5.扉を開ければ
仁威を乗せた馬は、さながら疾風のように駆けていく。
その後ろを空斗が必死でついていく。
同じような馬体なのにどうしてこうも違うのだろうと思いながら。
雪はいまやつぶてのように二人の顔に、体にぶつかってきて地味に痛い。痛みと、そして冷たさとで、むき出しの頬や指の感覚が曖昧になりつつある。
だが天候の変化以上に仁威を焦らせているのは――。
(なぜだ?)
(なぜこれだけ駆けているのに珪己が見つからないんだ?)
仁威の焦燥感は募る一方だった。
(なぜだ……?)
可能性としては二つある。
気づかず通り過ぎてしまったか、まだ追いつくことができていないか、だ。
前者であれば珪己の身は安全だ。ならば空也の救出に専念できる。珪己との再会は遅れてしまうが、晃飛や珪己の既知の人物のことだ、救出に専念しようと決めているから問題ない。
だが後者であれば――?
手綱を握る仁威の手に力が込められ、馬は駆ける速度をさらにあげた。だがその険しい表情を見る者は誰もいない。
*
曇天の下では分かりにくいが、そろそろ陽は沈もうとしている時分。
晃飛の家の周囲では季節外れのウグイスが鳴く声が何度も聞こえた。
何度も何度もしつこく鳴き、やがてウグイスはどこぞへと姿を消した。
その直後、門扉が叩かれた。
「すみません。応です」
何度か叩いたところで向こうから晃飛が姿を現した。
「ああ、お前だったのか。そんな特技もあるなんて知らなかったよ」
双然の顔を見ても驚くことなく、嫌味まで述べるものだから、それだけで双然にはぴんときた。
「氾空斗は独りで向かってしまったんですか?」
「独りじゃない。俺の兄貴と行った」
「ということは……たった二人で?」
驚愕に見開かれた両の目が空斗の無鉄砲さと晃飛の配慮のなさを容赦なく責め立ててくる。
「二人では無理に決まってるでしょう。どうして行かせたんですか」
「うるさいなあ」
「命の保証だってないんですよ?」
「ああもう、うるさい。ていうかお前、監察御史なんだって?」
これに双然が眉をひそめた。
そして長いため息をついた。
「……まったく。武官ともあろう者が守秘義務も知らないのか」
「お前、馬鹿か? 武官である前にあいつは氾空也の兄貴なんだ。それくらい分かってやれよ」
口汚く非難されむっとした双然だったが、やがて得心した顔になった。
「まあ……確かにそうですね」
自分もまた空斗と同じだと思い至ったのだが、そのようなことを他人に軽々しく言わない程度には今はしらふを保っている。
昨夜は嬉しくて楽しくて――つい呑み過ぎてしまった。
夜道で空斗と偶然出会い、言わなくてもいいことを口から滑らせてしまったことを覚えている。ぺらぺらと喋り、ついには叫んでしまったことも。だが自分もまた御史台の官吏である前にただの人間、応双然という名の男なのだ。
「なんだって?」
「いいえ」
笑みを浮かべて話を逸らす。
「ところで。梁先生のお兄さんというのは?」
「なんでそんなことまでお前に言わなくちゃいけないんだ」
「だって僕、監察御史ですから」
「……開き直るなよ。さ、帰った帰った」
追い払われそうになり、双然は心から驚いた。
「僕、帰っていいんですか?」
そう言った双然が背負う袋には縄やら火薬やら短剣やら、この短時間でかき集めてきた諸道具がみっちりと詰め込まれている。どれをどの順番でどのように使うか、あれがダメなときはこれを――そんな風に数十通りの策を練って意気揚々とここに戻って来たというのに。
「氾空也を救出しに行かなくていいんですか? 僕が行かなければ冗談抜きで危ないんですよ?」
正直、今この街で自分以上にこの任に適する人間はいない――そう双然は思っている。
だがその自信を晃飛はすげなくあしらった。
「いい。兄貴がいれば大丈夫だから」
これに双然がぴんときた。
「……なるほど」
環屋にて、元近衛軍第一隊所属の武官を棒で倒したあの男――。
この家に一時期住んでいたが、環屋での事件直後に姿をくらませたあの男――。
双然が素性を掴み切れぬうちに上司命令で身辺調査が打ち切られたあの男――。
「……あの男、なんですね」
「お前、何を企んでるんだよ」
「え?」
指摘され、双然は自分が今どのような表情をしているかを自覚した。
顔が緩み、口角が上がってしまっている。なのに瞳孔がひらいているから、笑みの理由が人から褒められたものではないことを露見してしまっている。
「お前……?」
「じゃ、僕『帰ります』ね」
晃飛に皆まで言わせることなく、双然はにこやかに別れを告げた。
だが晃飛に背を向けた瞬間、双然は耐えきれぬ愉悦に顔を歪ませていた。
*
ようやく扉前に留まっていた男二人が立ち去ってくれたおかげで、珪己と韓はとうとう目的の室の前にたどり着くことができた。
耳をそばだてなくても戸の向こうから腹に響く嫌な音が幾度も聴こえ、これに珪己は悔し気に唇をきつく結んだ。が、それは一瞬のことだった。
「韓さん。ありがとうございました」
その珪己の物言いがあまりにもあっさりとして潔かったから、韓はずっと迷っていたことを口にしていた。
「儂も一緒に行こう」
決死の思いで提案したことは珪己にも伝わっている。
だが珪己はこれに首を振った。
「ありがとうございます。でも韓さんはここから離れてください」
「年寄りは邪魔か? だが一人よりはましだぞ」
「そうじゃないんです。お願いが……あるんです」
一拍置き、控えめな口調で珪己が言った。
「空也さんのこと、任せてもいいですか?」
それと、と髪に刺していた木製の手彫りの簪を韓に手渡した。
「もしも私に何かあったら、これを晃飛さんに渡してください。作ってくれた人に『今までありがとうございました』って、そう伝えてほしいって言ってたって……」
ためらう韓のことを珪己は無言で見つめた。
これ以上言葉を重ねることはできない。無理やり願いをかなえてもらう権利などはなからないからだ。
自分に何かあったら後は頼みます――そんな遺言めいたことを述べている自覚もある。特に最初に願った空也の件は韓の安全を損なう恐れがあった。それでも。
「……ああ」
ややあって韓がうなずいた。
目の前の妊婦が死ぬことを認めたわけではないが、うなずかざるを得なかったのである。
これに珪己もうなずき返し、目線だけでやって来た方向へ戻るよう促すと、韓は滑るように去っていった。ここで後ろ髪をひかれている暇はない。いつまたあの男二人が戻ってくるかもしれないのだ、納得したなら部外者はこの場から潔く退場すべきだ。
韓の姿がこちらからまったく見えなくなったことを確認すると、珪己は大きく息をした。
しかし次の瞬間には目の前の戸を押し開けた。
*




