6.再会
揺れる馬車が止まった瞬間、身重とは思えない俊敏さで珪己が車内から飛び降りた。
「おい、待てって!」
制止する空也の言葉も聞かず、一目散に屋敷の中へと入っていく。
台所の方からやけにかぐわしい匂いがするが、気にも留めずに突き進んでいく。
向かう先は――これまで一度も入ったことのない晃飛の部屋だ。
「晃兄……っ!」
合図もなく思いきり戸を開けたのと、寝台で横になっていた晃飛が思いきり見開いた目を珪己に向けたのは――ほぼ同時だった。
晃飛はいまだ高熱にやられているし、今もうとうととしている最中だった。それでも、尋常でない気配を発する人間がこの部屋に近づいてきたことで本能的に目覚めたのだった。
珪己の姿をみとめた瞬間、晃飛の乾いた唇がひらかれた。
だが動いた唇の奥から声はなかなか出てこない。
先に声が出たのは珪己だった。
「晃兄……っ!」
しかし、再会の喜びは瞬きする間もなく終わってしまった。
今、珪己は驚きで顔色を失っている。
晃飛の様子があまりにも以前と違っていて驚かずにはいられなかったのである。大怪我とは聞いていたが――想像をはるかに超えた容態だ。
これに晃飛が無理して笑ってみせた。
「ちょっと、色々……あってね」
「ちょっとなんかじゃありませんっ!」
わざとらしく目線をそらした晃飛に駆け寄るや、珪己が切なげな目で見上げた。
「十番隊にやられたって聞きました……。すみません、私のせいですよね。私が迷惑かけたから、私が勝手にいなくなったりしたから……。だから……」
晃飛のそばに突っ伏した珪己は、やがてすすり泣き始めた。
「わ、私のせいです……。私が悪いんです……。私のせいで……晃兄が……」
いつからいたのだろう、開けっ放しの戸の前には空也と、そして空斗が集まっている。兄弟そろって夫婦と思われる男女の再会を息を殺して見守っている。声を掛けられる雰囲気ではなく、自分達兄弟の再会に驚き喜べる雰囲気でもなかった。
「……君は、大丈夫?」
静寂を破ったのは、晃飛の落ち着いた声だった。
「君は……もう大丈夫なの?」
話をすり替えるかのような言い方だったが、細めた目を向ける晃飛の表情は声音のとおりに柔らかなものになっていて――。
思いやりに溢れた瞳に見つめられていることに気づき、珪己はぐっと嗚咽をこらえた。
「私は……大丈夫です」
しゃくりあげそうになりながらもなんとか告げると、
「ずっと……心配してたんだからね」
目を伏せた晃飛のまつ毛がきらりと光り、震えた。
「心配、してたんだからね……。でもよかった……君が無事で」
心からの安堵の笑みを浮かべた晃飛に、珪己はこらえきれない涙を流した。
*
新しい年が来ようとする間際、氾兄弟は平行に並べられた敷布団の上に胡坐をかいて語り合っていた。
二人に与えられた部屋は晃飛の寝室の隣に位置しており、それなりに広い。だが、元々は荷物置き場として使われていた部屋だったから、掃除をして布団を運び入れるだけで相当に時間がかかってしまった。
そんな二人はようやくくつろぎの時間を得たばかりである。
「俺と弟で使っていい部屋を貸してくれないか」
あれから泣きながら眠ってしまった妊婦を寝室に運び終えた後、そう晃飛に頼んだのは空斗だ。
今から山奥の家に戻ることも不可能ではないが、晃飛の介護を請け負ってしまっているし、疲労困憊した妊婦のことも放っておけず――少なくとも数日はこの家に滞在する必要があると思ったのだ。
そう、少なくともここに残ると決めた理由の八割がたはこの夫婦のためだったのだ。親切心からくる提案でもあったのだ。それに屋敷のごときこの家には部屋が腐るほどあることも分かっていた。
これに晃飛は「俺の右隣の部屋が空いているぞ」と言った。
意外と信用されているんだな、と一瞬勘違いした空斗だったが、すぐに気がついた。信用していないからこその隣部屋なのだ、と。
だが能天気な弟はそんなことにまで気が回っていない。それどころか、「急に来た俺らを泊まらせてくれるなんて優しい人だな」と感謝の気持ちを抱く始末だ。まあ、そう思うならそう思わせておこう。それもまた弟のいいところなのだから。
二人は部屋の片付けをしながらこれまで離れていた間に起こった事柄について報告し合った。ただしその中には空斗と御史台との密会については含まれていない。そして今は今後のことについて話し合っている最中だった。
「な。明日、その産婆さんをここに呼んだ方がよくないか。珪亥のことも赤ちゃんのことも心配だしさ。念のために」
「そうだな。俺もそう思っていた」
「いやー、年明けから忙しいな」
そう言う空也は言葉とは正反対の晴れやかな表情をしている。誰かの役に立ちたい――そう本人が言っていたとおりに。
「しかし、この急展開はすごいな。まさか知らない人の家で年を越すことになるとは思ってなかったぜ」
「……あのさ」
「どした?」
「今言うことじゃないのかもしれないが……」
「なんだよ。言いにくいことなのか?」
「ああ、うん。……あのさ。そろそろあの山から下りてこの辺りに住まいを移さないか?」
そこでとってつけたように空斗が続けた。
「やっぱり冬を山で暮らすっていうのは厳しいものがあるしさ。せめて暖かくなるまでは街で住みたいなって……駄目か?」
恐る恐る訊ねると、意外にも空也は「いいんじゃない」とあっさりと受け入れた。
「俺もそう思ってたところだった」
「そうか」
見るからに空斗がほっとしたのは、侍御史の命令を全うできそうな見込みを得られたからだ。このひと月以内に山を下りて街で暮らせ――昨夜、そう命じられている。
「じゃあ、こっちにいる間に新居を探していいか。それから荷物を取りに一度戻ろう」
弟の気が変わらないうちにさっさと話を進めた方がいい。
やや焦る空斗の気持ちも露知らず、空也が一つ大きなあくびをした。
「だね。大したものはあっちにはないけど。ま、おいおい考えようぜ」
移動の際、退職金を含めた金子は常に二人で折半して身に着けているし、他に貴重品らしいものは保有していない。今、山奥の家に残されているものは、食料と寝具と数枚の衣服といったものだけだ。綿がふんだんに詰まった寝具は惜しいが、その他はどれもが失っても困らない程度のものだ。そう空也は思っている。
なのに、空斗の方はどうしても会話をやめられないでいる。
「面倒だから春までそのままにしておいてもいいが、それでも一度は戻りたいな」
これに空也は苦笑いを浮かべた。
「そうだな。でもさ、少なくとも寝具はあの家に置いておこうぜ。運び入れるのすごく大変だったし、あれと同じことをもう一回するのはちょっと嫌だなあ」
寝具の搬入を決行したのは秋の時分だったが、当時、まだ山に不慣れだったこともありひどく難儀をしたことを思い出す。紅葉に染まりつつある山道を、布団を入れた大きな風呂敷を背負って二人して汗をかきかき登ったのだ。
邂逅によって生まれた静寂の中、空也がぽつりとつぶやいた。
「……あの二人を再会させてあげられてほんとよかったよな」
それは空斗も同じ気持ちで、今日見たばかりの感動の場面を改めて思い起こしていった。
「でもあの二人の関係、不思議だったよな」
その疑問もまた同じだった。
なぜならば――。
「あの子、敬語を使ってたよな」
そう言った空也の声は隣室を気にして潜められている。
珪己は晃飛のことを『無事を知らせたい人』と二人に伝えていた。自分とどういった関係なのかは伝えず、ただそれだけを。
昨夜、御史台の官吏との密会で、空斗は晃飛のことを夫だと考えた。
だが先ほどの再会の場面では、珪己は晃飛のことを兄と呼んだ。
一体どちらが真実なのかは分からない。分からないが、いずれにせよ敬語を使うというのは不自然で……他にもまだこの二人には秘密がありそうだと思わせられたのだ。
しかも空也は覚えていた。山で熱を出して寝込んでいた際、珪己がうわ言で述べた男の名を。それは晃飛という名ではなかった。
「でもあの二人、お互いのことをすごく思いやっているみたいだよな。なにか複雑な関係なのかなあ。異性で義兄妹になるっていうのも珍しいし」
「あれ? お前はそういうことには首を突っ込まないことにしているんじゃなかったのか?」
兄の意地悪な指摘に空也が眉をしかめてみせた。
「あの二人については話は別だろ。ここまで関わったんだぜ? あの子にも情がうつってるし、知りたくなるのは当然だろ。兄貴だって俺と同じくせにさ」
これに空斗は苦笑し、そうすることで肯定した。
「……こうやって俺達、人に関わることを思い出していくのかもな」
感慨深い空斗の呟きに、空也が一度大きくまばたきをした。
*