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4.待ち望んだ男

 外見は随分変わってしまった。


 汚れるにまかせた衣類もそうだが、適当に縛っただけの髪、乾燥で荒れた肌、伸び放題の髭、泥のついた手足……今時ここまでひどい外見をした人間は、ここ零央ではあまり見かけない。浮浪者だってもう少し身ぎれいにしている。


 それでも――その目の光、声の響き、どれをとっても晃飛が敬愛してやまない男がそこにいた。


 晃飛が待ち望んでいた男そのものがいたのである。


 みるみる間に晃飛の顔が紅潮していく。

 首から耳へ、顔へと一気に朱に染まっていく。

 瞳が潤み、揺らめきだした。


「仁、兄……?」


 はじめは戸惑いながらその名を呼び、やがて喜びと驚きを放出させながら仁威の名を連呼しだした。


「ああ、仁兄! 仁兄だ……! これは夢なのかな……? ああでも! 夢じゃないんだね、夢じゃ……!」


 背後では空斗が長剣を取り落とした気配、音がし、やはりこれは夢ではなく現実なのだと晃飛は実感した。


「あああ……」


 空斗がうめきながら座り込んだ気配がしたが、もうそちらに構ってなどいられない。


 空斗にも空也にも悪いが、今だけでも感動にひたらせてほしい。今だけでも……。


「お帰り、仁兄……!」


 だが、晃飛の望外の喜び、感動もそこそこに仁威が顎で空斗を示した。


「こいつは誰だ? 何があった?」


 仁威は晃飛の肩を抱いた手に力を込め、自身の背後へと移動させると、もう一方の手で握る木刀を空斗へと向けた。その木刀は壁にかけてあった稽古用のもののうちの一振りだ。


「あ、ああ。こいつは氾空斗って言って、住み込みでいろいろやってもらってるんだ。悪い奴じゃないんだよ」


 晃飛が涙をぬぐいながら説明すると、仁威は束の間考えたものの木刀を下ろした。


「そうか。お前がそう言うのであればそうなんだろう」


 実際、空斗の方はすでに戦意を喪失していた。

 強い興奮状態からもなんとか脱したようだ。


「だが、たかが喧嘩にしては物騒だったな。これは玩具ではないぞ」

「そんなことは分かってるよ」


 いつものように諭されてしまい、思わずぶすっとした顔になってしまった晃飛だったが、次に、


「今はそれどころじゃないんだ!」


 声を荒げてしまい、その直後に慌てて口をつぐんだ。


(まずい! 仁兄に知られるところだった!)


 たとえ知らない人間だとしても、空也の身が危険であることを教えれば――仁威は空也を救うために動くだろう。いや、きっとそうだ。そういう男なのだ。今この局面において仁威が戻ってきてくれたことは不幸中の幸い、渡りに綱ともいえる。


 だが忘れてはならないことがあった。


 仁威は今も隠匿中で、珪己同様、目立つことは極力控えなくてはならない身なのだ。


 ここに戻ってくるにも、きっと相応の覚悟が必要だったろうし、相当に警戒しながらの旅路であっただろうことは想像に難くない。なのに帰還した矢先に再度命と自由を賭けさせるようなことをどうして無理強いできようか。しかも空也は仁威にとって赤の他人なのである。


 黙りこんだ晃飛に仁威が少し首を傾げた。


 だが晃飛の意志を尊重し、それ以上は訊かなかった。


 代わりに「珪己はどうしている?」と訊ねた。



 *



 とうとう仁威は零央に、晃飛の家へと戻ってきた。


 そんな仁威だが、砂南州の北に位置する山の中、深い森において一度生きることを放棄している。大型の狼と遭遇し、このまま噛みつかれて死んでも構わないと思ったのだ。それほどまでに限界にきていたのである。


 だが結局、こうしてここに戻ってきた。


 死ぬと決めた途端、この命、この生が惜しくなったのだ。


 もっと生きたい――そう願っている自分がいた。


 なお、ここでいう『生きる』とは、ただ食べて寝て寿命を全うするような人生を指していない。仁威の求める『生きる』とは、己が望む唯一のことに正直になること、望みを叶えることを自分自身にゆるすことだった。


 珪己に会いたい――それが死に直面した仁威が抱いた唯一の望みだった。


 罪も罰も義務も禁忌も――これまで背負ってきた何もかもを己が命とともに下ろした瞬間、そのささやかな望みは今までにないほど純化して仁威の手の内に姿を現したのである。


 会いたい――。


 ならば、会おう。


 願いをかなえると決めた瞬間、仁威は立ち上がっていた。生と死のはざまから脱却するや、往路以上の速度で森を通り抜け、いくつもの山を越え、そしてここ零央へと戻ってきたのである。


 この愛を実らせたいとか、一生を珪己と共に過ごしたいとか、そんな分不相応なことは一切望まず、ただ会いたい――その望みだけを胸に秘めて。


「珪己はどこだ?」


 再度訊ねた仁威の声はやや急いたものとなっている。


 この家の門扉に手をかけた瞬間、道場から異様な気配が漂っていたので真っ先にここに足を踏み入れたが……仁威が今すぐ実行したいこととは究極の願いをかなえることに他ならなかったのである。


 その先のことは考えていない。


 それほどまでに珪己との再会を狂おしく望んでいる。


 だが仁威の再三の問いにも晃飛は答えようとはしなかった。

 いや、答えないというよりも、どう答えようかと思案していたのだ。


 その様子が仁威に言いようのない不安を抱かせた。


「どうした。何があった」


 強めに急かすと、今度は「ごめん。ちょっと待って」と晃飛がうつむき考え込み出した。


 しかし思慮の時間はすぐに終わった。


「仁兄がいない間にね……いろんなことがあったんだ」


 万感の思いを込めるかのような言い方に「何を今更」と苦笑してみせたところで、仁威の野性的な勘が不穏な気配をかぎ取った。


「……まさか! 珪己の身に何かあったのか?」


 これに晃飛が慌てて「悪いことは何も起こっていないよ」と否定した。


「あの子は健康だし今も自分の部屋か居間にいると思う」

「そうか」


 早とちりしたか、と仁威の肩から力が抜けた。


 だが晃飛の表情はいまだ思慮深さに彩られていた。


「……仁兄がいない半年の間にさ、ほんと色々あったんだ。でもって今も頭がおかしくなるような非常事態なんだよね。あのさ、ちょっと俺の話を聞いてもらえないかな。ここで……妹なしで」


 そう言う晃飛の顔は至極真面目で、簡単に拒否することのゆるされない重みが声の端々から感じとれた。だから仁威は戸惑いながらもうなずいた。はやる気持ちにはいったん蓋をして。


「よかった。ありがとう。……あのさ、空斗」


 名を呼ばれ、呆然としていた空斗がはっとした顔になった。


 晃飛にきちんと名を呼ばれたのがこの時だったことに、空斗はいつ気づくだろうか。


「あの子の様子を見に行ってくれないかな。俺達が道場の方にいることに気づいたらこっちに探しに来てしまうかもしれないから」


 ここで晃飛はいったん仁威に視線をやった。


「俺達二人での話が終わったらそっちに行くから」

「……分かった。足止めしておけばいいんだな」

「ああ。頼んだ」


 と、空斗が泣く寸前のような表情になった。


「……さっきは済まなかった。どうしてもあいつのことになると感情を制御できなくなってしまうんだ。自分でもどうしようもないんだ……」


 苦悩の表情を浮かべる空斗はすでに理性を完全に取り戻している。


「俺がしたことは絶対にゆるされないことだ……。理由がなんであろうと、あんたに剣を向けるなんてしてはいけなかった……。ほんとうにすまない……」


 変わると決めろ――そう雨渓にはっぱをかけられていたというのに、結局まだ変わることができずにいる。その結果、空斗はとうとう無関係の男を殺してしまうところだった。


(たとえ弟の緊急事態だろうと、俺はしてはいけないことをするところだった……!)


 滝の水を浴びたかのように、空斗の全身は冷えた汗で濡れそぼっている。


 これに晃飛はあっけらかんと笑ってみせた。


「いいよ、もう。俺は傷一つ負っていないし、君の気持ちもよく分かるから」

「だが……」


 まだ言い募ろうとする空斗に、「ああもう」と晃飛が苦い顔になった。


「今はそれどころじゃないだろう? この話はまた落ち着いた時にいくらでもしてあげるから」


 それは確かにその通りで、本当はもっと己を責めてほしくてたまらなかったが、空斗はそれを望むことをいったん保留にした。今は自己的な満足を得ようとする時ではない。


 空斗がふらふらとした足取りで去り、二人きりになった道場で、まず仁威が口を開いた。


「その体はどうしたんだ」


 その目が晃飛の全身をくまなく検分している。


「あ、これ? 十番隊の奴らにやられちゃったんだよね。カッコ悪いだろ」

「……ああ。夏の一件のせいか」

「そういうこと」


 ようやく話が動き出した。


「えらくひどくやられたんだな。いつやられた」

「年末。足だけじゃないよ、肋骨も二本折れたんだから」

「それだけじゃないだろう」

「え」


 どきり、と晃飛の心臓が跳ねた。


「左の目が泳いでいる。虹彩の焦点が時折不規則にぶれている。殴られたのか?」

「……よく分かったね」

「視力に問題が生じているんじゃないか」


 まだ医師の韓にすらそこまで見抜かれていないのに、と内心晃飛は冷や汗をかきつつもしぶしぶ認めた。


 だがこの件についてさらに追及してこようとする仁威に、晃飛はすかさず制止をかけた。


「待って。その話はあと。今はもっと大切な話をしたいんだ」

「なんだそれは」


 と、その時。


 母屋に戻ったばかりの空斗が息せき切って割って入ってきた。


「あんたの妹がどこにもいないっ!」

「……はあ?」

「どこにもいないんだ。部屋も居間も庭も台所も、どこもかしこも探したけどいなかった!」

「なんだって? ……あ、もしかして!」


 すべてを悟った晃飛に、空斗がやつれた顔でうなずいた。


「沓が見当たらない」

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