3.仕方ないでは済ませない
十番隊の専属医師である韓はここに週に二回はやってくる。隊長の毛が片頭痛持ちで、処方した薬を持ってくるためだ。……過度な尋問を受けた人間の治療にあたることもしばしばあるが。
だが珪己が問いに答えようとするよりも早く、韓は扉を素早く後ろ手に閉めた。
「どうしたってんだ」
ちらちらと後ろを気にしながら小声で言う。
「ここは危険だ。さっさと失せろ」
「ここに空也さんがいますよね」
「は?」
「氾空也さん。うちに住み込みで働いている兄弟の弟さんのことです」
これに韓が渋い顔になった。
「……もしかして。今尋問を受けている奴のことか?」
記憶上の点と点、声と声とを結びつけられるかどうか、韓が考え込み出した。だが珪己にとってはその時間すら惜しい。
だが、すかさず中に入ろうとした珪己のことを、韓が二の腕を掴んで制止した。
「行ったらだめだ」
声を潜めているものの、可能な限り声質を尖らせている。
「この中にいる奴らには常識は通じない。たとえお前さんみたいな妊婦でも平気で殴るし犯す、そういうことができてしまうんだよ。儂はここで殺された人間を幾人も見ている。現に今もあいつらは尋問とは名ばかりの暴力を繰り返しているようだった」
はっきりと告げられたことで表情を強張らせた珪己に、韓はため息を交えつつ「落ち着け」と言った。
「お前さんは母親なんだぞ。だったら子供を護ることを考えろ。そうすべきだ」
これに珪己が韓を睨みつけた。正しくないことを強いられた子供のように、正義の名のもとに悪を憎むかのように、恐ろしく強い目力で。
「じゃあ……空也さんは?」
その激情をかわすかのように韓が言った。
「あいつは……仕方ない」
淡々とした物言いだったからこそ、それが珪己の怒りに火をつけた。
「なんでそんなことを言うんですかっ?」
それもまた韓は「仕方がないんだよ」と受け流した。
そして諭した。
「この世にはそういう理不尽なことや『仕方がない』で済ませなくちゃいけないことが山ほどある。お前さん、親になろうっていうのにそんなことも知らないのか」
「知っています。それくらい」
「だったら」
「でも私は諦めたくありません……!」
頑なな珪己に韓はいら立ちを覚えた。
怒りに捕らわれた者同士、激しい応酬が繰り広げられる。
「腹の子に何かあってもいいのか」
「よくないですよ。でも空也さんの命を諦めることはできません!」
「腹の子だけじゃない、お前さんの身だって危ないんだぞ?」
「分かっています」
「本当に分かっているのか?」
「分かっています!」
激しい押し問答の末に「私、武芸者ですから」と珪己が告げた。
これに韓が絶句した。
「……なんだって?」
韓が信じる物は三つあった。自分の医師としての腕、金、そして自らの経験である。だが珪己の述べたことは韓のまったく知らない概念だった。
「お前さんが武芸者? でもお前さんは……女じゃないか」
動揺を隠せない韓に、珪己が力強くうなずいてみせた。
「女でも私は武芸者です。それに武官です」
「……まさか! あいつらを倒したっていう仙猿は!」
「私です」
強い衝撃で韓の思考はしばし停止した。
(だが確かに――この娘は嘘を言っていないようだ)
それは強い眼光を放つ双眸を見れば分かる。
曇りのない瞳は純心さそのもののようで、珪己がこれまで培ってきた経験、武芸者であるがゆえのものだ――そう思い至ったのである。
初見から珪己のことは強い女だと思っていた。痛みに強い――つまりは痛みに耐え抜く体力と精神力とを有する稀有な女だ、と。その強さの源は武芸者である晃飛の妻ゆえのものだと思っていたが、実際には妻ではなかったし、単に珪己自身の性質だったのだ。
「手を放してください」
いまだ二の腕を掴む韓は、そう言われてもなかなか同意することできずにいる。
(この手を放せば、この娘は楼の中へと入っていってしまう)
(それはつまり、命を手放すということと同じだ)
手を放すこと、すなわち、殺人行為に関与することと同じことのように思えている。
金を稼ぐため、韓はお天道様の下を歩けないような患者をこれまでにも幾人も診てきた。その際、患者の犯した罪や診察代の出どころについて一度も訊ねたことはないし、これからどのような悪事を働く予定があるかについても故意に耳を閉ざしてきた。すべては金を稼ぐためだった。
十番隊の面々はいわゆる太客だ。
今では収入の大半は彼らから得ている。
それら一連の行動すべてが間接的な犯罪行為とみなされる可能性はなきにしもあらずだが――韓は医療においては全人類皆平等と考え、人道主義という概念をもってして『罪にあらず』と結論づけてきた。
だが今は――。
「この手を放してください」
若干の焦りといら立ちをもってして再度乞われたが、韓は自分の立ち位置を容易に決められずにいた。
(この手を放すべきか、どうか――)
「お願いします」
苦悩しうつむく韓の手に力がこもっていく。
珪己が様々なことに耐え切れなくなったその時――韓が渋い顔を上げた。
「ついてこい。氾空也のいる部屋まで連れてってやる」
「え」
理解の遅い珪己に韓が早口で言った。
「あいつらに見つからないように連れてってやるって言ってるんだ」
その申し出に珪己が笑顔になった。
「……ありがとうございます!」
「だがそれ以上のことは儂に期待するなよ」
韓が信じる物は三つあった。自分の医師としての腕、金、そして自らの経験である。
そして自らの経験からして、こんなことをしてこの娘が無事では済まないだろうことは分かっていた。
娘を楼内に手引きしたことが十番隊の面々にばれたら、自分も無事では済まないだろう。
それでも自らこのような提案をしてしまったのは、珪己の瞳に宿る炎に武芸者の魂を見出したからだった。




