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4.一番の武芸者は

 韓がなぜ医師となったのか――それは武芸者となった親友に感化されてのことだった。


 その親友は村一番のわんぱく者で、背は低いが頑丈な体を有し、年上の人間をばったばったと投げ飛ばすような無骨な男だった。だが、気性の荒さに困った親によって武芸の道場に入れられた結果、彼は武芸の才能を開花させたのである。


 そんな親友のことを韓は心から尊敬し応援していた。逆に親友は、武芸の腕はからっきしだが学問に長けていた韓のことを常々称賛していた。


 韓は珪己を連れて楼内に忍び込むと、すぐそこにある物陰に身を潜め、そこで自らの過去について語っていった。儂には最高の友がいる、と。


 今、向こうの方では二人の男が顔を寄せ合い何やら語り合っている。昨日珪己が倒した三人の男のうちの二人だ。そこを通らなくては空也が閉じ込められている部屋へと行けないので、じりじりとした思いで潜んでいる最中のことだった。


 韓の話では、今、この楼内には毛とその部下三人、それに空也と思われる若者の計五名しかいないらしい。


 この楼はすでに酒楼としては機能しておらず、毛の根城と化している。ここはその毛が必要な時に必要な部屋を部下に解放する仕組みになっており、今日は尋問に特化して使われているというわけだ。ちなみに他の部下は皆屯所で形ばかりの任に就いている時間帯なのだそうだ。毛の怒りが自分達に飛び火することを恐れてここに近寄らないようにしているだけ、というのが本当のところらしいが。


「儂はその友が誇れる人間になりたかったんだ」


 天候が悪いせいか、それとも日が暮れかかった時間帯だからだろうか。今、二人のいる場には闇に落とされる寸前のような、どこかあやふやな雰囲気が漂っている。……二人だけがこの世界に存在しているような、奇妙な連帯感すら共有し始めている。


「友は武挙に受かり騎馬軍として城勤めをするようになってな」


 騎馬軍ということは、韓の友はこの国の武官の最高峰にあたる禁軍に所属していたことになる。


 この話に、珪己は初めて武殿を訪れた際に垣間見た禁軍の武官の稽古する様を思い出した。騎馬軍らしき面々は初春の風吹く穏やかな陽気の中、馬に飼い葉を与えたり毛並みを整えたりしていた。それが荒々しい稽古が繰り広げられるあの場でやけに牧歌的でのどかな光景に見えたのだ。


 だがその直後に珪己は仁威に声をかけられ、大勢の前で剣でもって立ち会うはめになったのである。


(そう、あの日から私とあの人は――)


 郷愁的な気持ちになりかけていたのは珪己だけではなかった。


「友は真の武芸者だ。儂はそう思っている」


 このところは思い出さないようにしていた親友のことを、なぜだろう、このような状況だというのに韓は思い出していった。


「友は武官を辞し、そしてどうやら……死んだらしい。己が正義を貫くために。この時代にそんなことができる武官はそうはいないだろう?」


 今、珪己は韓の背後にいるためその表情を見ることができない。だがその背中は泣いているようだった。


「『せっかく近衛軍所属となり出世もしたというのに』、そう言って友のことをなじる奴は地元に腐るほどいる。儂にも『金を散々せびりとられて腹が立たないのか』と表情上は心配そうに気遣ってくる奴がいるほどでな。だが儂は今も友のことを誇りに思っているんだ」


 実は韓は八年前にとある事件が起こるまでは生粋の人情家だった。医療の前では人は皆平等――それが韓の理念そのものだったのである。その中にはならず者のみならず、貧乏人やみなしご、孤独な老人や異人など、まさに全人類が含まれていた。奉仕の精神で様々な人を診療し、礼金も感謝も求めず、自分自身はその日暮らしに近い貧しさを甘受していた。


 だがある日、そのとある事件によって苦悩する友に大金を乞われた。


 韓はその金を借金して用立て、それ以来金の亡者となったのである。


「友のために善の心を売ったんだよ、儂は」


 ずっと黙って話を聞いていた珪己だったが、思わず呟いていた。


「……私、ずっと正しいことだけを求めてきました。そうしなくちゃいけないと思ってたから」


 それは真実の吐露だった。


 母や家人が虐殺されたあの日からひと月後、偶然邸内に侵入した仁威との会話がきっかけで武芸者を志した珪己にとって、それこそがまさに生きる理由となっていたのである。


 だが――。


「最近、思うんです。正しいだけの人生なんてないんだなって。そういったことよりも大切なこと、大切な人に出会う時があって……そしたら誰しもそれを抱えて生きたくなるんじゃないかなって思うんです。そしたらもう正しいだけの自分ではいられなくなって……でもどうしても大切なことを手放したくなくて、護りたくて……護れる自分が嬉しくて、誇らしくもなって。もうそういうのって理屈じゃないんですよね。誰にも止められないし……止めてほしくない」


 珪己は韓の背中にそっと触れた。同年代だからだろうか、こうして近くで話をして触れてみると、なぜか韓に武芸の師匠である鄭古亥の面影を見出していた。


「私の武芸の師匠も昔は近衛軍の武官だったんですよ」

「……そうなのか?」

「はい」


 あの芯国人と闘う直前に『近衛軍の将軍だった』と暴露してきた師匠のことを、珪己はなぜか語っていった。


「どうして武官を辞めたのかは知らないんです。教えてくれるって言ってたんですけど、結局、訊けなくて。でも……たとえどんな理由だったとしても、私にとって師匠は師匠なんです。ものぐさで、いっつもごろごろしていて、私に弟子の稽古をつけさせて自分はさぼるような人だったけれど……でもすごく強くて、頼りになる師匠でした」


 話していたら、自然と珪己の気持ちも落ちついていった。


「……うん、そう。私、師匠みたいに闘うべき時に闘える武芸者になりたいんです」


 別れる間際に古亥が見せた闘いの場面が、閉じた瞼の裏にまざまざとよみがえる。イムルに腕を折られた直後でも、強者相手に一人で立ち向かおうとしてくれた古亥を――。


『儂は護ると決めたものは護るんだ』


 そう言い切ってみせた古亥は掛け値なしにかっこよかった。武芸者として共感したし、感動もした。


 だからあの瞬間、珪己は共に闘うことを選んだのだ。いや、選んだというよりも『覚悟する』ことを『選べた』というのが正しいのだろう。私も闘う――と。一度も実戦経験がないのに、その覚悟が自然とできていた。


 しんと凪いだ心が、珪己にあの日と同じ冷静さを取り戻させた。


「たとえ怪我を負っても……命の危険があっても。何があっても。闘うと決めたら闘いたいんです」


 あの日と同じ結論、覚悟を導き出せたことに、珪己はある種の満足を覚えた。


「そいつはお前さんにとって一番の武芸者だったのか?」


 韓に問われ、珪己は一寸考えたものの正直に答えた。


「一番は別にいます」

「なんだそりゃ」


 珪己の手のひらの下で韓の背中がふるりと震えた。


「冷たい弟子だな」

「そうかもしれません。でも一番は別にいるんです」

「その一番の人間はそんなにすごい奴なのか」

「師匠はさぼったりごろごろしてばっかりでしたけど、その人は逆なんです。自分にすごく厳しい人なんです。でもとても部下思いの上司なんですよ。それにとても強いんです」

「ほお」

「禁欲的で、自分よりも他人のために行動しちゃうような人で……実は私、その人のそばにいて時々息苦しさを覚えることもありました」

「……難しいなあ、生きるっていうのは」


 ぽつりと韓がつぶやいた。


「立派な人間を目指すこと自体は、尊い。だがそのためにどこまで自分を削る必要があるんだろうな……」

「え?」

「いや。儂の友もそういう奴でな」


 と、その韓の背中が今度は別の意味で揺れ動いた。


「お、ようやくあいつらが動いたぞ。……よし、見えなくなった。儂が先に行って問題なさそうならこうやって合図をするから、そしたら出て来い」


 後退した額を人差し指で二回つついてみせると、韓は迷いなく立ち上がった。



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