2.転んだら足元に転がっている枝を叩き折るように
珪己は空也のそばに腰を下ろした。大きな腹との釣り合いを取りながら、そろそろと。
地面に尻がついた瞬間、全身をびりびりとした痺れが貫いた。全身から一気に力が抜けてく。しばらくは歩くどころか立ち上がれそうにもない、それほどまでにひどい疲労感だ。
「はああ……」
これほどまでに重いため息をついたことはない。いや、生涯においてこれほどの極限状態に陥ることは二度とないだろう。そうであってほしい。そんなことを思いながら、珪己はもう一度深く息を吐いた。
途端に空也が心配そうな表情になった。
「妊婦に無理させちゃったな」
これに珪己はかぶりを振った。
「大丈夫です。それに空也さんに無理させているのは私の方ですから」
「え?」
「やっぱり一人で山を下りるなんて無理だったし、自分の馬鹿さ加減を今更実感してます。あの……本当にありがとうございます」
だが空也は謙遜も否定もしなかった。
「ほんとにそうだよ」
逆にしかめっ面をしてみせる。
「俺がいなかったらまず道に迷っていただろうし、そうじゃなくても谷底に落ちてたぞ」
「きっとその前に寒さと疲れで倒れていたと思います」
真面目な顔で受け答える珪己に、空也がぷっと吹きだした。
「だな」
焚火がいい具合に燃え盛るようになったところで、空也は背負っていた袋の中から小ぶりの鍋を取り出した。そして来た道を引き返し、雪を鍋に大量にすくって持ち帰ってきた。
鍋からはみ出すどころかうず高く積まれた雪、その半分を空也はこれまた取り出した椀の上に載せる。そして残った雪ごと鍋を火にかけて揺すりだした。
「まずは飯だ」
空也の袋からはそれからも様々なものが取り出されていった。炊いた麦を固めたもの、蒸かした芋、それに昨夜食べた魚の一部を煮だしたものなど。それらは鍋の中、すでに雪も解け液体になったところに次々と投入されていった。
休みなく動く空也を、珪己は手足の指を炎に近づけこすりながら見守っている。そうして血流を刺激してやらないと凍傷になるから、と先ほど空也に言われたのだ。触感を失いかけていた皮膚はしばらくすると痒みを感じ、ついで色味に血の気が戻っていった。
そうこうしていると魚特有の香りがあたりに漂いだし、うつらうつらしかけていた珪己の口内に自然と唾が湧いてきた。なんとしてでも山を下りると覚悟し、食べ物も飲み物も何も持たずに出ていこうとしていたくせに、香り一つで空腹で眩暈がしてきそうだった。耐えがたいほどだった眠気もすっかり消えてしまった。
らんらんと目を輝かせる珪己に「すぐにできるから」と空也が苦笑した。
食材は一度火を通したものばかりなので、軽く煮立てれば雑炊の完成だ。それを空也が椀にすくって珪己に渡した。
「ほい」
「ありがとうございます」
温かな椀を顔の前に近づけると、魚の香りがする湯気の中からほのかに甘い香りがした。こちらは麦と芋の香りだ。
食事を摂れることのありがたさを珪己がしみじみと噛み締めている隙に、空也は自分の分をよそって勢いよく腹に収めていく。
「早く食べろよ」
あっという間に食べ終え、おかわりを自分の椀につぎ足しながら空也が言った。
「食べたら少し横になろう。体を休めて温めて、それから仕切り直しだ。まだ道のりは半分残っているんだから」
すべての雑炊を食べ終え、あらためて空也が沸かしてくれたお湯を飲み、それから二人は横になった。ぱちぱちと炎の爆ぜる音、色、熱、それに満腹になった腹の相乗効果で、二人はすぐに眠りに落ちた。どちらが先に眠りについたかも分からないうちに。
*
目が覚めたら隣にいるべき存在がいないということに、氾空斗はなんとはなしに寂しさを感じた。そうだ、昨夜は俺一人で街に来ていたんだっけ、と、事実の方が後から追いかけてくる。子供じみた空虚さをたしなめつつ、空斗は無言で着替えると部屋を出た。
空斗が階下に行くと、番台では親父――宿を経営する夫婦の一人――が腕を組んでこっくりこっくりしていた。
「おはようございます」
「あ、ああ。おはようさん」
びくりと震えた刹那、居眠りしていたのを悟られないように親父の目が挙動不審に動いたのを、空斗は内心愉快に思った。
「ゆうべは遅かったのにもう行くのかい」
なんとも分かりやすい誤魔化し方だ。だがそういう正直な人物のほうが接していて楽だから、空斗の含み笑いは自然と朗らかなものへと変わっていった。
「ええ。ちょっと寄りたいところもあるし、早く家に帰りたいですしね」
「そりゃあそうだ。なんたって今日は徐夕(大晦日のこと)だからな。ああ、そうそう。それに……」
親父が何か言いかけたのを遮るように、番台の後ろ、厨房の方から女がでてきた。
「おはようさん」
「おはようございます」
「頼まれていたものがちょうどできたところだよ」
女は親父の妻で、つまりはこの宿の女将だ。
「はいよ」
昼飯にするふかし芋、温石、それにまだ温かい肉饅頭が手渡された。
「ありがとうございます。あの、そういえば」
宿代含めて料金を精算しながら、空斗はそれとなく訊ねた。
「最近、十番隊が若い男を襲ったって聞いたんですけど。本当ですか?」
それに二人が揃って顔をしかめた。
「そうなんだよ。うちに泊まっていたことのあるお客の旦那さんなんだがな」
これに女将が言葉を重ねてきた。
「その旦那さんの看病にさ。この前私ら二人で行ったんだよね」
「へえ。二人で」
「ほら、ちょっと縁もあるからさ。でももう見てられなかったね。全身怪我だらけで、痛々しくてさあ……」
そっと袖を目尻にやった女将は言葉が続かないようで、また親父が語り出した。
「だからお前さんも気をつけろよ。年末年始はあいつら仕事もないし、一の奴らがいないのもあってたがが外れやすいんだ」
一とは……一番隊のことだろう。空斗の地元でもそうやって数字だけで呼んでいた。
「へえ。あの十番隊がひどく暴れる時期っていうのがあるんですね」
「おおっと。その名はここでは軽々しく口にしねえほうがいいぞ」
親父が慌てて周囲を見回した。そして自分たち三人以外には誰もいないことを確認するや、見るからにほっとした。
「……あいつらは今、暴れたくてたまらないのよ」
顔を近づけ、声を潜めて警告する。
「腕っぷしの立つ男をやり込めてすっきりしたせいか、次の獲物が欲しくてたまらなくなってるって噂だ。転んだら足元に転がっている枝を叩き折るように、なんでもいいから因縁をつけられるきっかけを探してる、そういうことよ。さっき言おうとしてたのもそういうことでさ」
「うん、だから早く山に帰った方がいいよ」
真剣な面持ちで女将が忠言してきた。
「あんたらが山奥に住んでみるって言い出したときは、何を遊び半分でって思ったけどさ。今間違いなく危険なのはこっちの方だよ。あ、これも持っていきなね」
女将が小麦の粉が入った袋を渡してきた。
「これは餞別にあげるからさ、しばらくは街に出てこない方がいいよ。できればひと月、一がこの街に戻ってくるまではここに近づかないほうがいい」
「そんなに危険なんですか?」
これに女将が神妙な顔でうなずいた。
女は危険に対して過剰に反応し警戒するものだが、夫婦そろって同じ表情をされては……信じるほかないだろう。長くこの地に住む二人がここまで警戒心を抱くほど、今、零央の街は危険なのだ。
「よそ者とか若い男とかさ、腕の立ちそうな奴が標的にされやすいんだよ。それってつまりはあんたたち兄弟みたいな奴だろ?」
聞けば聞くほど物騒な話だった。
*