Clock is ticking
波の音が聞こえる。夏の暮れ、午後二時の浜辺。景観に全くそぐわないスーツが、汗を吸ってじっとりと肌にまとわりついてくる。
人の姿があまり見られないのは盆を過ぎたからか、ゴミが多く流れ着くこの浜辺のポテンシャルなのか。
数日前に降った大雨の影響で、流れ着いたビニールが列を成して並び、緑色の苔が好き放題幅をきかせていた。
漂着物が多いこの浜辺には、高価な貴金属だとか海外製のおもちゃだとか、珍しいものが流れ着いてくる。五年という歳月が流れてもその状況には変わりがなかったようで、俺の足元には壊れた懐中時計と綺麗な指輪が転がっていた。
いくら優れた趣向品でも、こんなところで横たわっていては何の価値もない。額に浮かぶ汗を拭い、俺はそれらを拾い上げる。
そのままふらふらと日陰に進むと、そこから動く気がなくなってしまった。もう少し廃材探索でもしてやろうかとも思ったが、一度腰を据えてしまったことで全ての気力が奪われてしまう。
歳を取ったなあなんてことを考えながら、俺は煙草に火をつけた。遠くに映る青色に、ぷかりと赤い点が浮かんだ。
高校を卒業した直後、俺は生まれ育ったこの街を出た。理由はただ一つ。時間が止まったようなこの場所に居続けることが、自分の足を止めてしまうことと同義に思えたからだ。
とにかくこの場所から出ていきたくて、思い出と人間関係を置き去りに四百キロも離れた都市に就職したのが約五年前。それ以来になるから、五年ぶりの帰省になる。
誰かに会いたくないわけでもなく、帰りたくない理由があったわけでもない。ただただ故郷を思い出すことがなかったので、帰るという方向に思考が向かなかった。
砂浜に跡を残す波の音、煌々と水面を照らす太陽の光、塩分を含んだ匂い。
人の記憶というのは五感と深く結びついているようで、海の空気があっさりと思い出を運んでくる。あんなに息苦しかったこの場所が、今はひどく心地いい。
五年も経って急に帰省しようなんて思ったのは、たまたま出張先が近かったからなのか、目まぐるしく過ぎる日々に疲れてしまったからなのか。はっきりと答えられる自信はない。
ただ間違いなく言えるのは、帰ってきたからには取りこぼした青春を回収しなければいけないということ。財布に織り込んだ二人分の航空券と引き換えに。
「おっす。何してんの?」
煙草の火を消し立ち上がろうとしたところで、背中を叩かれた。完全に耽っていた俺は、大げさに身体を跳ねさせてしまう。
俺は振り返り声の元に視線を向ける。癖のある茶色いショートヘアの女性が、口角を上げてこちらを見下ろしていた。
腰元を絞った薄藍色のワンピースに、リボンのついたストローバッグ。スーツなんかよりよっぽど場に適した服装だという感想はさておき、その顔には見覚えがあった。
懐かしい姿に意表を突かれたものの、俺はあえてすました顔をして言葉を返した。
「久しぶりだな」
「久しぶり。元気にしてた?」
「おう。そっちは?」
「相変わらず元気だよ」
俺は立ち上がりズボンに付いた砂を払った。内心は心臓が飛び跳ねそうなほど驚いていたが、それを顔に出すことを俺のプライドが許してくれなかった。
こちらに向けられる笑顔で、ふとあの頃に戻ったような感覚が襲ってくる。
俺に声をかけて来たのは、幼馴染の徳井沙由だった。数日合わなかったくらいの勢いで声をかけられたが、彼女に会うのも五年ぶり。
会いに行こうとは思っていたが、まさか向こうからやってきてくれるとは。どうやらこの浜辺は、本当に珍しい漂流物を運んでくるらしい。
細波の音が耳に入り、俺は慌てて言葉を放った。
「ちょうど良かったよ、今から会いに行くつもりだったから」
「あたしに? 珍しいこともあるもんだ」
口の端が上がった彼女の顔は、化粧のせいか昔より少し大人びて見えた。それが余計に俺の頬に汗を浮かばさせる。
幼馴染という肩書きだけであれば、おそらくここまで緊張することはなかっただろう。だが厄介なことに、彼女には『元恋人』という肩書きも存在する。そして彼女こそが、俺の青春の取りこぼし。この街を出るにあたり、置き去りにしてしまった悔悟の塊。
向こうから声をかけて来たのは心底意外だったが、彼女はなんてことない顔つきのまま話を続けた。
「戻って来てたんだね」
「出張で近くにきたからついでにな。三日くらいしたら向こうに戻るよ」
「そっか。どう? 五年ぶりの景色は」
「変わってなくて安心した」
「海なんてそうそう変わるもんじゃないからね」
沙由はくすくすと笑みを浮かべ、その場でくるりと身を回した。海より薄い色味のワンピースが風を吸い込んで揺れる。
「あたしは? 大人っぽくなったっしょ?」
最高に子どもっぽい仕草だったけれど、見た目だけでいえば大人になったと思う。まあ当時の彼女は高校生だったわけだから、当然と言えば当然なんだろうけど。
俺はわざとらしく息を吐き出し、首を横に振った。
「沙由も変わらない」
「……恭介は痩せたね。ちゃんとご飯食べてる?」
「痩せてねえよ。お前が太ったんじゃないの?」
「うーん。相も変わらずマイナス100点の返しをありがとう。折れろっ!」
沙由が放った蹴りがふくらはぎに直撃する。か弱い足から放たれる蹴りは、覇気の割に威力がない。かつて何十回も繰り返したやりとりに、思わず笑みがこぼれる。
「やっぱり相変わらずだなお前は」
「何年来の付き合いだと思ってんの?」
「地元に帰ってきたって感じがするわ」
時計の針が少し戻ったような気がした。思い出の象徴とも言える彼女が、かつてと変わらない様子で話しかけてきたおかげで、俺の心も落ち着きを取り戻してくれた。
家がすぐ近くで家族ぐるみの付き合いもあったから、俺の思い出の中に彼女がいる瞬間が多い。元彼女ということに加え、五年という期間会わなかったことがなかったから不安もあったが、どうやら杞憂だったようだ。
しみじみと哀愁を噛み締めていると、沙由が言葉を放ってくる。
「こんなところで何をしてたの?」
「久々に漂着物を漁ってた」
「あはは、子どもかっ。何かいいものが見つかった?」
「おう」
本当に子どものように、俺は自慢げに拾った品々を向ける。
「ええっ⁉︎ 指輪と懐中時計? すごいじゃん!」
「壊れてはいるけど綺麗だから、単に落とし物かも知れないけどな」
「だねぇ」
沙由は俺の手からそれらを取り上げた。針が止まって動かなくなった時計、誰のものともわからない指輪、昔のまま変わらない笑顔を向けてくれる沙由。青春の残光がどんどん強くなる。
「そういえば、昔もここで指輪を拾ったことがあったな」
「錆びたナットみたいなやつね。まだ家に置いてあるよ」
「マジかよ。結構汚かっただろあれ」
「だって、あれを捨てたら、置いて行かれたことを忘れちゃいそうだから」
懐中時計を眺めながら静かに微笑む沙由から視線を外すように、俺は水平線に目を向けた。
高校三年生の夏の夕暮れ。沙由と二人でこの浜辺に来た。たまたま流れ着いていた指輪を、沙由の薬指にはめて遊んでいた記憶がある。
「いつかちゃんとした指輪をちょうだい」と言いながら笑っていた沙由の顔が、はっきり脳裏に浮かんだ。
今思えば、あれが彼女に渡した最後のプレゼントだった。それを今も保存しているとは思わなかったが。
「悪かったな置いて行って。あの頃は、いろいろ自信もなかったから」
「あの頃は、か。今は?」
「……あるよ」
「ふーん。大人になったね。今なら連れて行ってくれるって言うの?」
太陽の光を吸い込んだ彼女の瞳が、言葉を待つように揺れる。ここに来てからの彼女の行動すべてが成功への確定演出に見えた。
この街を出る一月前、俺は沙由に別れを告げた。
嫌いになったとかそういうことじゃない。ただただ新しい生活への期待が勝ってしまっただけ。
遠距離恋愛をする自信がないこと、全部この街に置いていきたいということ、だから別れようということ、以上三点を伝えた瞬間、彼女から平手打ちが飛んできて、それが最後だった。普段は痛くもない蹴りを放つ彼女が繰り出した、初めて痛みのある一撃。その痛みも、今この瞬間に思い出した。
俺はあの瞬間のことを後悔している。そして、その後悔を晴らそうとしてここまで帰ってきたのだ。五年という月日が経過して、ふと故郷を思い返した時、真っ先に浮かんだのが沙由の顔だった。
遠距離でも良かった。なんなら余裕が出来たら迎えに来るから待っていてくれとも言えたはずだった。時計の針が戻せるのならば、きっとそうする。
青春を取り返すには最高のシチュエーション。今しかない。俺は沙由の方に向き直る。
「あのさ――」
俺は財布から切符を二枚取り出した。三日後一五時発、現在の俺が住む街へと向かう飛行機の航空券。
「飛行機のチケット。一枚は俺の分。もう一枚は沙由の分。これを渡そうと思って帰ってきたんだ」
一枚を沙由へと差し出す。彼女は目を丸くして、俺と航空券の交互に視線を向けた。
「どういうこと?」
俺は大きく息を吸って、頭一つ分低い彼女の右肩に手を置いた。
「あの頃は自信がなかったけど、今は違う。今度は絶対に悲しませない。ちゃんと本物の指輪を渡すから、一緒に来てほしい。やり直そう」
一世一代の告白。思ったよりも落ち着いていられたのも、自信の現れだと思う。
波の音が響く。少しの静寂の後、沙由は口を開いた。
「知ってた? この懐中時計って壊れてないんだよ。こうやってゼンマイを巻いてあげれば、ちゃんと動き出すの」
彼女の手の動きに合わせて、カチリカチリと時計の針が動き出した。
「何の話を……?」
「あんたの目には変わらないように見えてる景色も、ちゃんと進んでるんだよって話」
沙由は大きく息を吸い込んで俺の手を払い、航空券に指を向けた。
「そのチケットは受け取れない」
あまりにも予想外の返答が帰ってきたせいで、俺はぐっと息を飲んだ。
「さ、流石に急な話だったよな。準備もあるだろうし、返事はいつでも――」
「バカ。復縁なんてしないってことだよ」
逃げるように吐き出した俺の言葉を、沙由の声が遮った。納得できず、俺は抵抗のように言葉を吐いた。
「沙由にもまだ、未練があるように見えたけど?」
「未練かぁ。あるとしたら、あの時追加で五発くらいぶん殴ってやればよかったってことくらい?」
呆れたような、嘲るような、そんな表情を沙由は浮かべた。彼女のこんな顔を俺は知らない。
「思い出とか青春ってさ、色褪せるほど尊いものに見えるみたいだね。楽しかったことが蘇ってきて、正直ちょっと揺らいじゃった」
「だったら……」
「でも、あたしが生きていくこの景色の中に、あんたはいない。別れが悲しくて泣いていたあたしももういない。今のあたしは、駆け引きの一つや二つ簡単に出来る大人な沙由様なんだから!」
彼女はいたずらっぽく舌を出した後、指輪を海のほうへと放り投げた。綺麗な放物線を描いた銀色は、太陽に照らされる砂浜にぽすりと身を預けた。「よく飛んだなぁ」と言いながら肩を回す沙由は、満面の笑みをこちらに向けた。
「お前まさか、わざと俺が復縁を迫るように振舞ったのか?」
「どうだろうね。というかそういう大事な話をするときは、まず近況を聞くべきでしょ。遠くに行っても相変わらず独りよがりなんだから」
ぐうの音も出ず押し黙る俺に手を振り、沙由は踵を返し商業施設のほうへと歩き始めた。
「思い出なんかに浸ってないで頑張りなよ。あんたが見てる景色は、沙由様を置いてまで見たかった景色なんだろうから」
「あ、おい!」
「まあ今後ともよろしくお願いしますよ、幼馴染としてね。バイバイ」
沙由は振り返ることなく捨て台詞を吐いて去っていった。
取り残された俺の手元では、二人分のチケットだけが風に揺られている。
「なんだよあいつ……」
潮風が頬を打ち付ける。強く吹いた風が、チケットの一枚を吹き上げていった。俺はそれを追うことをせず、行く末を静かに見守ることにした。
青春の取りこぼしは回収できなかった。悔しいけれど、成長した沙由に綺麗さっぱり捨てられてしまった。そして、あまりにも綺麗に打ちのめされたせいで、逆にすっきりしてしまった。
景色が変わらないと感じていたのは、俺が変わっていなかったからなのかもしれない。この場に流れ着いて止まっていたのは、俺の時計の針だけだったようだ。
故郷の浜辺には、完膚なきまでに打ちのめされ、肩を落とす俺の影が打ち上げられていた。