6.その先にある光を
「……あいつがそう言っていたのか?」
この家に戻ってから、仁威は錯乱しそうなほどの大量の情報にもてあそばれている。そんな仁威の心をもっとも強く揺さぶったのは、晃飛のこの一連の発言だった。
(あいつが俺に本気で……?)
やつれた仁威が飛びぬけて驚いてみせた表情はこれまで見たことのないもので、こんな時だというのに晃飛はつい苦笑してしまった。
「はっきりとは言ってないよ、あの子は。でも言わなくても分かってた。ずいぶん前から。……でもさ、仁兄も前から気づいてたんでしょ? あの子が自分を好きだってこと」
「……もっと軽いものかと思っていた」
「それはそう思いたかったからじゃないの?」
これに仁威が目を見開いた。
ばちり、と二人の視線がぶつかった。
と、玄関の戸が開かれる騒々しい気配がした。
「馬を連れてきたぞっ!」
「分かったっ!」
こちらからは姿の見えない空斗に晃飛が大声で返す。
「じゃ、そろそろ時間だね。……仁兄?」
それは――爆発のようだった。
仁威が静かに堪え抑えていた感情、潜めていた熱が、今この時爆発したのである。
仁威が見せた変化はそれほどまでに急であり、激しかった。
体が膨張したかのようにみえたのは気のせいではない。まとう筋肉がみるみる活性化し、全身に気がはりめぐらされたからだ。
半開きになった口を閉じることもできず、晃飛は仁威の変貌のほどを凝視している。
気とは必要な時に必要なだけ放つものであり、たとえ今がその時と思っても平常時のようにふるまうべきであり、非常時や戦闘時には冷静さこそが肝要で――。常にこれら理念に重きを置いてきた仁威から鉄の制御装置が完全に取り払われている。
だがこの劇的な変化は一時的なものだった。それは幻のようにあっという間に消え失せ、仁威はあっという間に理性と冷静さを取り戻した。
だがその目は希望一つを抱えて戻ってきた直後とは違い、一切の悲しみを秘めてはいなかった。その先に輝く光をも手中に収めんと覚悟した男の顔になっていた。
「仁、兄……」
言葉にならない感動が晃飛を貫いた。
「決めたんだね、仁兄……!」
そこに空斗が姿を現した。
「遅いぞ! 何をやってるんだ!」
「あ、ああごめん。そうだ。君は鯰池楼の場所は知ってる?」
「馬を借りるときに訊いてきたから大丈夫だ」
と、勇む空斗の視線が道場の一角へと移った。
「長剣を借りてもいいか」
「いいけど……でも武官でもない奴が外で携帯していると目立つよ」
それに先ほどのように手に負えない状態になられても……困る。
晃飛の言外の不安を感じ取り、空斗が胸に手を当てて言った。
「俺を信じてくれ」
それは晃飛がもっとも信用しない他人の言葉だった。
信じるか否か、それは本人の自由だ。
それにまだ出会ってひと月程度の、ついさっき理性を失くして暴れたばかりの人間に言われても……。
だが、
「無茶は分かってる」
真剣な表情で訴えられ、晃飛はやむなくうなずいた。
(今はとりあえず信じてみるしかない、な)
実際にはこの短時間でそれを受諾するか否かを天秤にかけた結果だったが。
今、珪己と空也を確実に救うためには仁威の力が必要で、それは時間との勝負でもあった。そのためにはこの辺の地理にいくらか明るい空斗の同行が必須なのだ。
と、その時だった。
「少し待っててくれないか」
そう言って母屋の方へ行った空斗は、戻って来た時にはなぜか武官の装いに身を包んでいた。茶一色の衣に、額にはあの黒の鉢巻きまでしている。
仁威の無言の問いに気づき、空斗が素早く自己紹介をした。
「俺は氾空斗。禁軍の武官だ。半年前までは開陽で都に属していたが、今は訳あって弟とここで暮らしている」
自分は武官だ――そう明言した瞬間、まだ不安定さのあった空斗の心が定まった。自分自身をあらためて定義づけることで、すべきことがはっきりと見えてきたのだ。
仁威は武官の事情に詳しいから、この空斗の考えを理解しなるほどと納得した。各地方に専属の軍として所属する廂軍の武官と違い、禁軍はこの国のどこでも同様の権利と義務を有しているからだ。それはつまり、空斗にはこの街を長剣を携えて行動する権利があり、かつ、この街の悪事を制圧する義務があるということである。
ならば――空斗には十番隊を取り締まることができる。
実際にはそこまで崇高な意識を有する武官などめったにいない。机上の空論、理想論だ。空斗がその権利と義務を理解し、あまつさえ実行すべしと決断できたこと自体、非常に珍しいことなのであった。
自分のための長剣を一本手に取ってから、空斗が仁威に訊ねた。
「あなたの分も持っていくか?」
先程剣を受け止められた事実から、仁威が武に長けていることについては語らずして察しがついている。ちなみに同年代だと分かっていても「あんた」ではなく「あなた」と呼びかけてしまったのは――仁威の発する特別な空気のせいだろう。
だが空斗の申し出に仁威は即座に『否』と返した。
「俺には不要だ。さ、行こう」
こちらも空斗が部屋で着替えている間に汚れきった外套を頭からすっぽりとかぶっている。準備万端だ。
本来であれば武官である空斗を指揮者とすべきなのに、当然のように先導しようとする仁威に対して空斗はまったく違和感を覚えていない。それどころか素直に後を追っていった。
二人の出立を見送る晃飛は、泣きたいような笑いたいような……そんな不思議な表情をしている。これでなんとかなるだろうとほっとし、けれど一抹の不安を抱えて。
「仁兄、頼んだよ。あの子を、そして空也を救って……」
いつの間にか、空は雪を多分に含んだ重い雲で覆われていた。
次話から最終章です。




