3.もうすぐここに戻ってくる
宿を出ると、空斗は昨日同様寒々しい街の通りへと出た。これから訪問する梁晃飛という男の家は妊婦の話から概ね察しがついていて、案の定、東西南北四方に伸びる大通りが交差するあたり――つまり街の中央付近を少し歩けばそれらしい道場がすぐに見つかった。それなりに年季の入った家屋だ。
自分が少年時代に通っていた道場よりも立派なところだな、などと興味に任せて様々なところに視線をやっていたせいだろう、空斗がその老婆の存在に気がついた時にはもはや門前手前まで来ていた。
人を待っているのだろう、老婆は空斗がやってくるのを真正面から出迎える形になっている。だいぶ高齢のようだが、この寒空の中、顔つきはしっかりとしているし健康そうだ。
空斗は老婆に失礼のないよう会釈をしてから目的の門扉に向かい合った。
「すいませ……」
「おおい、待て待てえ!」
家屋の住人に声を掛けようとした空斗を遮り、老婆が空斗の太腿を平手で無遠慮に叩いてきた。
「はわっ」
他人に触れられても許すことのできる領域をあっさりと侵され、無警戒だった空斗はおかしな声をあげてしまった。
「なな、なんですか?」
それでも精一杯の愛想笑いを浮かべてみせたのは、高齢者を無条件に敬う所以だ。そういう人間は特に地方出身者に多い。変な婆さんだ、と心の中では好き勝手言いつつも。
老婆が空斗を上目遣いに見つめてきた。
「娘さんは元気にしているんだよなあ?」
「は……?」
「この家に住んでいた赤子を宿した娘のことだあよ」
見も知らぬ老婆にずばっと訊ねられ絶句した空斗だったが、結局は正直にうなずいた。
「元気ですよ」
「そうかそうか。それはよかった。さすがは運が強い娘だなあ」
嬉し気な老婆に、空斗は思わず訊ねていた。
「あの……ところであなたは」
老婆がにっと笑った。
「儂は産婆だよお」
「ああ、珪……いや、あの娘の産婆さんでしたか」
笑みにつられて少女の名を語りそうになり、空斗はとっさに言い換えた。呉珪亥という名は偽りだと確信しているからだ。
「ふうむ?」
老婆が興味深げに空斗をじろじろと眺め出した。
「ふむ。ふむふむ」
「……あの、なんですか」
ここまであけすけに観察されたことはなく、たまらず空斗が訊ねると、老婆が何やら合点したように大きくうなずいた
「いいだろう。うん、これが一番いいだろうねえ」
「は?」
「まあまあ。黙ってついてきなよお」
「え? ……ええ?」
老婆は門扉を押し開くと、断りなく敷地内に入っていった。――この展開は想定外だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
だが老婆は「やーだよお」と幼女のごとき可愛い声を発し、空斗から逃げるように奥へ奥へと入っていくではないか。
「……こうなりゃやけだ!」
空斗は覚悟を決めると、「お邪魔します」と老婆の後を追った。いずれにせよ晃飛に直接会ってあの娘のことを伝える必要はあり、だったら老婆の破天荒な行動に流されてみよう、そう判断したのだ。
滑るように歩いていく老婆は意外なほど速く、その後を空斗は小走りで追いかけていく。まるで鬼ごっこだ。
老婆は一つの部屋にたどり着くと、これまた何の合図も口上もなしに戸を開けた。
すぱーん、と小気味いい音が早朝の空気を切り裂いた。
「おおい青年よ。元気にしてるかあ?」
「……元気なわけがないだろう」
室の奥の方から聞こえた不機嫌そうな声――この若々しい声の持ち主こそが梁晃飛なのだろうと空斗は思った。
「あいやー、それはすまないなあ。でもお前さんが元気になる話を持ってきてやったぞい」
「なんだよそれ。ていうかいつもいつも勝手に家に入ってこないでくれる? ……ちょっと待って。誰だよ、お前」
空斗の存在に気づいた瞬間、寝台で身を起こしかけた手負いの男が獣のごとき警戒心をあらわにした。
初対面の空斗が驚くほど、男――梁晃飛は満身創痍の状態であった。全身に負った怪我もそうだが、上気した頬や呼吸の速さから、体温が高く非常に辛そうなことが一目瞭然だ。
昨夜、御史台の侍御史である習凱健の言っていた通り――いやそれ以上だ。そう空斗は思った。
だが、こちらを睨む瞳の鋭さは確かに武芸者の有するものだった。
顔かたちの造形はあの娘とは随分違っている。やや丸い目に丸い鼻、丸い顎をした、実年齢よりも幼く見える娘に対し、この男はそれらのすべてがすっきりとした線で構成されている。明らかに血縁関係にない二人だ。
だが、目の奥に灯される炎、魂の質が同じだった。
(ああ、この男が梁晃飛なのか……)
(あの娘の夫……なのだな)
思い至ると、二人に共通する気質の荒さ、もとい闘争心を前にして、空斗は素直に敬意を示したくなった。闘うということに一度でも背を向けてしまった自分に比べて、この夫婦は――と。
血のつながりなどなくても、他人同士だとしても――魂が近づくことでここまで似通うことができるのだ。そんな二人に空斗は強い羨望を覚えた。だがすぐにそのようなよこしまな嫉妬には蓋をする。
「あの、突然お邪魔してすみません。俺は」
折り目正しく自己紹介から始めようとした空斗に、
「お前……この前杜々屋にいた奴だな」
晃飛が擦過傷で彩られた人差し指を無遠慮に向けてきた。
「鼻血出した男の連れ……だろ?」
熱で苦しいのだろう、呼吸の合間にどうにかして吐き出された問いに、空斗は思わず手を打った。
「ああ! あの時の!」
言われてみれば――確かに見覚えがある。
全身怪我を負っていて分かりずらいが、男の細い狐目は確かに記憶に残っている。俊敏な弟が避けきれずにこの男と正面からぶつかってしまった理由の一つは、男がひどく慌てていたからだ。
「……もしかして。あの時、あなたは奥さんを探していたんですか?」
その言葉に、晃飛の双眸が一層鋭くなったのと、老婆が口をはさんできたのはほぼ同時だった。
「娘さんはもう少しでここに戻ってくるよお」