たとえ束の間の幸せだとしても。
妻視点です。
久しぶりに家から出ると、感染者や被害者の遺体が無いとはいえ、ゴミや血痕があったりして荒れていた。それを2階の玄関から見つめ、恐怖と不安から脚が震えるけれども一歩踏み出したのである。
アパートを出て、左に曲がればあとは真っ直ぐ進むだけ。このたった200m程の距離がこんなにも遠く感じるなんて、想像した事もなかったな。そう思いつつ、視界の隅で一瞬捉えた警察署を驚きのあまり二度見するが、やはりさっきと何も変わらない。いつの間に張られたのか、映画で見るようなしっかりした大きなバリケードに囲まれており、気合いで乗り越えるなんて出来るわけもない。小柄な身体を活かして隙間から入ったり出来ればと思っていたが、不可能そうだと諦めた。
「なんとか入られたらいいねえ。大丈夫、お母さんがいるよ。」
久しぶりに外に出たからか、少し怖いようで震えている愛犬の頭を撫でながら話し掛けると、安心したようにこちらを見てくれた。それに私も口角が上がり、微笑みつつも立ち止まっていた脚を再び動かして歩き出す。
その時なんとなく視線を感じて周りを見ると、近くの民家の2階の窓から小学生ぐらいの女の子がこちらを見ていた。やはり私のように少しやつれているようで、当然だが元気がない。通常なら学校に行ったり友達と遊んだり、家族と出掛けたり等していただろうに。
お互いに数秒見つめあっていたが、どうにも切ない気持ちが込み上げて収まらずにリュックのサイドポケットに手を入れると、空腹による低血糖を防ぐためにずっと取っておいた飴を取り出す。昔から大好きな変わらぬ味のみぞれ玉。最初だけザラメが痛いけれども、それが溶けた後のツルリとした舌触りと優しい甘さがクセになるこれを、一度ギュッと手のひらで握ると、右の指先で掴んで女の子に向かってゆっくりと振る。
そうして左手で、『窓を開けて』というジェスチャーをすると、意図を察した女の子がソロソロと開けてくれ、しっかり狙いを定めると大きく振りかぶって投げた。しっかり窓の中に入り、慌てて拾いに行った女の子がそれを掴みつつ、笑顔でこちらを見てくれたのである。私も思わず笑顔になり、お互いに手を振りあったのを最後に再び歩き出す。こうして気にかけるのは良くないのかもしれないし、飴1個じゃなんの足しにもならないだろう。だけどそれでも、一時でもたった一瞬でも、こんな現状をを忘れられるならいい。そんな思いでいっぱいだったのだ。
日頃ごまちゃんと遊びつつ割としっかり運動出来ていたのが功を奏したのか、足腰がしっかり動いてくれているし肩も悪くない。これなら頑張れば万が一、夫に会えず追われた場合も逃走出来るかもしれない。無理だろうけども。そんな事を思いつつしっかりした足取りで進むと、目の前に聳え立つバリケードの威圧に怯んでしまって立ち止まる。
「……どうしよ、ごまちゃん。」
ポロリと口から出た本音は、壁に当たって砕けて消えてしまった。どこかに接続部や連絡用の無線機があるかもしれない、そう思って愛犬を撫でつつ壁沿いにゆっくり歩く。見た目がかわいくて靴だけ大好きなこのブランドは、正直いうと長時間履くにはあまり向いていないが、夫がかわいくて似合うと言ってくれた事を思い出して履いてきてしまった。馬に股がった男性のシルエットの白いハイカットスニーカーは大のお気に入りで、たくさん履いたために気を付けていても少し汚れてしまっているが、それでも大事にしていたからか目立つわけではない。チラッと見たそれはやはりかわいくて、一歩一歩しっかり踏みしめると薄めのソールで直に地面を踏んでいるかのようである。
そうして進んでいると、中間地点を大分過ぎたほぼ端っこに人一人が通れるぐらいのドアがあった。こちらからは開けられないタイプのようで、インターホンも付いていない。どうするか愛犬を撫でながら思案していると、上に小さな監視カメラを発見したので、とりあえず会釈をしてみた。
すると5分程して、向こう側に人の気配がして話し声も聞こえてくる。なんとなく緊張してきて姿勢を正すと、ほとんど無意識に愛犬の頭を撫でちらかしていた。なかなか話しかけられない事に焦れてしまい、こちらから強めにノックをする事にしたのだが。指の関節でドアを叩くのは物理的に折れそうだったため、握りこぶしで叩いてみたのである。
「どうされましたか。」
ようやく聞こえてきた言葉がそれであり、他には何も無い。しかも不機嫌な事を隠す気も無いようで、ぶっきらぼうに吐き捨てられてしまえば、私の怒りはなかなかのものである。確かにパンデミックが発生しており、常に警戒しなければならない事は百も承知だが、それにしたってどう見ても自我がある相手を数分放置した後の言葉がそれなのか。だから私も感情を隠す事もせずに、
「この中にいる夫に用があって来たんですが。中に入れてもらえませんかねえ?開けてくれるまでドアを蹴りますが。」
よく通ると言われる高めの声を大きく出して宣言すると、向こう側がまた少しザワザワしていたが、「ご主人の名前は?」と戸惑ったような声で問われたので、「交通課の柿崎警部補ですが。」と大きな声で答えた。
すると途端に騒がしくなり、「奥さんらしいぞ。」「早く呼んでこい面倒な事になる!」「呼ぶより無線しろ急げ!!」というやり取りがまるっきり聞こえる。いいから開けてくれないかなあ、と思いつつドアを蹴ろうか迷っていたら、ガコンッという大きめの音と共にドアが開いた。
「すみません、まさか柿崎警部補の奥様だとは思わず。どうぞドアの内側へ。」
完全装備し、粉塵用の丸いマスクをした男性が招き入れてくれ、ようやく入る事が出来た。自分が感染者であり、完全適合者と呼ばれた事など忘れてしまう程に怒っていた私は、キャップを外さずにサッと頭を下げて「どうも。」と挨拶すると中に入った。そこは普段なら駐車場の部分で、警察署の裏口に割と近い所であった。
深く被ったキャップの隙間から覗くと、ドアの近くには同じように武装した数人がおり、その他にはバリケードを中心に点々と警備している人が見える。それから動かしていた首を正面に戻すと、気まずそうに立っている黒ずくめの男性と目が合ったため、じっと見て観察すると目を逸らして決して合わせようとしない。そこでやっと自分の見た目が感染者であると思い出し、慌ててキャップを引っ張って下を向いたのだった。
そんな時、突然裏口の辺りが騒がしくなったと思うと、ドタバタと数人が押さえたり押したりして揉めているのが見えた。「ええ……。」思わず出てしまった声に正面の黒ずくめの男性が反応し、「こうなると思いました。」とポソリと答えてくれたのだが、私には理由がよく分からなかった。
そうして周りを押し切って抜けてきた1人。その後を2人が必死で、「せめて防弾ベストを着ろ!!」などと叫びながら追っているのも気付かない程に、走ってくる長身で細身の見慣れたシルエットの男性しか見ていなかった。少し遠くても分かる、分かってしまうその姿。少し、あなたも痩せてしまったようだ。それから疲れているのが分かり、あんまり寝られてないんだと察する。
ああ、生きていた、信じていたけどこの目で見るまで、本当はすごく不安だった。私を置いてどこにも行かないと分かっていても、それでも不安で怖くて寂しくて、苦しくて仕方がなかったのだ。
それは完全に無意識だったが、私の脚は夫に向かって走り出す。視界は既に涙でぼやけ、瞬きを繰り返して頬に流しても、またすぐにあふれてしまって意味がない、キャップはポロリと落ちてしまった。それでも瞬きを繰り返しながら、必死でこちらに向かってくる夫に手を伸ばしながら走る。
まるでスローモーションのようだった。夫も泣いており、雫が風に散って飛んでいく。綺麗だなと思う余裕さえなく、私たちは手を伸ばし合い、背骨が折れるかと思う程の力でしっかり抱きしめてくれた彼の背中を、愛犬の抱っこ紐を押さえていない右手で必死に掴んだ。
「……蘭、蘭、ああ、本当に蘭だ。俺の蘭がいる。こんなに痩せて……蘭、かわいい蘭……!!」
そうして絞り出したように掠れた声で、彼は何度も私の名を呼ぶ。他の言葉なんて忘れてしまったかのように、ひたすら繰り返しながら旋毛に温もりが降ってくる。名前を呼ぶ度に降る優しく温かな雨に、堪えていた声が抑えられず、まるで子どものように泣いてしまった。
ねえ会いたかった、会いたかったんだよ、本当に心からずっと。心底心配していたの。ごはん食べてるかな、怪我してないかな、そんな風に毎日毎日気にしてたんだよ。でもそれでも、そんな事よりも生きていてくれてありがとう。ただそれだけでこんなにも嬉しいなんて。
言葉に出せずただ苦しげに泣く私を、フッと笑いながら頭を撫でてスッポリ覆うように抱きしめ直すと、再び旋毛に唇の雨を降らす。必死で掴んだままの右手を、身長差のせいで腰の辺りにしか腕が回らないが、それでも強く巻き付けてその温もりに甘えた。それが嬉しかったようで、耳元でたくさんたくさん愛を囁いてくれる。それがあまりにいつも通りで、思わず涙で濡れたままの顔を上げて破顔してしまった。
すると途端に夫が動きをガチッと止め、真顔で私の顔を見つめてくる。あまりにも食い入るように涙で濡れた顔のまま迫ってくるので、思わず身じろぐがしっかり押さえられており無理だった。もしかして顔が真っ白で、黒目が真紅に変わっているのに気付いて固まってしまったのかもしれない。私は慌てて首を動かすと、3m程後ろに落ちているキャップを見付けた。
「けんちゃん、ちょっと放して?帽子拾ってくる。」
泣きすぎて掠れた声で伝えるが、全く放してくれないし、見つめ続けられているのが気まずい。やっぱり感染者になってしまった事、すごくショックだろうし悲しいよねと思って俯くと、夫の後ろから遠慮がちな声がした。
「……奥さん、無事で良かったです。」
その声はきっと松村課長だ、と思って顔を出して挨拶しようとしたら、グンッと顔を夫の胸に押し付けられたではないか。抗議の声も上げられずに慌てていると、「お前なあ……。」と呆れている声が聞こえ、やはりどうにかしてご挨拶しなければと必死で思案していると、ごまちゃんがグーッと短い前足を伸ばして夫を放そうとしている。きっと苦しいのだろう。
「ねえ、ごまちゃんが苦しいって。ちょっとだけ放して?すぐ帽子持って戻ってくるから。」
無理やり顔を上げると、手を伸ばして宥めるように左頬を撫でつつ言うが、うっとりした表情で私の右手に自分の左手を重ねてしまった。さらに押し付けるように頬を擦り付けてきて、全く放してくれる気配がない。この間にも愛犬が一生懸命に前足を伸ばしており、あまりの必死さに私もだんだん焦りが増してくる。ワタワタとしていると、手に押付けていた頬をずらして手のひらに唇を当てて、時折舐めてくるのがくすぐったい。相変わらず顔はうっとりしていて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
「おい柿崎、お前いい加減にしろよ。見せ付けやがって……。」
遂に我慢の限界が来たらしい松村課長が、もう一人の同僚の方とベリッと引き剥がしてくれたため、急いで後ろにあるキャップを拾いに走った。すると夫もピッタリついてきて拾った直後に再び抱き込まれると、目深にキャップを被せられたのだった。そうして後ろのスナップバック部分から丁寧にポニーテールを取り出して撫でてくれたのである。
「あの、ご挨拶もせずに失礼いたしました。柿崎の妻の蘭と申します。主人がお世話になっております。」
隙をついてサッと振り向くと、ようやくペコリとお辞儀をして挨拶をした。すると2人ともにこやかに挨拶を返してくれたが、ずっとポニーテールをいじっていた夫に、すぐさま顔を隠すように胸に押し付けられる。急すぎて愛犬を守る事に集中してしまった結果、自分が盛大に顔をぶつけて呼吸がしづらいという状況に陥った。
「ええと、相変わらず奥さん強火だなお前は。ではこちらへどうぞ、話があるんでしょう?」
やはり少し呆れた様子の松村課長に促され、夫に右手で右手を掴まれつつ、左手で左肩をしっかりホールドされた状態で一緒に裏口から署内に入ると、取調室を一部屋借りたのである。そうして入ってすぐ、膝の上に乗せて座ろうとされたが断固拒否したため、しぶしぶ椅子を持ってきて隣同士で座ったが、当たり前のように腰に手を回したままである。向かいに座った松村課長の同僚の方が、
「ここは話が漏れないので大丈夫です。よくある隣の部屋から覗かれるとか、録音されるなんて事はありませんのでご安心ください。それから、私は同僚で警部補の西野と申します。」
と丁寧に説明して名前も教えてくれたので、ペコリと頭を下げつつ、しっかり話そうと心に決めたのである。だがしかしどこから話そう、どう説明したらいいんだろうと悩み、不満そうに夫を睨んでいる愛犬を撫でて思案していると、ずっと口角を上げてこちらを見ながら腰を親指でさすっていた夫が、わざわざ耳元に近付いて口を開く。それは私にはあまりにも衝撃であった。
「蘭、完全適合者なの?」
息が耳にかかってくすぐったいとか、言った後に唇が当たりそうな距離で微笑みながら見つめてくるとか、そんな事は今気にならない程に驚愕して固まってしまった。どうして知ってるのだろう、いつから知っている?思考は完全に混乱して働く事が出来なくなっていたのである。
しかしそんな事はお見通しの夫が右手で私の左頬を撫でながら、「大丈夫、俺を見て。」と言って目を合わせてくる。目深に被ったキャップの隙間から見える夫の目は、いつも通りオニキスのように黒くて綺麗で、どこか仄暗い熱を持っていて。じっと見つめていると、固まっていた思考がゆっくりと動き始めた。
それから込み上げる涙をそのまま流し、愛犬を撫でていた手を止めると、キャップを外して他の2人に肌の色と目を見せたのである。すると向かいの2人が驚きつつも、納得したように頷いたので、ああこの3人は既に知っているんだなと思った。何故知っているのかは分からないが、これなら説明がしやすいだろう。そうして意を決して経緯などを話すために口を開こうとした時、夫によってキャップをギュッと被せられて驚いてしまった。
「蘭はかわいいからね、ちゃんと隠して仕舞わないと。」
そう言って微笑む彼の言葉の最後が、不穏な漢字に思えたのは気のせいだろう。だから「そう言うのはけんちゃんだけでしょ。」とムスッとして返したわけだが、お陰で緊張がほぐれたので落ち着いて話せそうだ。そう思って改めて夫に微笑んで感謝を伝えると、「ぐぅぅぅ……。」と唸りながら真顔でこちらを見てくる。夫はしょっちゅうこの状態になるので私はまたかと思うだけだが、課長さんと西野警部補さんは衝撃を受けた後にやはり呆れたのであった。
「おい柿崎、世界で唯一であり最愛の奥さんにようやく会えてテンションが上がってるのは分かるが、これじゃあ話し合いにならないだろうが。見せつけやがって、いい加減にしないと放り出すぞ。」
呆れを通り越してイライラし始めた課長さんがそう言うと、夫は近づけていた顔をしぶしぶ離して隣に座り直した。だがやはり左手は私の腰を撫でたままであるが。
「とりあえず、俺達が何故完全適合者であると知っているかという事は、いろいろとややこしいので後で話しましょう。まずは柿崎を落ち着けるためにも、奥さんが話してくださると助かります。」
西野警部補さんが冷静にそう言ってくれたので、愛犬を撫でてからニコリと微笑み、今度こそ説明しようと口を開く。もちろん隣の夫が黙っておらず、グンッと腰を寄せてきたが気にせず話すつもりだ。キリがないから。
だがしかしその時、聞き慣れない音が放送で流れたので、驚きのあまり夫に右手でしがみつくと、嬉しそうにしながら「大丈夫、俺達に合わせて。」と言って横からギュッとしてくれたが、これに関しては誰も何も言わなかった。
「今から署長が見回りに来る。恐らく民間人ではあるが、柿崎の妻が署内に入ったときいて確認しに来るんだろう。あなたは夫を頼って避難してきたという体で話を合わせてください。大丈夫です。」
課長が立ち上がりながら説明してくれたが、心臓がものすごい速さで激しく動くあまり、過呼吸気味になってしまった。せっかくここまで来たのに、私は追い出されるんだろうか。やっと会えた夫と再び引き離されるんだろうか。そんなのは嫌だ、絶対に。確かに愛犬を託して、私はなんとか得体の知れない相手と戦おうとしていたけど、やっぱり夫に会えた事で離れがたくなってしまったのだ。自分がこんなに弱かっただなんて。悲しくなって過呼吸が悪化しかけていたが、「蘭、ほら見て。大丈夫、俺を見て。」と言って背中をさすって頭を撫でてくれる夫の温もりに、変わらず綺麗なその目に、ゆっくりと落ち着きを取り戻していったのだった。
とりあえず話し合いは、署長をなんとかしなければならないだろう。追い出されるわけにも、感染者であるとバレるわけにもいかない。キャップのツバを掴みながら俯くが、すぐに撫でて抱きしめる力を強める夫のお陰で私は一人じゃないと改めて思い、必死で頑張ろうと思えたのである。だって私は、愛犬と夫の温もりを失いたくないのだから。




