藁をも掴みたい。
いつまでも腐っていられないと立ち上がってから、夫が念の為にと置いていってくれた、防衛用の長くて非常に重い警察官の懐中電灯。それをメインウェポンにする事にして、常に手に取れる所に置いて生活を落ち着かせていた。
日が出ているうちに家事をしつつ、ごまちゃんと遊びながら身体を動かす。しっかり運動しておいて、万が一、いざと言う時にごまちゃんを抱えて逃げられるようにしている。この行動が意外にも気持ちを沈ませる事を止め、常にポジティブに行動出来る事が心底助かっていた。
そして夜になると、家の電気を点けずに息を潜めて過ごす。相変わらず原因は不明だけど、ライフラインは生きていて水も電気も通っている。正直かなり怖いけど、やっぱりシャワーやトイレ、スマホが使えるのはありがたい事だった。
布団に包まり、愛犬を抱きながら震えそうになる手を叱咤して、未だに何の音沙汰もない夫の通信アプリに、いつものメッセージを一言送る。それが済むと、うっすら滲む涙を拭って目を閉じる。そうして朝には全てが解決していますように。そうじゃなくても、夫の無事が分かりますように、私もごまちゃんも無事に生きられますように。とたくさんの事を祈りながら眠りにつくのが、大まかな1日の流れだった。
パンデミック発生から既に2ヶ月。こんな田舎でも、叫び声や怒声が聞こえる事がある。窓から下を見ると、感染者と思われる人が歩いていて、外に出ることはやはり難しそうだ。
今のところ、なんとか食べ物をかなり節約して、細々と繋いでいる為に持っているけど、こんな日が続くならやはり考えなければならない。この近所の人達がSNSで作っているアカウントを確認すると、スーパーやショッピングセンターで籠城しているグループもあるらしい。
でもそんな人々の中からも、やはり感染者は出る。初期症状である突然の行動停止、及び意思疎通不可が起こると、非常に酷な事だが感染者が動けないうちに外へ出しているという。日常で考えれば、人の心は無いのかと思われてしまいがちである。でもたくさんの非感染者を守る為には、鬼になる事も必要なのだと痛感させられた。
ただ、最近になってとても気になるニュースが入ってきた。それは、感染者は攻撃衝動を抱かずに数日経つと、まるで眠るように息を引き取るという事だった。にわかには信じられない。
だが実例としてとある一家が、初期症状が出てしまった家族を見捨てられず、他の家族や他人を傷付けるぐらいならと、動けないうちに、痛む心を見ないようにして手足を縛り、目隠しをして納屋に閉じ込めたというもの。食事はしないと分かっていても、もしかしたらという期待を抱いて、毎日食料を隙間から入れる時に様子を見ていると、5日程して動かなくなってしまったらしい。そうして心を痛めながら、更に数日様子を見ていると、ふつうの人間や動物のように、土へ還る準備をし始めたという。それにより家族が畑の一角に穴を掘り、丁重に埋葬して数日経っても、這い出てくる等という事もないそうだ。
テレビは放送してないが、1日20分ほどSNSの動きなどを流してくれる。その中にその情報があった。そして私のSNSにもそれは通知されている。驚く事に、その情報を知った人達が実践した所、それは事実だったと言うのである。
重要なのは、攻撃衝動を抱かせない事ではないか。というのが、今のところ最も説得力のある仮説だった。感染者は、視界に入った人間を攻撃するらしく、入らなければ物音がしても、取り立てて確認しに行く事もないという実験結果を出した人までいる。
この事から、かなり説得力のある仮説であり、信じてもいいのではないかと思う。土に埋葬出来る家庭の方が少ないこの時代、それが大きな課題ではあるが、少しの光明が見えた事もまた事実だろう。ただここで気をつけるべきなのは、この方法を行えるのは初期症状を発した感染者のみであるという事。
既に完全発症し、外に出てしまっている感染者には非常に難しい。拘束して袋を被せてしまえばいい、などという意見もあるが、視界を奪われてからどれ程で攻撃衝動が収まるのかは、分かっていないのである。
そもそも完全発症者は男女問わず力が増し、武装していてもあまり意味を成さないとされていて、近付く事も難しい。これでは実験するにしても、一般人は当然だが、警察官や自衛隊も苦戦を強いられる事だろう。
けれども、初期症状が出た感染者だけでも対応出来る事が分かり、SNSを中心とした人々は喜んでいた。感染してしまった人を治療する事が出来ず、ひっそりと息を引き取らせる事しか方法が無いというのが、私にはどうしても悲しかった。他にどうする事も出来ないし、まるで殺戮マシーンのようになってしまうくらいなら、初期症状のうちにひっそりと対処するという事が、間違っていないというのもしっかり理解しているつもりだ。
私だってもし感染してしまったら。誰かを、大切な人達を、愛した人を傷つけてしまうくらいなら、ひっそりと殺してほしいと思う。でもそれでも、と思ってしまう私は鬼になりきれず、いざという時に動けないかもしれない。だから、だからどうか、感染源が早く解明されますように。と祈る事も日課として付け加えられるようになったのである。