5.震えるほどに怖くても
あまりの事態に直面し呆然としていた珪己だったが、次の瞬間、とっさに空也の腕を掴んでいた。
どうした、と問いかけた空也だったが、それ以上は言葉が出てこなかった。
ついぞ見たことのない鬼気迫る珪己の表情に――気迫に圧倒されてしまったのだ。
「あの人達! ゆるせない……!」
険しい表情のまま、あたりをざっと見渡した珪己は、蕎麦屋の入口近くに立てかけられてあったつっかい棒に気づいた。
「おじさん、この棒貸してください!」
「そんなものどうするんだ」
珪己はこれに答えない。「すみません、借ります」と、許可を得ることなく手に取った。
「お、おい。どうしたんだ急に」
突飛な行動に驚きを見せた空也だが、珪己の方では空也の存在を意識の外に追い出してしまっていた。視線も意識も無法者三人へとまっすぐに向かっているし、凛々しさすらある横顔には迷いの色が一切見えない。
が、次の瞬間――。
「待てよ。俺がやる」
空也が問答無用で珪己から棒を奪い取った。
代わりに宿の夫婦にもらった料理の包みを投げるように渡す。
それはもう頭で考えた行動、決断ではなかった。
珪己が女だからとか、年下だからとか、あまつさえ妊婦だからとか、そういう誰もが納得する理由によるものでもなかった。
実際、今の空也はそれらを一切気にしていない。
この時の空也の心理をもっとも的確にとらえる表現があるとすれば――感化、これに尽きた。
あの三人の男と闘って呉珪亥と名乗るこの妊婦が勝てるとは到底思えない。それこそ、女で、年若くて、身重なのだから。なのに闘うことを選択したのだ――我が身を顧みることなく。己の信条に従って。その事実一つによって空也は感化されたのである。
無謀なだけなのかもしれない。いや、実際そうだろう。それでも、空也にはその決断、その行動こそが最善だと思えたのだ。
奪い取ったばかりの棒をきつく握りしめる。武器になりそうなものを手にしたのは武官だった頃以来だ。ざらつく表面に負の感情が芽生えかけたのは――きっとそれが理由だ。
「珪亥はここにいてくれ。おやっさん、悪いけどこの子のことお願いしていいかな」
「あ、ああ。それはいいが」
面倒事を引き受けてしまった、という不安げな表情を見せた店主から、男三人の方へとあらためて視線を向ける。今も幼子は空中でじたばたと暴れ、少女は家畜のように引きずられている最中だった。
「空也さん!」
珪己の呼びかけにもこたえない。
顔を見れば弱気が戻ってきそうだったからだ。
きっと心配そうにこっちを見ている。
そういう声をしている。
「危なくなったら逃げろよ」
言うや、わずかに芽生えかけた恐怖に蓋をして三人の元へと駆けだした。
*
空也が離れた瞬間、珪己はつかの間放心してしまった。
それからわずかないら立ちと称賛を覚え……ほんの少し安堵した。
安堵の気持ちは、当然『自分が闘わなくて済んだ』からだ。
自分は身重であるし、相手はたとえ一人であってもかなうかどうかわからない人種だし……珪己の立場にたてば誰もが同じようにほっとするだろう。
だがその気持ちに珪己が恥じ入るよりも先に――何の前触れもなく空也がその場に膝をついた。
と思ったら、両手を地につき、膝立ちになり、すぐに体勢を崩した。雪解け水でぬかるんだ泥が空也の様々な部分を汚し、染めた。
あと十歩ほどで問題の男達に触れられるほどの距離まで近づいた矢先のことだった。
男達は空也の存在に気づくことなく遠ざかっていく。
「空也さんっ!」
「今行ったらだめだ!」
店主の制止する声は背で聞き流し、珪己はすぐに空也の元へと向かった。そしてうつむく空也のそば、ぬかるんだ道に膝をついた。
「大丈夫ですかっ?」
だが顔を覗き込み――これ以上なんて言葉を掛ければいいかが珪己は分からなくなった。
ついさっきまで和やかに語り合い笑い合っていたというのに、ほんのわずかな時間で空也の顔からは血の気が失われていた。真っ白な顔は雪山で暮らしていた時以上のものだ。
地面についた空也の両手が泥を無意識に握りしめている。指の形に深く掘られた計十本の溝の上で、右手だけがか細く震えている。だが、空也の背中は右手よりも大きく震えていた。
赤みを失った唇から、はっはっ、と浅く短い呼吸音がする。
余裕を失った目は数歩先の地面を射貫くように見据えている。
だが、その目が意味のあるものを何も映していないことは明らかだった。
(こんなふうになってしまった人を……私は知っている)
珪己は驚愕によって目を覚ました。
それは『私』のことだ、と。
「空也さん! しっかりしてください!」
空也の耳にはいまだ珪己の声は届いていない。
空也を支配する重く暗い感情は、自分の声が届かないほど厚い――そのことを珪己は察した。
「空也さん!」
それでも何度も呼び掛ける。
「空也さんっ……!」
だが珪己には痛いほどに理解できた。空也の苦しみの根源を。
(きっと……闘うことが怖いんだ)
自分が、護るべき者が傷つけられることを。
同じように、敵を傷つけることを。
傷つけるだけでは足りず、殺してしまうかもしれないことを。
その何もかもが――怖いのだ。
傷つけられれば、痛い。
でも殺されるのは、嫌だ。
だけど護るべきものを護れなかったら、辛い。とても辛い。
かといって敵を傷つけ殺してしまえば、一生ものの業を負うことになるかもしれないという矛盾――。
何が空也のことをもっとも苦しめているのかまでは分からない。分からないが、珪己にも一つだけはっきりと分かっていることがあった。それは空也が『闘いたいのに闘えない』という矛盾に苛まれているということだった。震えるほどに怖くても、本当は闘いたいと願っていることだった。
こんな時、仁威であればどうするのだろう。そんな他力本願な思索に珪己がつい陥りかけたところで――。
「姉ちゃん……っ」
悲哀に満ちた幼子の声が遠方から聴こえた。
その声はかすかに聴こえる程度のものだったが、今の珪己にとってはその一声で十分だった。
(今は迷っている暇はないんだ!)
珪己は空也が取り落としていた棒を拾った。そしてもう一方の手で空也の背に触れた。
びくり、と空也が後ずさり、じゃり、と土と小石がこすれる音が鳴った。
「珪、亥……」
真正の怯えに支配された空也は地面から手足を離すことができなくなっている。顔だけをなんとか上げ、
「お、俺……」
ごめん、と言いかけたことはその口の動きで分かったから――それ以上は言わせなかった。
「空也さんはここにいてください。……行ってきますね」
珪己は無理して笑ってみせると、その表情のまま空也の元を離れた。