7.自画自賛
「さあて」
幼子を手放した男がおもむろに腰の剣へと手を伸ばした。
外されることのない視線の強さは、珪己を獲物と認定したがゆえのことだ。
「ご希望にこたえて遊んでやるよ」
狂気に染まった目が珪己をきつく見据えている。
やがて男の手が柄に触れ、故意に力を込めて握りしめた。
ぎりりり――!
その場にいる人間すべての心臓を握りつぶさんとするかのような重く鈍い音に、すべての群衆が完全に口を閉ざした。隣り合う者と細々と会話していたわずかな人間や、ぱらぱらと立ち止まっている人々の間にまで、静謐かつ緊迫した空気が伝ぱしたのだ。
誰もが話すことも動くこともかなわなくなっている。
指先一つ動かせば自分達に災厄が降りかかりそうで、そんな危険を冒せずに立ち尽くしている。
この異様な圧こそが、十番隊がここ零央で自由闊達に振舞える理由なのかもしれない。正義はここにはないのだと、自分達は弱者であり狩られる側なのだと……誰もがそう理解せざるを得ない圧がこの三人組から発せられている。
だが。
どうやらこの男達、ただの野蛮な人種ではなかったようだ。
というのも、ついさっきまで哀れな姉弟をいたぶろうとしていた時よりも今の方が随分興奮しているからだ。体中の血を沸騰させ、さながら闘いそのものを味わおうとしているかのようだ。
十番隊はそのほとんどが元犯罪者で構成されていて、しかるに彼らも元犯罪者だ。だからといってはなんだが、十番隊の面々は人をいたぶることへの抵抗が常人よりも低い。その上最悪なことに、隊長である毛の洗礼を受けてしまった結果――彼らは闘うという行為に快感を得やすくなってしまっていた。
そのことを珪己は知らない。だが、知らなくても察しはついていた。男達のぎらつく目には珪己も有するとある性質が垣間見えたからだ。闘いの場でなければ――剣を持たなければ生じない熱を。
この気づきが珪己に味方した。
そういう人間を相手にしているのだと気づいたことで、ある種稽古場にいるような錯覚を覚えたのである。
本気で向かい合ってもゆるされる相手だと認められれば、もう遠慮はいらない。群衆のように過剰に緊張し怯える必要もない。棒ならば、自分の力、業では相手を殺すこともできない。ならば全力で闘える――。
体重をかけていた珪己の前足が自然と動き始めた。
腹の大きさは不利になるはずなのに、ものともしない俊敏さで男達との距離を詰めていく。
頭で考えたのではない、すべてはこれまで培ってきた経験ゆえだ。
これに瞬時に動いたのは例の背がもっとも高い男だった。
珪己の沓底が砂利道を擦る音がしたかどうか、その程度の時間で鞘から一気に長剣を抜く。
遅れて残る男二人が柄に手をかける。
だが珪己の方が一足早かった。自らが進む速度にのせ、身近な男の腹へと棒を一直線に繰り出していく。
珪己の肩から足まである長い棒が吸い込まれるように男の腹へと沈んでいき――ぐう、と唸り声をあげた男がその場に倒れた。
まずは一人だ。
「この野郎……っ!」
だがもう一人の男も剣を半分しか抜くことができなかった。
棒で闘う利点は二つある。
一つは長剣よりも長く間合いを広くとれる点、そしてもう一つは両端どちらからでも等しく攻撃できる点だ。
珪己は一人目の男の腹を突くや、その手の内で棒を滑らせつつ持ち替え、振り向きざまもう一方の端部で二人目の男の腹を突いた。
「……っ!」
こちらの男は呻くことすらできずに意識を手放した。
どう……っ。
どう……っ。
一般人と比較すれば明らかな巨体が二体、わずかな間を置いて連続して地面に倒れた。
この時、最も手練れと見える男は、珪己との間に存在した仲間二人が邪魔で剣を振ることすらできなかった。
無我夢中での攻撃を終え、珪己は肩で大きく息をした。
(やっ……)
手の内にはしっかりと人の肉を突いた感触が残っている。
(やった……!)
こうもうまく相手を倒すことができるとは思っていなかっただけに、強い達成感と充実感を覚えた珪己の顔がみるみる朱に染まっていく。
棒での闘い方は仁威や晃飛との稽古で学んでいたし、自分一人でも検証を繰り返していた。もちろん実戦で同じように動けるかどうかは別だし、そのことを珪己は幾度とない闘いの場から学んでいたが――今回の業は完璧としか言いようがない。自画自賛ではなく珪己はそう思った。
残るは一人だ。
頬を紅潮させ、爛々とした目で、珪己は最後の一人に棒を構えた。
「……お前、生意気がすぎるな」
珪己の発する闘気に触発され、男の眦が限界までつり上がっている。
抜き身の剣先が珪己に向けられる。
だが――その剣が自分の眉間に向けられる寸前に珪己は動いていた。
(先手必勝だ……!)
と、その時。
男の方へと引きつけられる強い風圧を珪己は感じ、珪己は本能的にその場に踏みとどまった。沓の裏がぬかるみで滑りそうになったのをなんとかこらえつつ。
その直後、男の全身がぐんと前方に傾いた。
からくりのような不自然な動きに珪己が身構えのは一瞬のこと、男は白目を向くとそのまま前方に大きく体を傾けていき――顔から地面に倒れた。先ほどの二人よりも重厚な音を立て、大量の泥水を跳ね飛ばしながら。
男がいた場所には見知らぬ若者が立っていた。
その拳の形、上半身の構えからして、若者が男の急所を背後から突いたことは明らかだった。
「あなたは……誰?」
ただの街の人間にしては武芸に『通じ過ぎて』いる。
このような時にそのような人間が突如現れること自体、不自然だ。
だが若者は何も言わない。しかも珪己が警戒を解くことなく棒を構えたままでいるというのに、あっという間に間合いに入り込んできた。
かと思ったら――若者は身重の珪己を軽々と横抱きに抱え上げた。
「きゃっ」
珪己の手から棒がころんと落ちた。無様なほどにあっけなく。
「ちょ、離してくださいっ」
「今は逃げますよ」
「は?」
「首にしがみついてくださってけっこうですから」
言うや、男は珪己を抱えてこの場からずらかったのであった。