2.暴露
と、晃飛がやや口ごもった。
「さっき君、おかしくなってたって言ったけどさ。もう大丈夫なの?」
「……多分。まだちょっと思い出せないこともあるみたい、ですけど」
「そっか。あのさ……実はそれ、俺もだから」
「え? 晃兄、いえ、晃飛さんも? それってどういう意味ですか」
二人の視線が間近でかち合った瞬間、晃飛の頬がうっすらと朱に染まった。戸惑うように視線をさ迷わせるその目元も幾分か赤くなっている。
「妹が何を覚えているか分からないけどさ……。その……俺、さ。君のことを嫁だってあの女に……芙蓉に言っちゃっただろう?」
「……あ、はい」
そういえばそんなことも、あった。
女嫌いの晃飛が実の母親に対してそんな嘘をついていたことを、珪己は今更ながら思い出す。
「でも、どうしてそんな嘘をつく必要があったんでしたっけ?」
理由の方は思い出せず、顎に手をあてて考え込み出した珪己に、
「ごめんっ」
晃飛が突如その頭を深々と下げた。
「どど、どうしたんですか?」
「思い出す前に言っておく」
頭を下げたままで晃飛が一気に打ち明けた。
「俺、君にだいぶべたべたしていたみたいなんだ」
「べたべた?」
「夫婦っぽいことをしてたってこと」
「……え?」
(夫婦っぽいことって……何?)
言葉を失った珪己に、顔を上げた晃飛がわたわたと両手を振った。
「あ、そんなすごいことはしてないよ? いわゆる変なことは一切してないからね!」
数拍遅れて、珪己の顔も晃飛のように赤く染まっていった。
「……そ、そうなんですか」
「う、うん。そうなんだ」
お互い目を合わせることができなくなっている。
「……だから、さ。これからいろいろ思い出すかもしれないけど、それ全部、俺も変になってたせいだから。だから忘れてほしいっつーか……気にしないでほしいっつーか。ほら、俺って女が嫌いでしょ? だから正気じゃなかったんだ。君なら分かるよね?」
「わ、分かります」
それは珪己と再会したらすぐに提案しようと晃飛が決めていたことだった。
過去に起こったことは事実として残ってしまっているが、当事者間で無意味だと決めつけてしまえばいいだろう。いや、そういうことにしてしまう方がいい。
幸いにも、晃飛には「女嫌い」という立派な盾がある。
「……もしかして。私も何か変なことをしちゃいましたか?」
珪己は訊ねたものの、「やっぱりいいです」と、自らその問いを取り消した。
「自己嫌悪に陥りそうだし、引きずりそうだし、聞かないでおきます。それより、どうして私達はおかしくなっちゃったんでしょうね。私の記憶だと、仁威さんがいなくなってしまったところで……」
その男の名を出した途端、珪己の声が小さくなった。
「……あの。仁威さんは今、どこにいますか」
気になることはたくさんあるが――やはり仁威のことが一番気になる。
これに晃飛が真顔になった。
「俺も仁兄とは連絡がとれていないんだ」
「そう……なんですか」
「連絡できるような状況でもないだろうし、こればっかりは仕方ないよ。でもそろそろ戻ってくると思うんだ。あ、仁兄がどうしていなくなってしまったのか、覚えてる?」
「……覚えています」
分かりきった悲しい事実を突きつけられつつも、「そろそろ戻ってくるはず」と明言されたことで、珪己は我慢していた息をようやく吐きだすことができた。綿毛をいくつも集めたような白い呼気は、生まれてすぐに夜の空気に溶けていった。
(そろそろ戻ってきてくれるんだ……)
それが本当ならば、ここにいれば仁威に会えるということだ。
二度と会えないかもしれないとまで思いつめていたからこそ、推測の域を出ない晃飛の言葉一つで珪己は十分に満たされていった。
と、その珪己の姿勢がすっと正された。
「私、晃飛さんに言わなくてはいけないことがあるんです」
どうして無理をしてまで真冬の下山を敢行したのか。その目的はいくつもあるが、仁威のことが分かれば、次にすべきこととは――これだ。
「な、なに?」
急にあらたまった珪己に、晃飛もまた背筋を伸ばした。
そんな晃飛のことを、珪己はまっすぐに見つめ、言った。
「私、この子は自分で育てます」
両手は無意識に腹に触れている。
「だから他の人にあげたりはしません」
「……いいの? それで」
こくりとうなずいた珪己に、晃飛はそれでも薄情な言葉を敢えてぶつけた。
「赤ちゃんがいたらさ、君は仁兄との恋をあきらめなくちゃいけないかもしれないよ。それでもいいの?」
この発言には仁威を貶める意図はない。仁威ほど非道という言葉が似合わない男はいないからだ。ただ、可能性の一つとして述べているだけのことである。
放浪の果てにこの家に戻ってきて、好きな女が自分以外の男との間に成した赤子を抱いていたら――どんな男だって驚くし、衝撃を受けるだろう。あんなに男を知らなそうな風だったのに、様々な段階をすっ飛ばして身ごもっていたら――たとえどんなに好きな女だったとしても、恋を継続することは難しいのではないか?
そう晃飛は思うのだ。
「それに君のお偉いお父様がどれだけ落胆するかも分かってるよね」
晃飛のその一言に、覚悟を決めた者特有の珪己の表情が少し崩れた。
「……落胆、はしないと思います。そうすべきだと肯定してくれるはずです」
「君の親ってそんなにできた人間なの?」
思わず珪己ににじり寄ってしまったのは不安を覚えたからだ。元々超がつくほど素直で純な子だが……それはいくらなんでも楽観的すぎないか、と。
「本当に大丈夫なの? だって君、枢密使の娘なんでしょ? そこらの貴族よりもよっぽどすごい家の人間なんでしょ? 皇族の次くらいに尊ばれている良家なんでしょ?」
ふいに珪己が泣きそうな顔になった。
うろたえる晃飛に、珪己がその揺れる瞳を向けた。
「多分、父様は喜んでくれます」
「……喜ぶ? 本気で言ってるの?」
「このお腹の子がその皇族の方の血を引いているとしたら……どうしますか」
静まり返った空間に、ごくりと、晃飛の喉が滑稽な音を立てて鳴った。
「……本当なの?」
じわり、と珪己の瞳に涙がたまった。
それで答えは十分に伝わった。
「それはまた……」
言いかけてとっさに口元を押さえた晃飛の行動は、もはや本能に近い。皇族とは神の子孫であり、皇帝とは神と意志疎通できる唯一の存在だとこの国では信じられているからだ。晃飛とて一庶民であるから、この国の常識としてそのことを疑ったことは一度もない。
先ほど皇族のことを軽く言葉に載せてみせたのは、珪己の真面目で頑なな頭をほぐしてやりたかった、それだけだったのだ。
なのに、まさか――。
(この蕾が少し綻んだ程度の妹が皇族の子を身ごもっているなんて――)