1.夜ばかりを思い出していた
目を覚ました珪己は、自分が懐かしい寝台に横たわっていることに気がついた。
(……そうだ。ここに帰ってきたんだ、私)
安堵で力の入りかけた体が緩やかに弛緩していく。
板をはめた窓の隙間から夜特有の闇がにじみ出ていて、今が真夜中であることが察せられた。だがよく眠れたせいだろう、すっかり目が覚めてしまった。
喉の渇きを覚えて起き上がろうとしたところ、電撃のごとき激痛に苛まれ、一瞬にして動きが止まった。
「いたた……っ」
うめき声が出た。ただ、腰の痛み以外は筋肉痛に他ならないことは自覚していたから、珪己は無理をして体を起こしていった。腹は痛くないし、胎動もきちんと感じられているから、赤子には何の問題もなさそうだ。
廊下に出ると、漂う空気の冷たさに心の臓がきゅっと縮んだ。屋外のように冷え切ってしまっている。床も裸足には氷のごとく冷たくて、思わず二度、三度と足踏みをしてしまった。とはいえ、珪己の足はすぐに歩み出した。これまで一度として立ち入ったことのない一室へと、迷いなく。
しかし、たどり着いた先、硬く閉じられた戸の奥からは何の気配も感じられなかった。
「あの……珪己です」
遠慮しつつも戸を開けたところ、やはりというべきか、暗い室内には誰もいなかった。部屋の主が半年間不在なことは、調度品にうっすらと積もる埃、それにこもった空気の質からも察せられた。
「やっぱり……。まだ戻ってきていないんだ……」
それは戸の前に立った瞬間から分かっていたことだった。
分かってはいたが……事実をこの目で確認すると、珪己はどうしようもなく悲しくなった。
名残惜しい思いをひきずりつつも部屋を出ると、ちょうど向こうから晃飛がやってくるのが見えた。……実際には木と木で打ち合う音が聴こえて珪己が部屋を出た結果だが。
音の正体は杖だ。腰の高さまである杖をつきつつ慎重に歩みを進めていた晃飛は、珪己の存在に気づくと動きを止めた。
軽く見開かれた目――それから静かな笑み。
それは珪己がこの部屋から出てきた意味を理解してのことだった。
「眠れないの?」
こくん、とうなずく。
「あっちに座ろうか」
庭に面する縁側に目線を向けた晃飛に、珪己は素直にもう一度うなずいた。
*
「もう年が明けるんですね」
会話は無難なところから始まった。
「そうだね」
二人の吐く息が口元で白く丸い形を作り、作っては――消えていく。
「あの……体調は大丈夫なんですか」
「だいぶよくなったよ。熱も下がってきたし、杖があれば家の中くらいなら歩ける」
病は気から、というのは晃飛によく当てはまるようで、珪己が戻ってくると知り、実際に再会し――この一日で面白いくらいに体調が良くなりつつあった。
「寒くないですか?」
「いいや。そんなに寒くないよ。それにちょうど新鮮な空気が吸いたい気分だったんだ」
身重の珪己と、片足が不自由な晃飛。
二人は操られていた季節のすべてをいまだ思い出せていない。
とはいえ、まさかこんなふうに二人きりの年明けを過ごすことになろうとは思ってもいなかった。星明りの眩しい空の下、雪が一面に積もる庭を眺めながら、不自由な体を寄せ合っているなどとは――。
「……ずっと夜を思い出してたんだよね。夜ばかりを」
ふいに晃飛がつぶやいた。
「夜……ですか」
「うん。君がいなくなりかけた夜と、君がいなくなった夜と」
小さく息をのんだ珪己に、晃飛がいつになくその目を柔らかく細めた。
「だからこうして君とここにいられることが本当に嬉しいんだ。今夜の思い出は……きっとずっと幸せな気持ちを呼び起こしてくれると思うから」
透威と真白の時とは違い、珪己は生きている。
生きてここにいるから――。
「晃兄……」
どれだけ心配をかけていたかを強く実感し、珪己は感極まり、それと同じくらい申し訳なく思った。
「すみません、勝手にいなくなってしまって……。実は私、ちょっとおかしくなっていたみたいなんです。この家を飛び出した後、なぜか北の方の山に迷い込んでしまって……。それで……」
これに晃飛はさして驚きもしなかった。
「氾空斗からだいたいのことは聞いているよ」
「空斗さんに、ですか? そういえば、晃兄と空斗さんってどういう関係なんですか」
「あいつには俺の介護をしてもらってるんだ」
「いつからそんなことになってるんですか?」
「今朝から、だね」
「……二人は前からの知り合いなんですか?」
「いいや? 今朝勝手にあいつが俺の家に来たんだよ」
それはまた不思議な偶然だと思ったが、珪己はすぐに真相を察した。空斗は自分のためにこの家に寄ったのだろう、と。それがきっかけだったのだろう、と。これは偶然ではなく優しさゆえの結果なのだ。
始終自分のことを気にかけてくれている空也とつい比較しがちだが、兄の空斗もまた心根の優しい青年なのだということを珪己はしみじみと感じた。
山道に倒れていた珪己を偶然拾った氾兄弟は、暴走した珪己に二度も攻撃されたというのに、今も見返りなしに親身になってくれている。
晃飛と、そして氾兄弟と。
開陽を出て以来、様々なことがあったけれど――その都度、様々な人から受けた親切は絶対に嫌な思い出にはしたくない、と珪己は思った。
「空斗さんの弟の空也さんがここまでついてきてくれたんですけど……もう帰ってしまいましたよね」
お礼も挨拶もしていないことが急に気になってきた。
これに晃飛がかすかに眉をひそめた。
「そいつもあいつと一緒にこの家に泊めさせている。あのさあ、俺、そこまで鬼畜じゃないよ? あの二人、君を世話してくれてたんだろ?」
「は、はい。二人は命の恩人なんです」
「恩人……か。まあ確かに、二人とも悪い奴じゃなさそうだね」
「晃兄っ!」
咎める珪己の口調に、なぜか晃飛が満たされたような笑みを浮かべた。
「だから俺のことは名前で呼べって言ってるでしょ」
珪己は知らなかったが、それは珪己が行方不明となって以来の心からの笑みだった。




