2.私が私であるために
零央の街を二頭の馬が駆けていく。
人の往来があるので全速力で駆けることはできないが、それでも人間が自分の脚で走るよりも断然速い。
往来の人々は二頭の馬の気配に気づくや、誰もが驚き、不快感をあらわにした。それもそうだ、通りをこのように速い馬が駆ければ、接触した側にとっては重大事故となり得るからだ。だが先頭を駆ける空斗の装いから彼の素性を察すれば、誰もがすぐに道を譲った。
「ありゃあ禁兵じゃねえかっ?」
開陽、もしくは軍政に詳しそうな誰かが空斗を指さしたりもする。それなりに旅人の多い街だから、ところどころで同じような声があがった。
「なんだなんだ?」
「何か起こったのかっ?」
そんな空斗の後ろを仁威は影のようにつき従っている。
自分はなるべく目立たないように、という仁威の意図は概ね達成されている。外套を頭からかぶり、頭を下げて姿勢を低くし――。それでも周囲に気になる人間がいないか観察することは怠らない。それはたとえば知り合いだったり、文官武官含めた官吏全般だったり。基本隠密行動をとる御史台の人間とそうでない者との見分け方も仁威は熟知している。
「そうだ、あなたの名はっ?」
「呉隼平だ」
後ろを振り返ることなく空斗が問いかけてきたので、仁威は久方ぶりの偽名を使った。もちろんその際にも声の大きさには気をつける。
だが空斗の方が大声で復唱してしまった。
「……呉隼平っ?」
振り向きかけた空斗は馬上で不安定になり、あわてて姿勢を正した。
そう、空斗は騎馬を苦手としていたのである。都に所属する武官は馬に乗る機会があまりないからだ。開陽の街は狭いうえに人口密度が高く、なおかつ都に割り当てられた区画内で働いていればよかったことも、乗馬が上達しなかった理由である。
いやでも、これは驚くだろう。まさかこの地で、開陽にて深い縁のあった男と同姓同名の人物と知り合うことになろうとは……。不意打ちなだけに、空斗の抱いた驚きは大きかったというわけだ。
空斗は綱を持つ手を片手だけにすると、空いた手で自分の頬を軽く張った。
(そんなこと、今はどうだっていい……!)
気合を入れ直す。
もう一度両手で綱を持ち、あらためて半分ほど後ろを振り返る。
「あなたは武芸の腕はいかほどか?」
少し考えたものの、仁威は正直に答えた。
「十番隊よりはましだ」
端的な答えは自分自身をよく理解しているからこそだと空斗には感じられた。なんとも潔い。単なる自信家であれば、俺が俺が、と喋りたがるだろうし、もっと前に出てこようとするはずだが、後方に位置する男はそんな素振りもみせない。それに身近に幾人かいた腕の立つ同僚に近しい雰囲気も感じられる。これで空斗の仁威に対する好感度が一気に上がった。
ようやく店や家が並ぶ一帯を通り抜けた。
二頭の馬が人気のない郊外を馬首を並べて駆けていく。隣り合うことで会話がいくらか容易になった。
「だったら俺はあなたの支援に回る」
「それでいいのか?」
「ああ。その方がお互いにとっていいはずだ」
かち合った視線は馬上の揺れに同期してはいるものの、お互いの意図するところを理解し合うには十分だった。
仁威は珪己を、そして空斗は弟を第一に救いたくて、そのために今こうして馬を駆けているのだから――。
「ありがとう。それと俺のことは空斗と呼んでくれて構わない」
そして、少し迷ったが言った。
「あの娘、本名は珪己だったんだな」
そこでとっさに言い添えた。
「いや。梁晃飛もあの娘も絶対に本名を使おうとしなかったから」
「そう……だったんだな」
「ああ。訳ありなんだろう? だから十番隊の前ではその名は言わない方がいいと思ったんだが、違うか? あなたの名も公の場では呼ばない方がいいように思えてきたのだが」
「配慮、痛み入る。だが俺の名については呼んでくれて構わない。あいつらは俺の名を知っているから」
一時期あいつらの下で働いていたことがある、と仁威が打ち明けると、空斗が一つの推察に行きついた。
「……もしかして。隊長の毛を倒した男っていうのはあなたなのか?」
「いや。あれは晃飛のしたことだ。俺はその時、何もしていない」
話せば話すほど、空斗はこの知り合ったばかりの男に興味を抱いていった。なぜか不思議と気になる。もっと話したくなる。知りたくなる。そういう不思議な引力を有する男だ、と。
だが仁威の方はこれ以上の会話は不要だと考え、「速度を上げるぞ」と声をかけるや馬の腹を蹴った。
ひらり、と天空から一片の雪が舞い降りた。
それは仁威の頬の際を撫で、すぐに溶けて消えた。
*
大きな腹を抱えながらも、珪己は小走りで問題の建築物へと近づいていった。
一歩踏み出すたびに頬に雪が触れ、そのたびに溶けた雫が頬を滑り落ちていく。額も、鼻も、首の後ろも、手の甲も――冷たい刺激が珪己の肌を少しずつ濡らしていく。
歩くたびにツンとした痛みを下腹部に感じた。まるで緊張してくださいと言わんばかりの状況だ――そう思ったら苦笑いがこみあげてきた。そんな些細なことで、珪己の張りつめていた気持ちにわずかな余裕が生まれた。
頭頂部に刺している簪の一本に触れてみる。桃色の珊瑚の玉がついた、幼児用の簪を。
これを初めて手にした時のことを珪己は思い出していった。
闘うために使えと仁威に差し出され、人を傷つけることを想像した途端――あの日の珪己はあふれ出る激情を止めることができなくなってしまった。絶対にそんなことはできない、とも思った。けれど逃げたくないとも思った。意固地なほどにそう思った結果、相反する感情の濁流に飲み込まれた――それがすごく苦しかったことを覚えている。
(でももう、絶対に逃げない……!)
あの日に生じた今へと繋がるこの恐怖――それすら糧にしたいと願ってきたのは自分自身だ。
(だから……これから起こることすべてを私は受け入れる。ううん、受け入れたい)
たとえば――恋しいあの人には二度と会えないかもしれない。けれどそれもまた自分が選んだことの結果だと受け入れたい。
やっぱり、と思った。
女で武芸者なんて志したら恋なんてできないんだな、と。
(でももう……いいや)
この恋のために捨て身で雪山を踏破した珪己ではあったが、恋のためだけに生きているわけではないことにあらためて気づいていた。
結局はその時の状況次第なのだ……と。
自分自身は大事。命は大事。家族は大事。恋は大事。理想も夢も、大事なことはたくさんある。それはもう、いくらでも。
しかし、それら以上に大事だと思える事象を見つけてしまったら――これまで抱えてきた『大事なこと』のどれもが次点となることもあるのだ。それは仕方がないことなのだ。
(ううん。違う)
珪己は頭を強く振った。
(空也さんを助けに行かなくちゃ、私が私じゃなくなっちゃうから……!)
人を救えるような強い自分になりたくて、それゆえに武芸者を志したのだから――。
考えながら歩みを進めていた珪己だったが、とうとう問題の楼の入口へとたどり着いた。
その楼は近くで見ると不穏な空気がひしひしと迫ってくるようだった。剥がれ落ちそうになっている屋根瓦、塗装のはがれた壁、傾いた看板――どれも廃墟寸前のような有様だ。だが朽ちかけた木製の扉はしっかりと閉じられている。中の音は一切聴こえない。
気づけば、雪は絶え間なく降っている。
ぽちゃん、と池で魚が跳ねる音が静かなこの場でやけに大きく響いた。
と、目の前の扉が乱雑に開かれた。
どのようにこの扉を開けようかとためらっていたところだったから、扉の軋む音や開けた瞬間の風圧、そして人が現れた気配の相乗効果で、珪己の心臓が痛いくらいに跳ねた。
だが扉から出て来た男は十番隊の人間ではなく、珪己の既知の人物だった。
「お前さん、どうしてこんなところに」
それは医師の韓だった。




