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現実の騎士の姿④【騎士の地位と役割】如何にして“騎馬兵”は“貴族”となったか


 これまで複数の項にて【現実の騎士の姿】と題し、史実における騎士を解説してきましたが、主に見た目や戦い方といった部分に限られていました。

 今回は、そもそも騎士とはどういった地位と役割を持っていたのかを説明したいと思います。



 騎士は、カール大帝(シャルルマーニュ)で有名なカロリング朝(8世紀半ばから10世紀まで存続したフランク王国第2王朝)の時代に王から土地を与えられた騎馬戦士やゲルマン民族の従士制度などが元となって誕生したと言われています。

 ですが、武士と同じく成立過程が中々複雑であり、資料の少なさもあって詳細はよく分かっていません。


 確かに言えるのは、当時新たに出現した騎士という社会階級は、貴族ではなく兵士の役割を義務付けられた自由民(平民)に過ぎなかったということです。


 10世紀(900年代)のフランスでは「ミレース」という騎士を指す称号が登場しましたが、その立場は地域差があったようで、自由農民(地主。いわゆる豪農)を指したり下級貴族の子孫のことであったりと意味は大分曖昧(あいまい)だったようです。

 身分としては一応上流階級に属するものの、その最下層でしかなく、貴族ではありませんでした。似たような立ち位置の存在としてイギリスの「郷紳(ジェントリ)」があります。


 馬と甲冑という大変高価な財産を所有、維持する以上は、十分な収入が得られる土地が必要ですが、初期の騎士達が持っていた領地はとても小さいものに過ぎませんでした。


『ノルマンディ人が封建制と騎士身分をイングランドに伝えたあとの、ドゥームズデーブック(1086年の土地台帳)の時期になっても、騎士の平均的封土は「非常に富裕な農民をわずかに上回る」にすぎなかった』【中世ヨーロッパの騎士】25P


 ノルマン征服(コンクエスト)以降にアングロ・サクソン人(イングランド人の先祖)は、フランスで使われていた騎士称号「ミレース」を使うのを止めて、「knight(クニヒト)」(中期英語で従僕を意味する)という言葉を使うようになります。

 (つづ)りでピンときた方もいるでしょうが、この言葉は後に「ナイト」へ変化します。


 「クニヒト」は元々、下級の兵士として君主に仕える存在で、かつては歩兵だったそうです。これは騎士の身分がまだ低かったことを如実に物語っていました。


 一方ドイツでは「ミレース」「クニヒト」に相当する存在として「ミニステアーレ」という者達がいました。

 日本語ではよく「家士」と訳されるミニステアーレは、日本における武士の郎党や小姓に近いと言われています。


 彼らは当初、武士の下人、所従(しょじゅう)と同じように主君に隷属し(結婚や所有物の売買さえ主の同意が必要)、奴隷の如く自らも売買の対象にすらなった「奴隷騎士」でした。

 ですが、独立意識の強い貴族に対抗する戦力としてドイツの王侯から重宝されていく内に、徐々に封土や独自の家臣を抱えるようになり、やがて君主からの自由を手にすると下級貴族に入り込んで騎士階級へと成長していきます。


 黎明(れいめい)期の騎士達は低い立場にありましたが、9世紀には早くも変化のきっかけが起きていました。

 教会の介入です。


 介入というとネガティブなイメージが湧くでしょうが、騎士を我々の知る「騎士」としたのは間違いなく教会に()るところ大です。

 カトリック教会は騎士という存在を“正当化”する一方で、騎士へ禁欲的規律を課し、騎士という“富や領土への欲に(あふ)れた戦士”を“キリスト教を守護する聖なる戦士”へ変えようと試みたのでした。


『これまで異教の休日やサンクチュアリ(聖域)など多くの世俗の制度を取りこんできたのと同様に、騎士の制度も取りこんだのだった』(【中世ヨーロッパの騎士】33P)


 教会が騎士を取り込むようになったのは、ヨーロッパ中で戦乱が絶えず、教会や聖職者も略奪や戦闘に巻き込まれていたからです。

 「キリスト教徒同士の争い」に加えてそれに自分達が巻き添えとなる事態に我慢ならなくなったものの、いきなり戦争を無くすなどできる筈もない上に、異教徒の脅威がある以上“キリスト教世界の防衛と拡大の戦力”として「騎士のキリスト教化」が必要になったというわけでした。


 教会によって騎士が『本質的には善であり、高潔であって、教会の祝福に値する』とされると、「騎士」の称号は名誉あるものとなり、騎士より高位な領主や城主といったいわゆる貴族すら(うらや)む格式さえ備えました。

 結果、王侯貴族と騎士は地位の違いこそあれど、同じ「神から戦う事を許された“戦う人”」であるという軍事エリートとしての連帯感が生まれました。騎士は一般兵とは一線を画す特別な存在となったのです。

 聖地(エルサレム)を目指す“十字軍”の経験もまた、騎士を「キリストの戦士」として輝かせる大きな要素となり、より特別視されるようになりました。


 しかし同時に騎士は経済的危機の中に放り込まれていました。


 それまで土地を含む親の遺産は全て息子や娘らへ分割相続されていましたが、代を経るごとに土地が細切れになり、騎士としての装備を調(ととの)えることもままならない状態へ転げ落ちてしまったのです。

 そこで分割相続から単独相続する形式(長子相続とは限らなかった)に変わり、土地自体は親族全体で保有する一方、管理は相続者がすることになります。(分割相続→経済的困窮→単独相続の流れは鎌倉時代末期の武士でも起きている)

 これは経済的危機を乗り越えるだけでなく、結果的に騎士の世襲化にも繋がります。


 理論上は軍馬と装備、そしてそれらの費用と軍資金を(まかな)える土地及び農民さえ揃っていれば、誰でも騎士になれる筈でした。が、中世初期において商業の成長はまだ途上で、豪商や富農が出現するには時が必要な状態。

 逆に経済的危機によって単独相続への変更が行われたことで、騎士人口が減少する代わりに彼らの経済基盤の安定とそれによる世襲化が起きました。


 騎士という身分が、騎士になるために必要な資産と共に父から子へ受け継がれ、貴族の様な排他的階級となったのです。西暦1000年を境に階級を(また)いだ婚姻が禁じられるようになったのも、騎士階級をより排他的にし身分の固定化を促進したことでしょう。


 ですが、まだ騎士は貴族ではありませんでした。


 騎士がいつ貴族と見なされたかは研究者の間でも結論は出ていないものの、13世紀(日本でいう鎌倉時代)を通じて正真正銘の上流階級となっていったのは間違いないそうです。

 本項冒頭部分で説明した「ミニステアーレ」が奴隷騎士状態から騎士階級へと成長したのも13世紀の出来事でした。(一部地域では12世紀の内にミニステアーレを既に貴族と呼んでいたらしい)


 西ヨーロッパでは封建制と王権の強化が進み、その過程で国を治める公爵、伯爵そして王といった君主は反抗的な地方領主や城主に対抗するべく騎士を臣下として抱え込みました。

 君主達は騎士を軍事的戦力としてだけでなく、貴族に対抗する政治的戦力としても活用し、地方領主や城主と彼らに従う騎士から司法や徴税権などの特権を直属の騎士へ移行させて、支配力を強めようとしたのです。


 こうして強い権力を持つ王侯貴族に、地方領主、城主らは従属せざるを得なくなり、騎士の地位が上がって地方領主と城主の地位が相対的に低下した結果、彼らの地位は似たようなものとなって平坦化します。つまり揃って下級貴族という分類に収まったのでした。


『騎士たちは以前は城主に限って許されていた「シア(sire)」の称号を獲得し、上流階級に倣って紋章を身に着けるようになった。十三世紀に入ると、騎士の生活様式は時の流れとともにいよいよ贅沢になっていく』(【中世ヨーロッパの騎士】147P)


 騎士の地位は上昇を続けました。しかしその一方で、彼らのただでさえ厳しい懐事情が更に悪化していきます。


 中世盛期に起きた商業の発展に伴う物価高騰の影響で財政負担が大きくなり、騎士同士の金の貸し合いや領地の一部を担保に商人や教会から借金をしたりするようになります。

 更には教会か領主へ領地を売って軍資金を作るか、売却した相手からその土地を封土(主君から与えられた土地。受け取ると日本でいう「御恩と奉公」に当たる封建的義務が生じる)として受け取って忠誠を誓う事も珍しくなくなります。

 修道院から鎖帷子(メイル)を贈られた返礼に土地を寄進するなんて事例も。

 小さな領地しか持たない貧しい騎士の中には、何人かで協力して一人の軍役に掛かる資金を捻出する者達も現れたとか。


 騎士の財政を圧迫したのは軍役だけではありませんでした。上流階級として振る舞うための高い生活水準も大きな負担となります。『今や騎士にふさわしい暮らしを営むには贅沢が必要だった』(【中世ヨーロッパの騎士】152P)


 12世紀半ばから13世紀初頭に掛けて活躍した騎士ウィリアム・マーシャル、彼の長男が父ウィリアムの死後に父の従者へ命じて執筆させた伝記【ギョーム・ル・(ウィリアム・)マレシャル(マーシャル)伝】(1226年完成。執筆には宮廷吟遊詩人(トルヴェール)の助けもあった)には、数十年の間に騎士を取り巻く状況が変わった様子が(うかが)えます。


『ウィリアム・マーシャルの伝記を残した作家――活動期間は十三世紀中頃――は、一一五〇年代にウィリアムがフランスに向けて出発したときの供の数が少ないことをあれこれ釈明している。「当時はわれわれの時代と比べて質素な時代だった。王の子息でさえケープをくくり上げて馬に跨り、ほかには荷物ひとつ持たなかった。今は荷馬の一頭もほしがらない従者など、まずいないだろう」』(【中世ヨーロッパの騎士】152P)


 かつては装備と馬さえ揃えば騎士を続けられましたが、騎士の黄金期である中世盛期には上昇した地位と沸騰する経済が逆に重い足枷となって騎士を資金面で苦しめました。

 軍役の度に所有する土地や鎧を担保に資金繰りするという有様だったとか。


 (日本の裕福でない武士もそんな感じで軍事費を都合していたそうです。“元寇”(モンゴル来襲)後に鎌倉幕府から恩賞を貰えなかった武士が倒幕へ動いたのは、恩賞で借金を返済できず土地を差し押さえられ、それが幕府を牛耳る北条家へ横流しの如く売られていたからという事情があったり)


 更に騎士になる際の叙任(じょにん)式そのものが贈答品や豪勢な祝宴を伴う高価なものになり、装備を調える初期投資も年収に匹敵するほど高騰。

 挙句の果てには王や諸侯の軍役に就く時も、従者などの随行人や貴族にふさわしい格好といった新たな出費がどんどん重なっていきました。

 これら経費の苦しみに耐えかねて、騎士として必要な土地諸共身分を放棄し、負担の大きい軍役から逃れようとする「徴兵逃れ」を試みた騎士もいたそうですが、当然王はそれを許さず、領地の売却や譲渡による軍役不履行を禁じることで対応しています。


 それでも騎士の人口は減少の一途を辿りました。

 これに拍車を掛けた※のは従騎士です。将来の資金難に尻込みした騎士の子息らが、見習い騎士のまま騎士にならず、生涯従騎士のままでいようとしたのです。還暦を過ぎた「見習い騎士」もいたそうで……。


 ※(騎士だけに。拍車は(かかと)(とげ)の歯車を取り付け、(むち)の代わりに馬の脇腹へ押し付けて推進の合図を伝える馬具。従騎士は銀の拍車を主から授与され、騎士に叙任されると純金か金メッキの拍車を受け取った)


 従騎士として騎士に付いている間、資金の大半は主である騎士持ちなので、従騎士のままの方が大して責任も負わずに済む上、戦利品のおこぼれも頂けたので経済的にも大変美味しいのでした。現代で例えるなら騎士は自営業店長、従騎士はその従業員といった感じでしょうか。

 従騎士の増加は彼らを養う騎士の経営負担となり、増々騎士は資金繰りに苦労して、それを見た騎士の息子たちが「ああはなるまい」と騎士になることを躊躇(ためら)うという悪循環が起きてしまったのです。


『一二五八年、ヘンリー三世治世下の諸侯が、州によっては騎士の人数が足りず、一二人必要な巡回裁判を開くことができないと不平をもらしている。一二九五年、イングランドで最も封建化が進んだ州のひとつ、エセックスに居住する活動可能な騎士はわずか二四名、加えて高齢あるいは病身のため軍役に就くことのできないものが一一名いた。』(【中世ヨーロッパの騎士】154P)


 騎士の数が不足するのは、王にとって軍事的にも行政、司法の面でも大変困る事態です。ですが王室はすぐに対策を思いつきました。


「既存の騎士が足りないのなら新たに作ればいいじゃない。騎士になれ、なあ、地主だ! 大地主だろう!?なあ大地主だろうおまえ」


 1224年、イングランド王ヘンリー三世はフランスへの遠征に際して、1ナイツフィー(騎士1人を用意できる収入が見込める土地)と等価の土地を持つすべての成人自由民を王が叙任すると布告。『騎士道の差し押さえ』(【中世ヨーロッパの騎士】154P)が行われたのでした。

 これによって騎士の数が増加したという証拠はないそうですが、王室の歳入が増えた(軍役代納金。軍役に代わって税金が支払われた)事と、裕福な商人や農民が騎士になれる道が開けたのは間違いないようです。


 騎士不足に悩む王や諸侯は「下からの騎士階級参入」を後押ししたものの、すっかり貴族化した騎士達は、平民出身騎士を「悪徳貴族」「農奴」などと呼ぶほどに毛嫌いし、新規参入をきっぱりと拒みました。

 新法(聖ルイ法など)によって貴族位は父親の爵位が根拠とされ、貴族の母と平民の男の間で生まれた子はかつてと違って貴族位を主張できなくなり、地位相続の門は狭められてしまいます。


 人々も「平民の封土」は「貴族の封土」に劣ると公言し、平民出の騎士は騎士家に生まれた者といった上流階級出身者を従者にできないなど、悪い立場に置かれました。

 が、彼らはなんら屈することなく、自ら手にした権利を億面もなく主張し上流階級と争ったそうです。強い。

 こういった上流階級への新規参入は、騎士、貴族らの圧力によって何度も禁令が発せられましたが、流れが止まることはなかったらしく、婚姻や土地購入、宮勤めを通じて平民出の騎士は度々出現しました。


 中にはフィリポ(ピッポ)()スコラーリ(スパーノ)(1369~1426年)という、イタリア商人からハンガリーの財宝管理官の下で働く官吏となり、官僚仕事の(かたわ)ら傭兵隊長としても活動、文武の働きを神聖ローマ皇帝ジギスムントに認められるや、貴族家に婿入りして貴族となった変わり種も存在しています。



 最後に、本項では軍人としての騎士が中心になっていますが、騎士=軍人とは言い切れません。


 君主から司法や徴税権などの特権を与えられたことで、平時は司法官や行政官として働く騎士(収入はあくまで封土からだけで、騎士の義務として国からの給料は無かった場合がほとんど)もいましたし、中には吟遊詩人(トルバドゥール)(他の芸人と違って騎士階級しかなれなかった)や伝記、騎士道物語などを執筆する作家といった芸能活動を行う騎士もいました。


 が、やはり彼らも戦時には軍役を課され、軍役代納金を納めない場合は武装して参陣しなければなならなかったようです。

 “モハーチの戦い”(1526年)でもハンガリー王国の王室会計官Gáspár(ガーシュパール・)Ráskai(ラーシュカイ)が王の近くに配置された精鋭騎兵部隊を率いています。



 当初は“騎馬戦士”でしかなかった騎士ですが、権力を手にする過程で“貴族”や“官僚”としての責務と経済的負担を負わされ、戦うだけが彼らの仕事ではなくなりました。

 更には時代が進むと戦う事すら「騎士だけの仕事」ではなくなっていきます。


 我々現代人の想像するような貴族としての優雅な騎士の姿は、戦士から身を引いて軍役から解放された近世以降の姿であり、凛々(りり)しい甲冑姿の裏には気が滅入る金の話が付き(まと)っていたのです。


主な参考資料


【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース

【図解 中世の生活】池上正太


Wikipedia


漫画【乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ】大西巷一


動画【モハーチの戦い】

https://www.youtube.com/watch?v=_NvSGnpukBo

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