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1.覚悟の質

 秘密裏に家を飛び出した珪己は、すぐさま馬車に乗せてくれる店に向かっている。


 待ち望んでいた仁威と入れ違いになったことにも気づかず、わき目もふらずに。


 そして「鯰池楼に連れて行ってください」と店の男に率直に願った。


「鯰池楼? あそこは昼間だって誰も近づかないぜ」


 何か訳ありなのかと、店の男の無遠慮な視線が珪己の全身を眺め出した。


「お客さん、この街の人間じゃないだろ」


 広いようでいて狭い街だから、ざっと見ればよそ者かどうかは察しがつく。どこかの街からここに嫁にやってきたんだろうなとあたりをつけ、「家に引きこもっていて知らないのかもしれないけどね」と、男が昨日市場で起こった出来事について声を抑えて語りだした。


「十の奴らが仙猿にコケにされたらしくてな。あ、噂だぜ、噂。俺だって仙猿なんて見たことねえし。でもそういう噂が広まってるんだ。実際、その仙猿をとっ捕まえようと、いつも以上に凶悪そうな顔で奴らが街中をうろついている。そんな時に奴らの根城に近づくのなんてよ、自殺行為だろ?」


 だから俺はごめんだぜ、と男はつれなく断った。


 だがこれしきのことで諦める珪己ではない。


「お願いします。近くまで連れて行っていただければ十分ですから」


 懐から取り出した袋を男の手に握らせる。


 それは珪己が開陽の自宅から持ち出し、今まで一度も手を付けてこなかったなけなしの金子だった。世話になった古寺に寄進しようと思って用意したものだ。


「おお? 大金じゃねえか」


 口紐をほどいて袋の中身を確認した男は、一転、ほくほくとした笑顔になった。


「うーん。じゃ、ほんとに近くまでだからな」


 これほどの大金、真面目に働いたら稼ぐのにひと月はかかる。


 不承不承という体で引き受けたものの、男は内心小躍りしていた。


 そして珪己は目的地そばの池のほとりへと最速でたどり着くことができた。珪己を心配する男達が予想したよりもずっと早く。



 *



 男は珪己を馬車から下ろすと、馬のいななきや轍で巻き起こる土煙一つすら恐れるかのように、来た道をそろそろと戻っていった。


 一人きりになり、珪己はあらためて周りを観察した。


 たどり着いた池は思ったよりも大きかった。その半周をぐるりと囲む森は、零央の街の西方にそびえる針のように鋭い高山へと繋がっている。ここからあの頂まではかなりの距離があるだろうとあたりをつけたところで、ここが街はずれであることを珪己はあらためて実感した。つまりは、ここでは誰の手助けも期待できないということだ。偶然通りすがる人間など皆無な、ひどく閑散とした場所だ。


 森に面していない方には水辺に背の低い草が生えており、岸からやや離れたところには不等間隔に同形状の岩が並んでいる。ここが釣り場として栄えていた頃の名残りだ。だが今は人っ子一人見当たらない。風に揺られて水の際が草に寄せては濡らし、またひいていく様子がやけにわびしく見えた。


 そして向こう岸には、二階建ての建築物がこれまたさみし気にぽつんと存在している。


 しかし、その建物の周囲にはやけに禍々しい空気がまとわりついているかのように見えた。


 珪己はその先入観をすぐに捨てようとした。思い込みはよくないことだし、負の意識付けは弱気を生み出すだけだからだ。今すべきことは事実を整理すること、これに尽きる。


 だが、あの中には十番隊の人間が幾人も集っているはずなのだ。


 そしてあの中に空也が囚われているはずで……。


 珪己の喉が無意識に鳴った。


 ここに一人で来たのは衝動の所以ではない。だが自分一人で空也を救い出せると思えるほど自信があるわけでもなく、それゆえの緊張だった。


 そう、珪己が何を覚悟してここへ来たのか。それは十番隊の面々と闘い勝利を得ることではなく、我が身を犠牲にして空也を救い出す――そういう類の覚悟だったのである。


 もちろん、自分の身に危険が降りかからないに越したことはない。

 自分自身を簡単にあきらめるつもりも毛頭ない。


 だがそれは期待できそうにないとも思っている。


 期待しすぎてしまうと――きっと動けなくなってしまうだろう。そういう自分の甘さを珪己は自覚していた。


 だから珪己の目的はただ一つ、空也を救出することだけに絞られていた。


 自分と共にいたせいで囚われてしまった空也を救い出すこと、その一点のみに絞られていたのである。


 歩き始めて、珪己は指の冷たさに気づいた。かじかんでいるようでは動きが悪くなるから、手をこすり吐く息をあてて温めていく。この寒空の下、珪己は外套を着ていなかった。あの牡丹色の外套は「危険だからもう着たら駄目だよ」と晃飛に取り上げられてしまったからだ。「どうせしばらく外出禁止だしいいよね」と。


 吐く息は随分白い。ひと月前にこの街に戻ってきた時にも息は白く、根深い雪が道端に溶けずに居座っていたことを珪己は思い出した。だが山に近いせいか、この一帯の方が寒さが一段と厳しく感じられる。まるで周囲を氷壁で覆われているかのようだ。


 昨日のあの麗らかな陽気は――春は、遠い昔の幻のように色あせてしまった。


(もう春を見ることはできないかもしれないな……)


 そんな感傷的なことを思った瞬間、ずきん、と下腹部に痛みを感じた。


 一時期、腹の中で活発に動いていた赤子は、ここのところおとなしい。胎動が緩やかなものになりつつあるのは出産が近くなっている証拠だと雨渓から聞いている。しかし昨日から、時折こんなふうに痛みを感じることがあった。


(……この子とも、もう会えないのかもしれない)


 そう思うと痛みすら愛おしく感じた。


 正常な思考ができるようになり、長くもない時間を胎児と共に過ごした結果――この想定外に腹に宿した我が子に珪己はいつしか親しみを覚えていた。たとえ今誰に恋していようとも、この子に対する愛情は別次元のところにきちんと芽生えていたのである。


(ちゃんと産んであげたかったな……)


 血筋が血筋だから、産んだ結果、最悪の事態が起こり得たかもしれないけれど――それでも産んであげることはしてあげたかった、と思う。


 腹をなでつつ、珪己は我が子に心の中で語りかけた。


(ごめんね。無茶をして)

(でも空也さんのことを助けたいの)

(私のために捕まってしまったのに……傍観者になんてなれないの)


 妊婦であることをかさに着て家でじっとしていることなんてできやしないから。


 十番隊がどれほど非道な集団か、幾たびも現場を目撃しているからこそ知っていて――。


 知らなければおとなしくしていたかもしれない。

 だが知っていれば看過することなど絶対にできなかった。


 それでも迷うのは人として当たり前のことだろう。人は誰しもが弱くて臆病な面を有しているし、自分や自分に身近な存在を優先したくなるものだからだ。


 ふわり、と珪己の鼻先を一片の雪がかすめた。


 ついうつむきかけていた顔をあげると、それほど長い時間ここにいたわけでもないのに、森の向こうが白く霞がかっていた。本格的に雪が降りそうな気配がする。


(早く行こう)


 こうしてついためらってしまっている時間すら――惜しい。



 *


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