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5.時の流れの早さに

 さて、舞台はまた零央に戻る。


 老婆は用事は終えたとばかりにさっさと帰ってしまい、晃飛の家には空斗だけが残っていた。


 満身創痍の青年、晃飛は今も寝台に横たわってはいるものの、その表情はここ数日の鬱屈さが嘘のように明るいものへと変貌している。理由はもちろん、あの一風変わった老婆の予言のせいだ。


「……もうすぐってさ。いつだろう……ね……」

「は?」


 晃飛の独り言に近い問いかけに、ちょうど室内に入ってきた空斗が怪訝な顔になった。その手に持っていた壺から寝台そばの台に置かれた椀に白湯を注ぎ入れつつ、怪我人かつ病人の顔色を伺うと、


「ばばあが……言ってたでしょ。もうすぐ戻ってくるっ……て」


 喜びを隠すことなく、晃飛が熱でやや潤んだ目を空斗へと向けた。


 出会った当初に空斗が感じた晃飛への恐れは、今はもう見当たらない。この男も自分と同じただの人間だと分かりさえすれば、むやみに恐れる必要はなくなってしまったのである。実際、排泄時に寝台から降りてよろよろと歩く様子は、全快にはほど遠い有様だった。


 ちなみに空斗がまだこの家に滞在しているのは、あの少女がここにやってくるらしい……からだ。妊婦一人を下山させるようなことをあの弟がさせるはずがなく――ならばここで二人の訪れを待つべきだと考えたのである。


 もう一つ、去り際の老婆から晃飛の介護を半ば強制的に押しつけられたのも理由だが……。


「お前……どう、思う?」


 お互いにもう相手の名前を知っているくせに「お前」呼ばわりする晃飛に、空斗は内心むっとしている。失礼な奴だ、と。


「あの体で本当に下山するなんて無謀なことをするとはいまだに思えないが」


 それでも空斗はつかの間熟慮し、答えた。


「それでもその覚悟を決めたとしたら、今日か明日の夕方にはここに来るんじゃないか」


 敬語を使う気はもう、さらさらない。


「どうしてそう、思うん、だ」

「この季節にあの娘に野宿をさせるようなことはしないからだ。下山するなら一気にやりきってしまうに決まっている」


 自分でも、そうする。


 明瞭にはじき出された到着時刻に、晃飛がほてった頬を緩めた。


 だがすぐにその表情を険しくさせた。


「そういう言い方、するなよな……」

「そういう言い方って?」

「あの娘、なんて言い方……するな」

「だったら本名を教えろよ」


 偽名なんだろ、と空斗が重ねて問うと、晃飛はわずかに眉を寄せ、その瞳を閉じた。


 しばらく待っていた空斗だったが、やがて晃飛の口元から規則正しい呼吸音が聞こえ出したことで、この青年が眠りについてしまったことを悟った。


「……まったく。なんて奴だ」


 晃飛の性格と、面倒なことに関わってしまった自分自身に呆れつつ、空斗は肩をすくめると晃飛の体に掛布を掛けてやった。



 *



 珪己と空也が山を下り終えて零央の街の片隅にたどり着いたのは、夕方にさしかかる頃合いだった。


 氾兄弟だけであれば雪道だとしてもここまで三刻もかからない。しかし妊婦との下山であれば慎重にならざるを得ず、結果、途中で長い休憩もとりつつの行程となったのであった。


 とはいえ、そこは兄の空斗が予想したとおりで明るいうちに街に出る必要もあったから、予定通り無事にここまでたどり着けたことで空也の肩の荷はだいぶ下りた。


「ここまで来ればもう大丈夫だな。……しっかし、兄貴の奴、どうしたんだろう」


 本来であれば、兄の方も今日の明るい時分には山奥の家に戻っているはずで、であれば下山の途中で兄と遭遇できるはずだったのだ。


 だが……。


 要所要所にある休憩地点には文を残している。だから、たとえどこかですれ違っても、兄の方から自分達を追いかけてきてくれると信じていたのだが……なぜかいまだに合流できていない。


 遭難するほどの豪雪でもなかったし、無事だとは思うのだが……。


「もう家に戻ったのかなあ」


 新春の祝いのために買い集めた物を、いったん家に置きに戻ったのかもしれない。


「それともまだ街にいるのかな。……いや、それはないよな」


 しばらくうだうだ考えていた空也だったが、とうとうこらえきれずに珪己に願った。


「あのさ。珪亥のことを家に送ったら、俺、そのまま帰っていいかな」


 まずは念のため、昨夜兄が泊まったはずの杜々屋に寄る。その後、まっすぐ山に帰りたい、と。


「今から動けば今日中には帰れるからさ」


 これに珪己は一抹の寂しさを感じた。ただ、それは自分の勝手だということも分かっていたので、「もちろんです」と答えた。


「年明けは大切な人と一緒に過ごしたいですもんね」


 言葉に出して、それは空也だけのことではないな、と珪己は思った。


 そう――珪己もまた自らの願いをかなえるためにこうして山を下りてきたのだから。


「おっ。あそこで馬車に乗れそうだぞ」


 空也の指さした方向には半ば朽ちた馬車一台と飼い葉を食む馬が二頭見えた。いかにも閑散としているが、それは徐夕ゆえのことだろう。年の瀬は屋内でのんびりと過ごすものだし、旅行者は首都以外では激減するのが一般的だ。


「あー、よかった。これでもう歩かなくて済むな」


 軽く肩を回す空也は、まだまだ元気そうだ。さすが、これから山まで戻ると言い出すだけはある。


 逆に珪己の方は、もう歩かなくてもいいと思った瞬間、ぎりぎりの淵にいた心がぷつっと切れたかのようにその場にへたり込んでしまった。


「……はあああ」


 全身筋肉痛なのはいい。足の裏にできた豆がつぶれて痛いのも、まだいい。増えた体重を支えてきた股関節が痛いのも、なんとか我慢できている。


 だが腰が痛いのは辛かった。前方に飛び出した腹のせいで体の重心がずれたことが原因だということは、痛みを感じはじめた頃には理解できていたのだが……対策方法などあるわけもなく……。


 身重の妊婦がここまで無事に来れたこと自体一種の賭けだったことを、珪己は身をもって実感した。どうしても下山したかったとはいえ、もう二度と同じ選択はできないだろうと思う。これは文字通り、命がけの行程だったのだ。


「おいおい、大丈夫かっ?」

「だ、大丈夫です……。でもちょっと……疲れちゃって」


 珪己が座り込んだ場所は道の端の方で、周囲には人影もない。


 誰の邪魔にもなりそうにないことを確認した空也は、「ちょっとそこで待ってろ。交渉したらすぐ戻ってくるから」と言うや、足早に目的の店へと入っていった。


 その戸が閉められ、往来に一人きりとなると、この灰色がかった街に不似合いな彩色の存在が珪己の心の琴線にちりちりと触れてきた。まだ荒い息をなだめながら辺りを見渡していくと、春節を祝う詩を書いた赤い紙、それに「福」の一字が大きく書かれた色鮮やかな布が至る所で目についた。通り一帯に春節を祝う飾りが賑々しく取り付けられているのだ。


 連なる店の軒下ではたはたと揺れる飾りに、珪己はどこか他人事のような感慨を抱いた。もう明日から新しい年になるのだな、と。季節の移り変わり、時の流れの速さに、心がついていくことができかねている。


 山の麓にたどり着いた頃から雪は止んでいる。なのに往来を歩く人を見かけないのは、屋内で年を越さんと待機しているからだ。開陽ならば、着火する直前の花火のような、前夜祭のような熱気をまとう人々があちらこちらでたむろする時間帯なのに――。


 零央という街には違う価値観、慣習が根付いている。


 だが新しい年が来れば、すぐそこには春が待っているのだ。それはどこに住んでいようと同じで、どのような冬であろうと、どのような春であろうと――季節は移り変わるものなのである。


 珪己にとっての怒涛の一年がようやく終わろうとしている。


 辛いばかりだった冬が終わろうとしている……その実感がひたひたと迫ってくる。


 やがて、大した時間もかけずに空也が店から出てきた。その後ろからぼんやりとした表情の男もついてくる。


「悪いな。徐夕だってのに」

「いやいや。お客さんは神様ですから」


 ぽりぽりと首の裏を掻く男は、本気でそう思っていないことは一目瞭然だ。くわあ、と大きな欠伸もするあたり、つい先ほどまで寝ていたのだろう。


 その、涙目になった男の視線が珪己の姿をとらえた。


「ありゃ?」


 半分閉じていた目が、みるみる開かれていく。


「牡丹色の外套、十代半ばの妊婦……! お前さん、呉珪亥っていうんじゃないか?」


 本能的に珪己の腰が後ろに引かれた。


 雪の積もる地についたままの尻が、じゃりっと音をたてる。


 声も出さずに見上げる男を凝視してしまったのは、相手の出方をうかがっているからだ。


 なぜこの偽名を見も知らぬ男が知っているのか? と。


「あ、あなたは……?」


 もしかしたら自分が覚えていないだけで、この人とは知り合いなのかもしれない。そう思いつつ慎重に訊ねると、男は質問に答えず、逆に「杜々屋が探してるのってお前さんだろ」と訊ね返してきた。


「杜々屋?」


 空也と珪己、二人の口から同時に同じ言葉が発せられた。


「どうしてだ?」


 続けて問いかけたのは空也だ。これに「やっぱそうなんだな」と、気の抜けた男の顔が見るからに綻んだ。


「あんたの旦那、すげえ探してたぞ」

「なんでそこは過去形なんだよ」


 やっぱり夫がいるんだな、と一つの事実を胸に留めつつ空也が放った当然の疑問――これに男の顔がなぜか曇った。


「ああ……。それはな」


 まだ地べたに座り込んだままの珪己を、口元を押さえながらちらりと見やった男は、やや逡巡したものの言った。


「あんたの旦那、大怪我を負ったらしいぞ」

「え……?」


 驚愕に珪己の思考が一瞬停止した。


 次に思ったことは「あの晃飛が?」という率直な感想だった。


 武芸の腕が立つあの晃飛が、どうして大怪我を負うことがあるのか……と。



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