3.弱くても卑怯でもなんでもいい
ふらふらと、茫然自失の状態で空斗が帰宅すると、その様子の異常さを晃飛が即刻見とがめた。
「どうしたの? いくらなんでも帰ってくるのが早くない?」
「……やっぱり今日はやめた」
「は? なんで?」
鋭さを帯びた狐目は、空斗のまとう焦りと不安を容易に見い出した。
「……何かあったのか?」
「いや」
「嘘だ。何かあったね? ……弟の身に何かあったのか?」
真に迫る迫力に、言わないでおこうと決めたばかりの秘密を空斗はあっけなく吐露してしまった。
「あいつが……空也が十番隊に捕まったらしい」
「は? なんだって?」
「今、鯰池楼ってところで、ご」
拷問を受けているらしい、と言いかけて、空斗の喉がぐっとつまった。
言葉に出せば出すほど、その事実が事実となってしまいそうで――怖い。
とはいえ、その酒楼の名はこの街に住む者にとっては非常に悪名高いから、聞いた瞬間、晃飛は言葉を失ってしまった。
「……俺は間違っていたのかもしれない」
ぽつり、と空斗が弱音をこぼした。
「俺や空也がやろうとしていたことは無謀だったのかもしれない。俺達には分不相応な理想を追いかけようとしていたのかもしれない……。あいつにもしものことがあったら……お、俺は……」
頭を抱え、空斗がその場にうずくまった。
そして感極まって叫んだ。
「俺はもう弱くても卑怯でもなんでもいい! なんでもいいからあいつを助けたい! 今何か一つを選べるというのなら、俺はあいつを助けたいっ……! もうそれ以外には何もいらない! 望まないっ……!」
かといって一人で件の場所に乗り込んでも勝ち目はない。
それは空斗にもはっきりと分かっていた。
けれどここでじっと待っているだけなんて――耐えられない。
「あいつを失ったら俺は……!」
頭を掻きむしりうずくまった空斗の肩に、晃飛がそっと手を添えた。
「大丈夫……きっと大丈夫だ。無事を信じよう、な?」
だが慰みの言葉はなんら響かず、それどころか一つの言葉に空斗の我慢が限界を超えた。
「こんな時だけ簡単に『信じる』なんて言葉を使うな! 俺は、俺は……!」
うわあああ、と金切り声をあげ、空斗があらぬ方向へと駆けていった。
そちらには道場がある。
今の空斗が見れば瞬発的に手に取りかねない、木刀や長剣といった武具が山のようにある道場が――。
「あ、おい! 待って!」
道場主の責務としても、空斗の雇い主としても見過ごせる状況ではない。
血相を変えた晃飛が杖をつきつつ後を追いかけていく。
*
遠ざかる喧騒の中、無人となったその場に姿を現したのは――珪己だ。
珪己は二人の会話を壁一枚へだててすべて聞いていた。
「空也さんが……捕まった?」
頭は真っ白になっている。だがそこに昨日の空也の様子を無意識に思い描いていた。自分の代わりに闘おうとしてくれた心優しい空也のことを。だが棒を手にとった直後に様子がおかしくなって……。
(空也さん、きっと今、苦しんでいる)
珪己は急いで部屋に戻ると壁に立てかけていた木刀を手に取った。
(……早く助けに行かなくちゃ!)
それは妊娠が発覚するまで毎日のように振っていた子供用の木刀だった。だが少し考え、元の位置に戻した。昼間から木刀片手に妊婦が歩いていたら変に思われるからだ。それにこの体では木刀をうまく使いこなせる自信はなかった。
次に、珪己は無意識で頭の上に手をやっていた。
そこにはいつものごとく、愛用の簪が二本刺さっている。
その感触を確かめるや、珪己は財布を懐に入れてすぐさま家を飛び出した。
*
杖をつき、片足を引きずりつつ、ようやく晃飛が道場にたどり着くと、案の定というか最悪というか、空斗が抜き身の長剣を手にとっているところだった。
刀身を見つめるその目は異様なほどにぎらついている。
「おい、よせっ!」
だが空斗は晃飛をちらとも見ようとしなかった。「止めても無駄だ」と語るその横顔は興奮の嵐を通り過ぎ、一見、異様なほどに落ち着いてみえる。だが狂気に燃える目は、それが偽りの仮面であることを露骨に語っていて――。
「……やめろっ!」
晃飛はとっさに叫んでいた。
「行ったらだめだ! 君一人で勝てるわけがないだろうっ?」
これに空斗が自嘲気味に笑った。
「……勝つ必要なんてない」
「なんだって?」
「空也を逃がすことができれば、それでいい」
つまりは捨て身、己が身を危険にさらすことで目的を達成しようと企てているという。それはまさに、先程単独で出立してしまった珪己と同じ発想だった。
「それだって無謀すぎる! そんなことも分からないのか?」
十番隊が約三十名ほどの隊員を有していることを晃飛は知っていた。
この時間帯にその鯰池楼に全員が集められているとは思えないが――今はまだ屯所にいるべき時間帯なのだ――それでも十数人は待機していると見た方がいいだろう。
そのうちの一人と対戦するだけでも危険な行為なのに、十数人と同時に闘うというのはいくらなんでも無理がある……。
事実と事実の因果関係を、それらから導き出される未来を、晃飛は次々に思いついていった。だがそうやって算盤のように脳内ではじきだされた結果には、勝算などどこにも見当たらない。であれば――。
「いいから落ち着くんだ」
慎重に言葉を重ねていく他、ない。
「がむしゃらに動いてどうするんだ。救出に向かうにもまずは策を練るべきだろう? こういう時こそ冷静にならないと」
「あんたも応様と同じことを言うんだな」
「応……? え? 君さ、あの応双然と知り合いなの?」
なぜここでそいつの名前が出るのかと晃飛がいぶかしんだところで、「知り合いも何も、俺は御史台の駒だ」と自虐気味に空斗が言った。
「は……? 御史台だって?」
「応様は監察御史だ。そして俺は元武官ではない。今も武官だ」
なるほど、なんかいけ好かない奴だと思ったらやっぱりただの新人武官ではなかったんだな、と双然との間に起こった数々の出来事に想いを馳せながら、
「まずは落ち着くんだ」
晃飛は再度説得を試みていった。
正直、今は応の正体なんてどうでもいい。
「君に空也のことを知らせに来たのは応双然なんだね?」
「……」
「なるほどね」
沈黙は認めたことになる。
「でもあの策略深そうな応双然のことだ、空也を救う手立てを考えてくれてはいるんだろう?」
これに空斗が痛ましげに表情を歪ませた。
(……図星、か)
なんとなく、ほっとした。
御史台の一員である双然が動こうとしてくれているのだから、と。
その隙を察した空斗が瞬発的な動きを見せた。
抜き身の長剣が二人の間に突如大きな円弧を描き、とっさにすり足で下がった晃飛の目の前を錆ついた剣先が走っていった。
しかし、不安定な心で捌く剣には晃飛を脅かすほどの威力はない。
(最近研いでなくてよかったな)
そんなどうでもいいことを考えながら、剣が舞い終わる様を晃飛は冷静に眺めた。
だが、この一撃で気が済んだだろうと思っていた晃飛の当ては外れた。空斗が剣を返しがてら、二度、三度と連続して振りかぶってきたのだ。そのたびに晃飛は後退するはめになった。間合いをはかりつつ、少しずつ、少しずつ。
これくらいは片足が不自由でもどうということはない。
だが出入口へつづく道は決して譲らない。
譲れば、空斗がここから飛び出してしまう恐れがあるからだ。
そうなれば足の悪い晃飛には取り押さえることはできなくなってしまう。
「あんたには俺の気持ちが分かるはずだ!」
汗を飛ばしながら空斗がしゃにむに剣を振り回す。
「あんただって俺と同じ立場なら同じことをするはずだ!」
汗だけではなく、そこには唾や涙も混じっている。
「俺の気持ちが分かるならそこを通せっ! 何もしないでここで待っているなんて、そんなこと……!」
ぐしゃぐしゃに顔を歪ませた空斗が剣を頭上に高らかに掲げた。
「そんなことできるわけがないだろう……!」
思いきり振り下ろされた剣は――晃飛の肉も骨も断たなかった。
いや、晃飛は今回は一歩も逃げていない。
完全に剣との間合いに入っている状態で突如視界が歪み、なおかつ足がすべって逃げ切れなかったからだ。
我を忘れた空斗にあわや殺されかけた晃飛は、その瞬間死を覚悟して目をつむった。
だが――予想していた衝撃は降りてこず、代わりに背後に大柄な誰かがいる気配と、肩を抱く大きな手の感触とに気づき――。
うっすらと目を開けると、額の高さで空斗の剣が木刀によって制されていた。
やや斜めに傾いだ木刀は垂直な長剣の動きを逸らすことに成功し、刃の一部を斜めに食い込ませていたが刃を御することに完全に成功していた。
晃飛がとっさに振り向くと、そこにはずっと帰りを待ち望んでいた男がいた。
――袁仁威だった。




