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噓とエッセイ#5『虹』

作者: これ
掲載日:2021/06/04



 足元まで押し寄せる波は、強烈な潮の匂いを武器に、今にも僕を飲み込もうとしている。雨は容赦なく降り続いて、砂浜をぐしゃぐしゃに濡らす。辺り一面に木はなく、背の低い草が生えているだけ。口に含んでみたこともあったけれど、腹を壊してからは食べることを諦めた。


 ここに堕ちてから、僕は三日ほど、何も食べていない。どうして生きているのか、不思議なほどだ。


 水平線の上には、ぼんやりと大きな島が見えている。家も、電気も、産業も、諍いも何もかもがある。耳を澄ませていると人々の話し声が、幻でも聞こえてくるようだ。


 満ち足りた生活。だけれど、それでも決定的に欠けているものがある。


 他者への配慮だ。


 たぶん、向こうから僕が不時着したこの島は、見えていないのだろう。双眼鏡を使ってようやく、形状を視認できるかどうか。僕が立っていることなんて、想像もしていないに違いない。


 昨日は近くを、別の島との連絡船が通った。だけれど、いくら手を振っても、僕の方に向かってくることはなかった。もしかしたら気づいていたのかもしれない。


 だけれど、彼らは僕よりも、時刻表を優先させた。ただ、それだけ。つつがなく運航させることが彼らには、一番なのだ。


 たとえ、大事なものを見落としたとしても。


 僕は地面に腰を下ろした。スキニー越しに、泥の嫌らしい感触が伝わってくる。


 座りながら、僕は好きだった曲を口ずさむ。


 孤独と自由が抱き合わせなこと。


 世界は今日も簡単そうに回ること。


 ジョークは笑うのが礼儀だということ。


 自分を勇気づけるために様々な歌を歌った。誰も迎えに来ないという事実を、吹き飛ばすように、熱唱し続けた。少しでも長く生きようとは思わなかった。


 波は、三日前よりも確実に僕のもとに近づいてきている。潮が満ちてきているのだ。このままでは、いつかは僕をさらってしまうだろう。


 確認するまでもなく、今僕は一人だった。


 だけれど、孤独ではない。


 今もどこかでこうして膝を抱えている人間がいることを、僕は心のどこかで知っていた。誰もいない島の上で。人に囲まれた街の中で。地下に。夜空に。地球儀に。俯いている人たちが、肩を叩いてくれるのを待っている。手を差し伸べてくれるのを待っている。


 一人の集合体は、孤独なんかじゃない。僕たちは複数形だ。


 そう思おうとしても、見渡す限りの海と草。そして、鳥につつかれて破けた飛行船しか、僕の周りにはない。どうしても弱気になってしまう。


 世界には僕の席なんて、ないように思える。


 もともと鼠色をしていた飛行船は、破れて、しぼんで、鳥の糞にまみれて、見るも無残な姿になっている。穴を塞ぐ道具は、海に落ちてしまったから直せないし、燃料がないからもう浮かび上がることはないだろう。


 遠くに見える島へは、泳いで行けそうもない。僕が、ここから自力で脱出する手段は、完全に断たれていた。まるで巣に水を入れられた蟻みたいだ。


 死という現実が何度も首をもたげて、その度に頭を振って打ち消したけれど、限界は着実に近づいている。体温も、降りしきる雨で奪われている。


 だけれど、不安をかき消すように歌い続けると、願いが届いたのか、空は雨を降らすことを止めて、かすかに晴れ間をのぞかせ始めた。雲の切れ目から、差し込む光。


 そして、雲と青空の比率が逆転した時、海の上には二本の虹が現れた。くっきりとした一本の虹の上に、もう一本の虹がおぼろげだが、おいかぶさるように、光を放っている。


 喉が潤ったわけではないし、腹が満たされたわけでもない。なのに、僕の心は魔法みたいに癒やされていた。一人で見ても、綺麗なものは綺麗だと実感させられる。


 一般的な七色ではなく、疲れて六色にしか見えなかったとしても、僕の目は遠くに浮かぶ幻に夢中になっていた。


 そうだ。破れてくたくたになった飛行船の布地。これをちぎって、六色に塗ってみるのはどうだろう。表は鳥の糞で汚されていたとしても、裏地はまだ無事だ。


 地面に広げて絵の具のついたブラシで、塗りたくる。蛍光塗料でも使えば、夜でも目立ってより良いかもしれない。


 一番上は赤だ。やはり最初に目につくところには、一番目立つ色を配置すべきだと思う。


 燃え盛る炎の色。痛々しい鮮血の色。目が覚めるような薔薇の色。人のあらゆる欲求を喚起させ、気分を駆り立てる。


 生命の象徴たる赤を、最上部に配置すれば、訴求効果は抜群だ。青い海とのコントラストで、空から見た人はきっと目を留めるだろう。


 次は橙だ。全てを赤で塗っては、さすがに刺激的過ぎるから、少し穏やかな色を配置したい。


 瑞々しいオレンジの色。郷愁を誘う夕焼けの色。もしくは、ハロウィンのかぼちゃ。陽気を絵に描いたような色は、人を喜ばせ、楽しい気分にさせるし、夕焼けには一日の疲れを癒やす効果もある。


 癒やしの象徴たる橙を、二番目に配置すれば、太陽を反射してくれる。灯台のように、遠くの島まで届いてくれるかもしれない。


 次は黄色だ。橙で一つクッションを置いたから、ここでまた刺激的な色がほしい。


 春風に揺れる菜の花の色。夏に咲き誇るひまわりの色。新鮮なレモンの色。活動的な色は見た人を、強く動機づけることができるだろう。それは、燦燦と降り注ぐ太陽の日差し。


 太陽の象徴たる黄色を、三番目に配置すれば、おのずから眩しく光を放ってくれるかもしれない。光り輝き、存在を主張してくれることだろう。


 次は緑だ。黄色で刺激を加えたので、今度は落ち着いた色を塗りたい。


 立春に萌える若草の色。朝露に濡れる木の葉の色。もしくは、輝くエメラルド。自然そのものであるこの色は、人をリラックスさせ、焦る僕の心も少しは鎮めてくれるだろう。


 自然の象徴たる緑を四番目に配置すれば、見た人が、信号機で刷り込まれた「進め」のイメージに、従ってくれるかもしれない。


 次は紺色だ。暖色系の色ばかりでは、少し押しつけがましいから、ここで一歩引いて、寒色系の色を加えたい。


 澄んだ海の色。夜明け前の空の色。もしくは、眩いサファイア。まるでおろしたてのジーンズのように、海と空はどんな景色にも調和する。


 調和の象徴たる紺色を、五番目に配置すれば、その深度に、通りがかった船も吸い込まれそうだ。


 最後は紫色だ。最後には一番僕たちに馴染みのない色を入れて、通り過ぎる人たちの目を引き付けたい。


 地面に小さく咲くスミレの色。初夏に実をつける藤の色。もしくは、鮮明なアメジスト。この国では、昔から紫は高貴な意味を持ってきた。冠位十二階の最高位は濃い紫だったし、仏教でも仏が乗ってやって来る雲は紫雲と呼ばれる。精神性が高いと、言い換えられるだろう。


 精神の象徴たる紫を最後に配置すれば、見慣れなさに注目が集まるかもしれない。


 さて、僕の手元には六色の絵の具で塗った布地がある。色濃く、互いが自分の存在をめいめいに、声高に主張している。それは喧嘩ではなく、手を取り合う姿勢だ。


 僕はこの六色の結合を、頭上に思いきり振りかざそう。誰からでも見えるように、縦横無尽に振り回そう。通過していく船に、ヘリコプターに、衛星に、僕の生存を見せつけてやるのだ。


 僕だけではない。あちこちで膝を抱えて、うずくまっている人たちが、同じ旗を振り上げて、ここにいることを示している。


 見えるはずもないのに、僕は自分が月にでもなって、地球を眺めているという確信があった。土に埋もれた砂金たちが、徐々に存在を露わにしている。光に照らせば、キラキラと輝きそうだ。


 立ち上がってくれた人たちを、僕は誇らしく思う。僕たちは、誇り高き実在なのだ。


 だから、六色の旗を突き上げて、僕たちは叫ぶ。目隠しをしている人間にも、聞こえるように。


 僕たちを見てくれ。


 僕たちに気づいてくれ。


 僕たちを知ってくれ。


 僕たちを感じてくれ。


 僕たちを認めてくれ。


 僕たちは手が千切れるほど、旗を振り回す。腕は張って、肩はしきりに悲鳴を上げている。


 しかし、僕たちは信じている。ここが限界ではないことを。


 僕たちの喉は、まだまだ声を張り上げられる。


 僕たちの耳は、まだまだ人々の声を捉えられる。


 僕たちの目は、まだ希望を失っていない。


 うずくまっていては何も変わらないし、何も動き出さない。僕たちに与えられた身体を目一杯使う。それしか方法はないのだ。


 僕は、僕たちは、昨日は誰にも選ばれなかった。一昨日も、その前の日も、いやもしかしたら気づいたときには、選択肢から外されていたのかもしれない。


 だけれど、今までがそうだったからといって、明日が同じとなぜ言い切れる? 


 一億分の一にも満たない確率でも、僕たちは選ばれる明日を待っている。望んでいる。信じている。


 希望は人を立ち上がらせてくれる。あなたは自分の力だけで、立っていると思っているかもしれない。だけれど、あなただって将来に希望を抱いて、なんとか自分を奮い立たせてきたはずだ。


 今の僕たちに与えられた希望という添え木はとても貧相で、今にも折れてしまいそうだ。


 だから、どうか、手を差し伸べてはくれないだろうか。旗を振る手首を、強く握ってはくれないだろうか。


 そうすれば、僕たちは上を向いて、立つことができる。こんな小さい島に留まっていないで、歩き出すこともできるだろう。


 僕はいつかその日が来ることを信じている。


 そして、その日が明日であることを願っているのだ。



(完)

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