修道騎士がいた。たとえば私が耳にしたある騎士は、たいへん敬虔だが、戦場では役に立たず、異教徒との小競り合いで受けた最初の槍の一撃で落馬したという。この騎士を再び鞍に跨らせるため、別のブラザーがその命を大きな危険に晒しながら手を貸したが、再び敵に向かっていったくだんの騎士は、あっけなく落馬させられた。二度にわたって手助けをさせられたブラザーは、同僚を『パンと水だけ卿』と呼んで揶揄し、『落馬しても二度と手を貸すのはごめんだ。自分の面倒は自分で見たまえ』と突き放したそうだ」』(【中世ヨーロッパの騎士】183P)
※サラセン人(中世ヨーロッパにおいて中東の人々を指す呼称。逆に中東の人々はヨーロッパ人を一様に「フランク人」と呼んだ)
宗教騎士団は修道士として厳格な規定に従う規則正しい修道生活を行っており、このために通常の騎士より遥かに統率が取れた軍人でもあったそうです。
加えて騎士にありがちな“蛮勇”を戒めてもおり、何より栄光や名誉よりもまず「勝利」を目指すという軍人的思考を持つ最良の騎士達でした。(中世盛期の時点で、栄光より勝利を優先する軍人思考を持ち合わせていたヨーロッパ勢力は、彼らとビザンツ帝国ぐらい)
ただ実際に戦闘を行える者の数はそう多くないことが欠点でしたが。
テンプル騎士団の場合、中東ではテュルコポルなどの改宗した現地人兵(正教徒やイスラム教徒もそこそこ混じっていたらしい)が戦力の多数を占め、戦闘に参加した騎士の数が400を超える事はなかったそうです。
ちなみにファンタジーでは騎士団のリーダーは「騎士団長」とされていますが、実際の(現存するものも含む)騎士団における長は「総長」と呼ばれていました。
騎士修道会の序列、組織構造については「ドイツ騎士団」のWikipedia記事が参考になると思います。(元は総長が頂点だったが、14世紀半ばまでには総評議会や幹部会などある程度の合議制が取り入れられたらしい)
話を戻しますと騎士の黄金期を過ぎた14世紀、騎士の軍事的価値に陰りが現れ、その反動か抵抗かのように騎士道精神が盛り上がる中、各国で騎士修道会や、かの有名な【アーサー王物語】の“円卓の騎士”を模した騎士団が登場しました。
これが「世俗騎士団」です。
イングランドの「ガーター騎士団」(1348年創設。1344年説もある)が現存する騎士団として最古とされていますが、英語Wikipedia記事によればハンガリーの「聖ゲオルグ騎士団」(1326年創設)が世俗騎士団としては最古のようです。
他に有名な騎士団として、ハンガリーの「ドラゴン騎士団」(1408年創設)やブルゴーニュ公国の「金羊毛騎士団」(1430年創設)などがあります。
主に宮廷で設立された世俗騎士団ですが、冒頭で書いたようにこれは組織ではありませんでした。
世俗騎士団の総長は騎士団を創設した国王や大貴族、そして彼らの跡を継いだ者達で、騎士団員の任命も総長(つまり君主)の権限で行われました。
が、騎士団に入ったメンバーには騎士団員の証である記章や紋章以外何も与えられることはありません。特権も責務も特に無し。
何故なら組織ではないから。(一応、共通の“理念”を掲げる団体ではあった)
世俗騎士団は遊戯的性格が強く、基本的に名誉を称えるためのものでしかありませんでした。
騎士団のメンバーであることは、言ってみれば「権力者からのお墨付き」でした。記章は権力者に認められた栄誉を形にしたものですが、これは後に今も残る制度の元となります。
勲章制度です。
騎士団は英語で「Chivalric order」、仏語で「Ordre de chevalerie」ですが、この「order」という言葉は現在勲章の一種を意味しています。
騎士団員の証である紀章は現在の勲章と同じく、授かることは大変な名誉であり、一方で剥奪されることは騎士の沽券に関わる不祥事となりました。
この辺りは漫画【乙女戦争】の、スティボルツ卿が“ヴィトコフの戦い”(1420年)で捕虜となった主人公シャールカを衆目の前で暴漢に辱めさせようとした際に、皇妃バルバラ(ドラゴン騎士団創設者の一人)から騎士団紀章を取り上げられそうになって蒼白するシーンが分かりやすいです。
これら史実の騎士団を見るに、ファンタジーの騎士団は「宗教騎士団」の組織と「世俗騎士団」の精神が混ざったような存在と言えるでしょう。
では騎士で構成された、王(或いは国家)直属の軍事組織はファンタジーにしか存在しなかったのか? というとそうとも言えません。
「騎士団」という形では存在していませんでしたが、王直属の近衛部隊と言えそうなものはありました。
【騎士の地位と役割】でも紹介した、“契約書制”は期限付き(一年程度がほとんど)ながら雇用契約で王家と繋がった直属の戦力を用意しましたし、これを更に発展させたようなフランスの“勅令隊”は紛れもない常備の軍事組織でした。
この“勅令隊”に先んじて、ハンガリーでも“黒軍”と呼ばれた常備部隊が登場しています。
しかし、これらは騎士というより傭兵の部隊でした。騎士の身分を持つ者も居るには居ましたが、上流階級の生まれでない者が大多数を占めました。
おまけに、騎士を志す若者ではなく原始的な徴兵制度によって定員を保っており、更には年を経るごとに規模を拡大させてもいます。(ただ“勅令隊”の方は、時が経つに連れ外国人傭兵の数が減り、自国民の徴兵によって次第に上流階級の人間の割合が増えていったらしい)
かつての封建軍は貴族の私兵で構成されており、君主は軍の招集や行動目標を命じる事はできても、戦場で彼らを自在に動かすことは不可能でした。
貴族からすれば、「自分達は家臣であっても家来ではない、我らの指揮や行動にいちいち口出しするな。そもそも自費で用意した私兵を自分の好きに動かして何が悪い」というわけで、君主からの指揮を受け付けようとはしなかったのです。
一方、君主直属の常備部隊は、君主に雇われて君主から給料を貰う傭兵ばかりなので、雇い主の命令には素直に従いました。誰だって減給は嫌ですからね。
おまけに封建軍は、領主の自己負担故に1年につき40日間という短期間しか動員できず、40日以上戦わせるには来年分や再来年分の軍役を前倒ししなければならなかったのに対し、傭兵の常備部隊は給料さえあれば期限などありませんでした。
軍役を封建的義務ではなく契約によって求め、報酬の見返りとして主に仕える形式の新たな封建制度「疑似封建制」。(用語自体は19世紀に造られた造語)
主に“契約書”の制度によって中世後期に発展したとされる、封土ではなく給金で繋がる主従関係ですが、「俸給」つまり給料を支払って騎士を雇用するというのは、既に中世盛期には割と広がっていたらしいです。
(傭兵で有名な中世イタリアの少なくない小領主、騎士などが頻繁に傭兵として活動していたのも、この「俸給」を重要な収入源としていたから)
しかし、土地ではなく金で騎士や兵を雇うには大きな問題がありました。
維持費が掛かり過ぎるのです。
これは中世において、軍隊のほとんどが戦時招集の寄せ集めだった封建軍が長く頼られた理由の一つでもあります。まだ未熟な経済と欠陥の多い徴税システムしか持たなかった中世の国家に、ぽんぽん兵を雇えるほどの金はなかったのですから。
(中世が舞台のPCストラテジーゲーム【Medieval 2: Total War】で筆者が痛感したのは、貧弱な経済で軍隊を支える中世財政の苦しさと海洋貿易の美味しさ。内陸に領土やインフラ広げるより港のある沿岸部を確保した方が実入りが遥かに良い。そりゃ百年戦争の時のイングランドがフランドル商人と結び付き強めるわけだわ)
ただでさえ軍隊は金食い虫。戦うことがない平時でも給料を与え続けなくてはならない常備軍は、十分な財源なくして成り立たないのでした。
ハンガリーの“黒軍”も財源不足による給料未払いに激怒した兵が反乱を起こし、最終的には財政的理由から解散を余儀なくされていますし、イングランドの“契約書”も王家による羊毛輸出の囲い込みが齎した莫大な収入という財源あっての制度。
フランスの“勅令隊”も、リッシュモン元帥による改革で貴族から徴兵権と徴税権を取り上げて、王家が兵と税を集める権限を独占する中央集権化の賜物だったのです。(“プラグリーの乱”という混乱も招きましたが)
またフランスでは興味深い部隊が“勅令隊”に続いて登場しました。
騎兵中心の勅令隊を補助する目的で創設された“自由射手隊”です。(ここでいう「自由」は、小作人などと違って自分の土地を持つ地主である自由農民のこと)
『親元で暮らす八〇〇〇人あまりの予備役の歩兵で、税を減免され、必要があれば所属する教区の負担で装備を調え、定期的な演習で腕を磨き、周期的に査察を受け、王の随意の招集に応じる』(【中世ヨーロッパの騎士】296P)彼らは、明らかにイングランドの長弓兵の影響を受けていました。
長弓兵も税の減免と引き換えに、訓練を義務付けられた予備役に服す兵だったからです。
イングランドには古くから王が民兵を招集できる制度があり、ヘンリー2世の“武器保有条例”によって、装備自弁と訓練を義務付けられた予備役兵が整備されました。長弓兵もその延長で揃えられたのです。
しかし、“勅令隊”もそうですが“自由射手隊”は、自費で装備を用意するのではなく、自分が駐留する地域が装備の費用を負担してくれます。(王から課された軍役として、地区ごとに武装兵を用意しなければならないため、現地行政が費用を負担する)このため、装備の質は一定の基準以上を常に保っていました。
こうして税金で作られた良質な兵を集めて、常備軍が形成されていき、指揮官には王が任命した人間が就くようになります。
そこには身分が絶対的な意味を持つことはありません。
上流階級の多くは十分な教育を受けているので自然と軍指揮官の人材にもなりえましたが、上流階級でなくてはならない理由はほとんど無くなり、中流層出身者や傭兵上がりの士官は珍しくなくなっていきました。
かなり後の時代になっても騎兵や歩兵の指揮官には少なくない貴族が居座り続けたものの、砲兵将校についてはいつの時代も平民出の軍人が多くを占めるようになります。
何より、常備軍が整備されるようになった時期には、銃砲の普及が進んで、騎士同士の崇高な戦を汚す下賤なる存在とされた銃兵、砲兵が騎士に代わる主力と化していました。
王を頂点とした騎士団は、王を守る近衛ではなく権力者達の“円卓の騎士ごっこ”に過ぎず、実際に王の下で常日頃から訓練に励み有事に備えていたのは、世俗騎士団でも地方で領主をしていた騎士でもなく、彼らが見下していた傭兵や射手、そして火器を扱う者達だったのです。
おまけ。
最後に、騎士団ではありませんが、騎士に類似した存在で構成された君主直属の近衛部隊をちょろっと紹介します。
・ハイド
ヴァイキング時代(8世紀〜11世紀)のデンマークに存在した王の近習。
まだ貴族が存在しなかった当時のデンマークでは、王が自由農民へ軍役か貢納のどちらかを求め、軍役を選択した者は王から剣を授かり、王の親衛隊に加えられた。
王の遠征に付き従う“ハイド”には戦利品の一部を得られる権利があり、それによって富を蓄えた彼らは後に、デンマーク最初の貴族へと進化したとか。
・ドルジーナ
中世ルーシ諸国(現在のロシア西部、ウクライナ辺り)などで見られた親衛隊。
中世スラヴ社会に存在した君主“公”に従う従者であり近衛兵だが、本人の意思で自由に脱退や主替えができた。“公”の領地収入によって養われ、戦争の際には軍の中核を成し、戦利品の一部を獲得できる権利も有する。
規模は数百人程度と大きくはなかったものの、指揮官クラスの上位のドルジーナは貴族層を形成したり、力のあるドルジ―ナが自らのドルジ―ナを持つこともあった。
・コルチ
サファヴィー朝イラン(1501〜1736年)に存在した近衛騎兵隊。クズルバシュというトルコ系遊牧民の部族長らの息子達を集め、王の下で教育を行い、近衛兵としたもの。
クズルバシュはサファヴィー朝建国の功労者だったが、建国者“「邪悪なほど美しい」イスマイール1世”の死後は封建領主化。幼い王を傀儡にしようとしたり権力争いにかまける厄介者となってしまった。
そこで、タフマースブ1世(父イスマイールの死後、10~19歳の間傀儡にされてた本人)が部族長の息子達を集めて王に忠実な近衛として教育し、人質を兼ねた直轄戦力としたのが始まり。
主な参考資料
【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース
【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード
Wikipedia
漫画
【乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ】大西巷一
論文
【ヘンリー2世における軍事強化】川瀬進