4.弁明、涙
つかの間、三人の間に静寂が流れた。
「おやあ? 喜ばないのかい?」
にたりと笑った老婆に、空斗は申し訳ないと思いながらも否定した。
「それはないと思いますよ。今はあの娘……いや、この人の奥さんは山奥にいますから。身重の体では下山なんて不可能ですよ」
話しながらも晃飛の反応が気になり、空斗はちらちらと顔色を伺ってしまった。晃飛は唇を結び黙って話を聞いていたが、『身重の体』のところで表情を強張らせた。
「……あ、自己紹介が遅れました。俺は氾空斗といいます」
あわてて空斗は頭を下げた。
「実はあなたの奥さんと思われる女性は我が家に滞在していまして」
いよいよ表情が硬くなった晃飛に、空斗は弁明するかのように早口で語っていった。
「そう、ちょうどあなたとぶつかったあの日のことなんですよ。帰り道、山中で倒れているところを偶然発見したんです。ひどい吹雪だったこともあって、そのまま我が家に連れて帰り……そして今に至るというわけなんです」
この男の視線を受けていると、自分たち兄弟の方が悪いことをしているように錯覚してしまうのはなぜだろうか。死にもの狂いで安全な家に連れて帰ってやって、その後も当の妊婦に文字通り殺されかけたのはこっちだというのに――。
だがその鋭く射貫くような瞳と対峙していると、蛇に睨まれた鼠にでもなったかのように心身がすくんでしまうのだ。狐のような目をしていてもそれは形だけのこと、瞳孔の奥には鋭い牙がしっかりと見えている。
このような男が動く時――それは相手をかみ殺すべく牙をむく瞬間に他ならないのではないか。そんな物騒な想像を空斗がしてしまった直後、晃飛の片眉がぴくりと動いた。空斗の強い動揺を察したからだ。
「嘘ではありません」
無実を証明するためには言葉を重ねる他ない。
「連絡が遅くなってしまったことにもいろいろと理由があるんです。山の方ではひどい吹雪がずっと続いていましたし、奥さんは高熱で長い間寝込んでいたんですから」
乾いた唇をなめつつ、弁明のように語っていく。
「まともな会話ができるようになったのはここ数日のことなんですよ。そうそう、今日ここに来たのも奥さんからあなたのことを聞いたからで」
「……自分の名前、なんて言ってた?」
「名前? 名前は……」
迷ったが素直に答えた。
「呉珪亥、と」
「……そっか」
どこか痛むところがあるのか、晃飛がきつく瞼を閉じた。
「俺の、こと」
「はい?」
「俺の、こと……なんて言ってた……?」
「自分の無事を知らせたい人だと」
長い静寂をおいて、肺腑のすべての呼気を出し切るように、晃飛が深いため息をついた。
「元気……なのか」
「え? ああ、元気ですよ。奥さんもお腹の子も。って、妊娠については詳しくないから断言はできませんが」
もしものことがあった時のために、自分たち兄弟のために一応予防線を張っておく。不測の事態が生じた際に逆恨みされてはたまったものではないからだ。
「とはいえ、さっきも言ったように雪道を下山できるような体ではないですし、ご老体のおっしゃるようなことは起こらないと思います。俺の弟が……あ、今は俺の弟がそばについているんですけど、俺の弟がそんな無茶をゆるすはずもないですから」
だが、まだまだ言い足りない空斗の話を老婆が強引に遮った。
「いんやあ! 娘さんはもうすぐここに現れる。儂には分かるんだあ!」
「そう言われても……」
老婆の頑固さに空斗は内心呆れ、途方に暮れた。こういう年寄りには理屈が通じないし、かといって言い負かした方の勝ちというわけでもないからだ。さてどうしたものかと助けを求めて晃飛を見ると、晃飛は閉じたままの双眸、両の目尻に涙を光らせていた。
その輝く一滴が頬を滑っていく様は夜空を駆ける流れ星のようだった。
それはただの比喩ではなかった。老婆の予言は珪己が行方不明になって以来絶望の中さ迷っていた晃飛にもたらされた希望そのもの、闇夜に差し込んだ光そのものだったのである。
それまで身勝手な焦りでざわついていた空斗の心が、しん、と凪いだ。
大の男が、自分たちと同年代の男が――身を震わせ声もなく泣いている。
感動に打ち震えて泣いている……。
もうかけるべき言葉も、老婆を否定する言葉も――何も思い浮かばなかった。
*
その頃、零央の北に位置する山の中腹の洞窟では、珪己と空也が黙々と出立の準備をしていた。
一刻ほど眠ったらだいぶ体が楽になった。気力も戻った。焚火から放射される熱によって、凍えかけていた体もだいぶ回復した。
珪己の懐には布で何重にも包んだ小さな石が二つ入っている。仮眠前に空也が焚火に仕込んでおいたものだ。ちなみに、一般家庭では、この温石は冬の外出の必需品だったりする。……なのだが、実は珪己はこれまで温石を使ったことがなかった。
ここに晃飛がいたら「さすがお嬢様」と揶揄されるのだろう。
だがもういじけたり自分を卑下したりはしない。
「ぬるくなってきたら少しずつ布をはぐんだ。そうすると長い間温もりを感じられる」
丁寧な空也の説明に、珪己は真剣な面持ちでうなずいた。
「よし。じゃあそろそろ行くぞ」
少し名残惜しい思いで洞窟を出ると、二人は白い息を吐きながら山道を再び下り始めた。
木々に完全に覆われた世界に逆戻りだ。
それでも至る所、積もる雪に陽の光が反射してまぶしいほどだった。
きらきら、きらきら……。
あちらこちらで小さな鏡を置いたかのように光の粒子がはじけている。
つい視線をさ迷わせた珪己に、空也が振り返りもせずに忠告した。
「あんまり雪を見ないほうがいいぞ。目が焼けるから」
言われた通りに美しい光景から目を逸らすと、それ以降は前を歩く空也の足跡だけを注視することに専念した。
雪の上に残されていく空也の足跡には泥や土が混じっていて全然美しくない。だが力強い。この深く踏みしめられた足跡の連なりこそが自分を零央へと導いてくれるのだ。零央へ、晃飛の家へ――そして仁威の元へと。そう思うとまだまだ頑張れそうな気がした。どれほど寒くても辛くても、苦しくても、私は一人じゃない。この足跡についていけば、この道を進めば、必ず目的地にたどり着ける。これは永遠のことではない。だから頑張ろう、と。
ぎゅ、ぎゅ、と、雪を踏みしめる音だけが静寂の中に聴こえる。
懐では二つの石が心地良い熱を絶え間なく伝えてきて、それはまるで珪己の胸中にある希望を具現化するかのような温もりだった。
*