8.楽しかったなあ
若者は珪己を市場からやや距離のある川岸まで強引に運んだ。問答無用で。
いくら天気が良くても冬は冬、水辺近くは見るからに寒そうだ。枯れた草が風に吹かれてそよそよと揺れている。人どころか猫一匹見当たらない。
「降ろしますよ」
若者の言うとおりにその首に回していた腕を解くと、珪己は壊れ物のようにそっと地面におろされた。
ようやく硬い地面に足をつけることができたのと先程の闘いの余韻とで、珪己は降ろされるやその場に尻をついてしまった。
「疲れましたか?」
「は、はい」
息を整えながらも珪己はなんとか答えた。しばらくは立ち上がれそうにない。だが若者の方は息一つ切らしていない。それなりの距離を、それなりに重い珪己を抱えてそれなりの速さで走ったはずなのに、だ。
妊娠していなければ、身も知らぬ若者の言うことなど無視していただろう。腕を振り切り、地面に落下することを選んでいただろう。珪己とはそういう人間なのである。しかし身重の体ゆえに、安全第一でここまでおとなしくしていたのだった。
余裕がでてきたところで、珪己は隣に立つ若者を注意深く見上げた。
金にも人生にも困ったことのない道楽息子――それがこの若者から一見して受けた印象だった。ちょっといい衣をちょっとくだけた感じで着こなしているのもそうだし、今も目が合うや無邪気に笑えるあたり、第一印象そのものの人物のようだ。それが珪己の推測だった。
だが重要なことについては何も分かってはいない。
突如現れるや十番隊の武官を一撃で倒してみせたその理由も、素性も何もかも――。
「……あの」
「はい?」
「お訊きしたいことがあります」
これに若者は表情には出さずに内心苦笑した。
いちいちお伺いを立てるなんて間抜けのすることだ、と。
そう――この若者、突飛な行動をするだけあって普通の人間ではなかったのである。
だが表面上は人好きのする笑みを浮かべておく。
「すみません。あんまり時間がないんですよね」
それにあまりこの妊婦に関わりたくない事情もある。
たまたま争いの現場に出くわして助太刀をしたわけではないのだ。
だがこれに珪己が縋った。
「せめて一つだけでも」
「ええー。一つですか。……うーん。いいですよ。一つだけですよ。何ですか?」
問い返しながら、なんとなく品定めをしている自分に若者が気づいたところで。
「あなたはどういう方なんですか?」
そう珪己が言ったから、若者は思わず息を飲んでしまった。予想外の質問だったからだ。だが一つ考えてなるほどと思った。どういう方、という問い方にはすべての疑問が内包されている。
だからだろう、つい正直に答えていた。
「僕は応双然。五番隊に所属しています」
「五番隊……」
だから、と言いかけた言葉を珪己はなんとか飲み込んだ。武芸の腕もそうだが、抱えられている際に感じた若者の体躯からも、確かに武芸に通じる者特有の性質を感じられたからだ。
とはいえ、この街にこのように腕の立つ武官がいるというのは新鮮な驚きだった。武官の質は首都から離れれば離れるほど低下する傾向にあることを、珪己は枢密使である父との会話から察していたからだ。たとえばあの野蛮な十番隊の隊員が正式な武官を名乗れてしまう理由も、珪己は仁威や晃飛に訊ねたことは一度たりとてない。元犯罪者を採用すればありえる話、と理解しているからだ。
この人も服装からして今日は非番なんだろうな、と珪己が推測を重ねていたところ、「あなたは梁晃飛先生の奥さんですよね」と逆に双然から問いかけられてしまった。
「あっ、はい」
わずかな間はできてしまったものの珪己は素直に首肯した。……してしまった、というのが正直なところか。
すると双然が親しみのある笑みを浮かべた。
「僕、梁先生には稽古でお世話になってるんですよ」
「あ、そうだったんですね。あの、先程は助けてくださってありがとうございました」
あわてて身内らしい礼を述べると、これに双然が「いえいえ」と謙遜してみせた。
「でも、今日僕に会ったことは秘密にしておいてくださいね。十番隊に逆らったことがばれたら、僕の上司が十番隊に責められてしまうので」
あそこの屯所はそういうところなんです、と付け加えられ、珪己は「分かりました」とうなずいた。
「ああ、よかった」
「……あの。私がさっきしたことも誰にも言わないでもらえますか」
武芸に通じる女、しかもこの年恰好の女が闘っていたなどといううわさが広く伝われば、楊珪己がこの街にいることがばれてしまうかもしれない、そう思ったのである。
実はさっきまではそこまで思い至っていなかった。闘わなくてはいけない状況は嵐のように突然やって来たからだ。いや、たとえ時を巻き戻せたとしても同じ選択を繰り返すだろうが……この行動によって自分の居場所を芯国人に知られることがあっては駄目だ。絶対に。少なくとも出産してからでなければ――。
だから今は絶対に知られてはならない。
ただ、双然には別の理由を述べるにとどめた。
「これ以上晃飛さんに心配かけたくないんです」
「ああ。ですね。じゃあ僕達だけの秘密ってことで」
いたずらっぽく口元に人差し指をあて、軽く片目をつむるあたり、やっぱりこの人は第一印象どおりの人なんだな、と珪己は思った。信用しきるにはすべてを見せてくれてはいないけれど、それは自分も同じだから、もう詮索する気にはなれなかった。
*
珪己と別れた双然は川のほとりで小石を投げながら独り言をつぶやいていた。
「あんまり色々やられると、僕としても看過できなくなっちゃうんだよなあ」
ぽちゃん、と軽い音をたてて小石が水中に沈んでいく。
実は双然は今日の争いが始まる前――つまり、あの哀れな姉弟が三人組にからまれたところからあの場にいた。でも止めなかったのは、それをすることを禁じられているからだ。
御史台所属の双然は、当然武芸の腕が立つ。しかし今はその経歴も腕前も伏せて新人武官として五番隊に所属している。なぜなら双然含め、この零央に滞在する御史台の官吏に与えられた任務の一つとは、八年前の楊武襲撃事変に関わった元武官を捕えることだからだ。
「あいつらには僕の顔は見られていないだろうけど……上司にばれたら怒られるだろうなあ」
ここでいう上司とは五番隊のことではない。
双然の本来の職、御史台のことである。
ぽちゃん、と音が鳴るたびに水面に波紋が広がっていく。
「ああ、でも。あの人は意外と人情家だからな」
ぽちゃん。
「梁晃飛の妻を助けたと知ったら褒めてくれるかもしれない」
ぽちゃん。
「……あれ、よかったなあ」
ぽちゃん。
「やっぱり闘うのって楽しいよなあ」
ふう、とついたため息には、言葉通りの充実感と多幸感が存分に含まれていた。
「悪い奴を思いきりぶちのめしたくて御史台に入ったのに、なかなか腕を振るう機会がないんだもんなあ。……うん、でも今日はよかった。すっきりした」
立ち上がると、手に持っていた最後の小石を水面に投げた。
ぽちゃん。
「……そういえば、どうしてあの奥さんは武芸に通じていたんだろう?」
もっと早くに気づいていてしかるべき疑問に今更ながらたどりついたが、
「ま、いいか」
上司が開陽から戻ってきたら報告しておけばいいか、と思い直し、以降、すっぱりと考えることをやめた。
鼻歌を歌いながら帰路を歩く双然は、今日の快感を何度も反すうし、そのたびに満面の笑みを浮かべたのであった。